「激動の明治維新」(鹿児島県歴史資料センター黎明館)




薩摩旅行記(10)「『激動の明治維新』見学@ −島津斉彬所用の大鎧−」
 『聚珍寶庫碑』を見ながら時間をつぶしていると、ようやく黎明館が開館する午前9時となったので、いよいよ心待ちにしていた


『激動の明治維新 −世界が動いた その時日本は 薩摩は 琉球は−』


 を見学することになりました。
 いつも大変お世話になっております黎明館の学芸専門員であられる吉満さんに、今回お忙しい中にもかかわらず、ご丁寧にご案内・ご解説頂いたのですが、この特別展はほんとうに素晴らしいものでした!!!(大興奮)
 『激動の明治維新』を見ることが出来なかった皆様、是非その図録だけでも手に入れてご覧になってみて下さい。貴重な史料の数々が展示されており、見ているだけで幸せになるほどの充実ぶりでした。おそらくこれだけ素晴らしい展示物や史料の数々が一堂に会して展示されることは、もう今後は無いかもしれないくらいと思ったくらい、ほんとうに充実した素晴らしい特別展になっていました。
 私、絶対に嘘は申しません。この特別展は、私が今まで見た展示会の中でも一番と呼べるほど素晴らしいものでした。
 この場を借りまして、このような素晴らしい特別展を開催されることにご尽力された黎明館の吉満様に、心から感謝の意を表したいと思います。こんなに素晴らしい特別展を見ることが出来て、一歴史愛好家として、そして薩摩藩の歴史を愛する者として、ほんとうに幸せな時間を過ごさせて頂きました。ほんとうにありがとうございました!

 さて、ここからは少しですが、『激動の明治維新』の素晴らしい内容を簡単にご紹介していきましょう。
 今回の特別展は、大きく分けて、次のような四部構成で史料が展示されていました。


第T部「黒船来航と薩摩藩」
第U部「島津斉彬と集成館」
第V部「西洋との衝突と接近」
第W部「薩摩藩と明治維新」



 今回の『激動の明治維新』は、薩摩藩の幕末史だけをテーマにしている小さなものではありません。欧米列強諸国の外圧が迫った「幕末」という激動の時代全体にスポットを当て、その中で日本はどのような経過を辿って明治維新を迎えたのか、また同様に、薩摩藩や琉球はこの激動の幕末という時代にどう動いたのか、というような非常に幅広い視点と壮大なテーマを基調にした特別展なのです。
 また、幕末・明治維新という時代の推移にだけポイントを絞っているのではなく、薩摩藩に興った「近代科学技術興業」や「薩摩藩の外交」、つまり「薩摩藩の対外政策」についても、詳しくそして分かりやすく触れられています。

 それでは、第T部から第W部までを彩る素晴らしい展示品の数々をそれぞれ簡単にご紹介していきましょう。
 まず、第T部「黒船来航と薩摩藩」ですが、ここには一番最初の展示品としまして、


『中国軍艦を攻撃するネメシス号』(ダンカン筆)


 が展示されていました。
 この絵の実物をお見せしたいところですが、インターネット上では不可能ですので、是非、皆さんが学生時代に使われた日本史や世界史の教科書、もしくは現在お子様が使われている歴史教科書の「アヘン戦争」の部分をご覧になってみて下さい。
 この『中国軍艦を攻撃するネメシス号』(ダンカン筆)は、教科書でも頻繁に挿絵として使用されている有名なもので、教科書に載っているものも多いのではないかと思います。
 1841年1月7日のアンソン湾の戦いを描いたこの絵は、アヘン戦争を描いた作品としては非常に有名なものです。特別展の説明板によると、ネメシス号は東インド会社所有の総トン数660tの鉄製気走砲艦で、この一隻で中国側の軍艦を十一隻を沈めたそうです。
 『中国軍艦を攻撃するネメシス号』(ダンカン筆)は、西洋の軍艦の威力の凄まじさを非常に緻密なタッチで描いており、とても迫力のあるものでした。この絵は普段なかなかお目にかかれない貴重な美術品ですので、この『激動の明治維新』の中の目玉展示の一つとも言えるものではないかと思います。
 またいつかどこかで出会いたい逸品ですね。

