![]() |
鹿児島県歴史資料センター黎明館 |
薩摩旅行記(12)「『激動の明治維新』見学B−二つの「討幕の密勅」−」
最後は、第W部「薩摩藩と明治維新」から紹介する二点目の史料です。
それは『討幕の密勅』です。
『討幕の密勅』に関しては、薩摩藩主宛のものは鹿児島県歴史資料センター黎明館で、長州藩主宛のものは山口県防府市の毛利博物館で見ることが出来るのですが、今回の『激動の明治維新』では、何と! この二つが並べられて展示されていました。
薩長両藩主宛の『討幕の密勅』が二つ揃って展示されるのは、実は今回の『激動の明治維新』が初めてのことです。
二つの討幕の密勅を見比べるとすぐに分かるのですが、薩摩藩主宛のものと長州藩主宛のものとは、その日付けが一日異なっています。
案外見過ごしやすい点ですが、お気付きになられていましたか?
討幕の密勅に関しては、薩摩藩主宛のものは慶応3(1867)年10月13日付けで、長州藩主宛のものは一日違いの同年10月14日付けになっているのです。
幕末における長州藩ほど、今回の特別展のタイトルともなっている「激動の明治維新」という名に相応しい激動の時期を過ごした藩は、幕末には他にないと言っても過言ではないと思います。
サイト内でも色々と取り上げていますが、元々長州藩という藩は、長州藩士・長井雅楽(ながいうた)が提唱した「航海遠略策」という「公武合体政策」を前面に押し立てて、颯爽と幕末の政局に登場しました。
しかし、その藩論を「尊王攘夷論」に切り替えて後は、「八月十八日の政変」、「池田屋事件」、「蛤御門の変」、「四ヶ国連合艦隊による下関砲撃事件」、そして二度にわたる幕府による「長州征伐」等、長州藩には数多くの大きな厄難が降りかかりました。
このように幕末の長州藩は何度も危機的状況に陥り、藩主・毛利敬親(もうりたかちか)と世子の定広(さだひろ)は、「朝敵」として官位剥奪の罪を被り、藩は滅亡寸前にまで追い込まれたのですが、高杉晋作による功山寺の挙兵(クーデーター)や薩長同盟などにより、長州藩は奇跡的に蘇り、慶応3(1867)年10月13日、毛利藩主父子の官位は元に復旧されることになったのです。
前置きが少し長くなりましたが、長州藩主宛の『討幕の密勅』が、薩摩藩主宛のものとは一日ずれて、翌10月14日付けになっているのは、その前日に毛利父子が官位復旧の宣旨を受けたからだと思われます。
さて、討幕の密勅ですが、原文は漢文で書かれており、非常に読みにくいものですので、ここでは作家・海音寺潮五郎氏が意訳したものを抜粋したいと思います。こちらの方が断然読みやすく理解しやすいと思いますので。(薩摩藩主宛のものを掲載します)
『討幕の密勅』
左近衛権中将源久光
左近衛権少将源茂久
詔す。源慶喜は累世の威をかり、一族全部の強を恃み、妄りに忠良を賊害し、しばしば王命にそむき、ついに先帝の詔を矯めて恐れ入りもせず、万民を谷底におとし入れて心にかけず、その罪悪きわまり、神州まさに亡びんとしている。朕は今民の父母として、この賊を討たずんば、何をもってか、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讐に報いることが出来よう。これ朕の憂憤の存する所で、諒闇中をも顧みずしてかかることを思い立たざるを得ない所以である。まことにやむを得ないのである。汝よろしく朕の心を体して賊臣慶喜をほろぼして、速かに回天の偉勲を奏して、生霊を富嶽の安きにおけよ。これ朕の願いである。おこたることなかれ。
慶応三年十月十三日
正二位 藤原忠能
正二位 藤原実愛 奉
権中納言 藤原経之