 次に、第U部「島津斉彬と集成館」ですが、ここでのメイン展示は何と言いましても、


『島津斉彬所用の大鎧』


 です。
 島津斉彬は曽祖父である重豪の影響で、幼少の頃より中国や西洋諸国の文物に興味を持ち、西洋の技術や事情について書かれたあらゆる書物を当時の蘭学者や有識者達に翻訳させ、それを常に読んでいたため、日本に居ながらも最新の西洋事情にも通じていました。
 斉彬はそれら書物から得た知識を元に、時代を見る目、つまり時代認識を養っていたため、その慧眼と経綸に関しては、幕末当時の大名としては、まさしく稀有の存在であったと言えると思います。
 また、斉彬の人物の凄いところは、その得た知識をそのまま頭の中にしまい込んで満足しているだけでなく、それを現実に実現しようとしたことにあります。
 斉彬は、現在鹿児島市の観光名所ともなっている「磯庭園」がある磯浜(いそのはま)という海岸線を中心にたくさんの近代工場を築き、様々な近代科学事業を興しました。この事業は総称して「集成館事業(しゅうせいかんじぎょう)」と呼ばれているのですが、斉彬が実施しようと試みた事業はほんとうに広範囲にわたります。

 「薩摩切子(さつまきりこ)」として非常に有名なガラス製品の製造、蒸気船の建造、汽車の研究、製鉄のための溶鉱炉の設置、大砲製造のための反射炉の設置、小銃の製造、ガス灯の設置、紡績事業、洋式製塩術の研究、写真術の研究、電信機の設置等々、いちいち挙げていけばキリがないほどの、当時の技術水準から考えれば信じられないほどの事業を斉彬は薩摩藩内で推進しました。
 また、その他にも、農業品種の改良や留学生の派遣計画まで、斉彬が行おうとしていた事業は、ほんとうに多岐に渡ります。
 斉彬は「殖産興業」こそ日本の進むべき道であることをいち早く認識し、その第一歩を鹿児島の地で実現しようと試みたのです。ほんとうに凄い人物としか言いようがありませんね。

 少し前置きが長くなりましたが、今回の『激動の明治維新』で展示されている『島津斉彬所用の大鎧』は、実は斉彬が興した近代科学事業とも密接な関係を持っています。
 鎧と言いますと、何だか戦国時代の産物のような印象を持たれる方も多いのではないかと思いますが、実はこの鎧の製造に関しては、斉彬が興した集成館事業と非常に密接な関係を持っているのです。
 本当は写真で色々とお見せしたいところですが、それは叶いませんので、何とか文章でそのことを説明したいと思います。

 この島津斉彬所用の大鎧には、今でも純金かと見間違えるほどの、輝かしい金メッキがあらゆる部分に施されています。その金メッキが施された部分は、今も色あせることなく光り輝いていて、ほんとうに綺麗な状態のままで保存されています。
 昔の鎧と言いますと、色々な博物館等でご覧になる機会も多いとは思いますが、長年の風化により、鉄が錆び金や銀のメッキが剥げ落ちている鎧や兜がほとんどですよね。
 しかしながら、今回展示されている島津斉彬所用の大鎧は、被せられた金メッキがほとんど剥げ落ちておらず、製作当時の様相をそのままに留めています。既に150年以上も経過した「金メッキ」が、今でも剥げ落ちずにそのまま輝きを失っていない理由は、実はそのメッキの方法が西洋技術を応用したものであったからです。

 特別展の説明板によると、この鎧の金具の部分には「電気メッキ」が施されており、これは『遠西奇器述』の中に出てくる「電気鍍金」の技術を実現したものと思われるということでした。『遠西奇器述』とは、斉彬が重用した科学者・川本幸民(かわもとこうみん)が著わした科学書で、この中に記されている西洋科学技術は、斉彬の集成館事業にも多岐に渡って利用されました。
 おそらく、斉彬はこの大鎧を製造する際に、この川本に命じて、鎧の金具部分を実際に電気で金メッキするように指示したのではないでしょうか。そして、その結果完成したのが、今回『激動の明治維新』で展示されている「大鎧」ということです。

 『島津斉彬所用の大鎧』を見ていると、当時斉彬がどのような考えを持って、集成館事業を始めとする近代科学事業を興したのかが伝わってくるような気がしました。
 つまり、斉彬という人物は、西洋技術をそのまま模倣して事業を興すのではなく、日本古来から伝わる伝統的な技術と最先端の西洋科学技術を折衷して、一つの新たな工業技術を作り上げようと考えていたのではないでしょうか。
 西洋諸国の真似は、知識や財力さえあれば誰にでも真似することは出来ます。
 しかし、単なる模倣ではなくて、日本に伝統的に伝わる技術と最先端の西洋技術を折衷しようとしたところに、斉彬という人物の大きさや凄さがあるような気がします。
 鎧という、日本古来の工芸技術を使った製造物に、先端技術である電気鍍金法を合わせたことからも、その中に斉彬の一つの「policy」を私は垣間見た気がしたのです。




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