その内容を見れば分かりますが、この『討幕の密勅』の内容は恐ろしく強引なもので、強行に江戸幕府最後の将軍となった徳川慶喜を断罪しています。さらっと読んだだけでも、これだけの罪が本当に慶喜自身にあったのかどうか、いやこれだけの罪が無かったことは明白でしょう。
しかしながら、時流はこれだけ過激な討幕の密勅を必要とするほど、急激に倒幕へと大きなうねりを生じていたのも事実です。まさに沸騰寸前のやかんを彷彿させるほど、時代は熱しきられていた状態であったと言えましょう。
今回の『激動の明治維新』では、この二つの『討幕の密勅』の他に、「密勅」を授けられた薩長両藩士が、中山前大納言(中山忠能)、正親町三条前大納言(正親町三条実愛)、中御門中納言(中御門経之)、岩倉入道(岩倉具視)の四名に宛てて提出した
『討幕の密勅薩長連衡御請誓書』
という史料も展示されていました。
この「討幕の誓約書」というべき文書には、薩摩藩側からは小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵、長州藩側からは広沢兵助、福田侠平、品川弥二郎といった当時京都にいた薩長両藩の主要メンバーの名前が連ねて書かれています。
『討幕の密勅』については、よく幕末関係の書籍などでも取り扱われるのでその内容を知っておられる方も多いとは思いますが、この『討幕の密勅薩長連衡御請誓書』については、その内容を知らない方が多いと思いますので、ここに抜粋して紹介したいと思います。
ただ、この史料も原文のままでは理解しにくいと思いますので、同じく海音寺潮五郎氏が意訳したものをここに抜粋したいと思います。
『討幕の密勅薩長連衡御請誓書』
当節は容易ならぬ危急の秋であります。皇国のため忌諱を顧みられず、極秘にご尽力なされ、不抜確立の叡慮を伺い取り給うて、勅書を両藩に降下し給い、深く御依頼思し召されます御趣旨を謹承し奉りまして、卑賤の小臣等は感激流涕にたえません。早々に帰国して寡君等へ報告し、兼て決定しています宿志を益々貫徹することにし、藩国を抛って堂々大挙して、宸襟を安んじ奉るでありましょう。この段天地に盟ってお請けいたします。誠惶頓首。
広沢兵助
福田侠平
品川弥二郎
小松帯刀
西郷吉之助
大久保一蔵
中山前大納言様
正親町三条前大納言様
中御門中納言様
岩倉入道様
当時の長州藩内は倒幕に向けて藩論が統一されていましたが、薩摩藩の方は未だ倒幕への藩論統一はなされていない状態でした。この点は余り触れられていないことですが、薩摩藩内の倒幕派と言われる人達は案外少数勢力であったのです。この誓書は、薩摩藩内の反倒幕派を押さえ、かつ倒幕へ向けて藩論を統一するための大きな材料とするべく提出されたものでもあったのです。
二つの討幕の密勅、そしてその請誓書、この三点の貴重な史料が同時に展示されるのも、今回の『激動の明治維新』が初めてのことです。このような貴重な史料が全て展示され、それを見ることが出来ることは、一歴史ファンとしてはとても嬉しいことで、私自身もほんとうに至福の時を過ごしました。
ここまで三回に渡って『激動の明治維新』の見所を書いてきましたが、いかがでしたでしょうか?
非常に簡単な説明で、しかも数点の展示品しか紹介出来ませんでしたが、私が紹介したものの他にも、貴重な史料や素晴らしい展示品がたくさん展示されていました。
『激動の明治維新』は昨今類を見ない、ほんとうに素晴らしい特別展であったと思います。
残念ながら『激動の明治維新』を見過ごされてしまった方は、是非その図録だけでも取り寄せられて、素晴らしい貴重な史料の数々をご堪能になってみてはいかがでしょうか。
素晴らしい感動に出会える事は間違いありません。
それは、私が保証いたします。
龍馬の裏書きのように……(笑)。
![]() |
戻る |