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「没後120年 島津久光 玩古道人の実像」会場 |
薩摩旅行記(13)「玩古道人・島津久光 −姶良町を訪ねて−」
今年(2007年)は西郷隆盛の没後130年、生誕180年の節目の年であり、鹿児島各地で様々なイベントが行なわれていますが、実は今年は島津久光にとっても没後120年、生誕190年の節目にあたる年でもあります。
島津久光は、文化14(1817)年10月24日の生まれで、明治20(1887)年12月6日に70歳で亡くなっています。つまり、久光は西郷よりも10年早く生まれ、10年遅く亡くなったというわけです。(西郷は文政10(1827)年生まれ、明治10(1877)年没)
島津久光という人物は、近年は少しスポットが当たるようになってきましたが、一時期はその名前も知らない方がたくさんいたほど、どちらかと言うと一般的には地味な人物として捉えられてきました。
ただ、幕末の歴史に少しでも興味を持たれた方にとっては、久光は幕末史上のビックネームになりつつあると言っても過言ではありません
しかしながら、島津久光と言うと、頑迷な保守家というイメージが付きまとい、余り良い印象をお持ちの方が少ないのではないでしょうか。かく言う私自身も、久光は余り好きではない人物でしたが、久光のことを調べていく内に、なかなか面白い人物であることに最近は気づき始めています。
歴史と言うものは、善悪の物差しで測ると、簡単かつ非常に分かり易くなってしまう代物であるため、どうしても善人・悪人という観点で判断してしまいがちです。
しかし、よく考えてみれば、歴史上の人物評価というものは、見る角度・捉える角度によって、評価がガラリと変わってしまうものですから、そう容易に片付けられるものではないと思います。
久光は長年に渡る西郷隆盛との確執や因縁、対決によって、ややもすれば薩摩藩史上の悪者と理解されがちですが、前述したとおり、そう易々と久光の評価を低く下せるものではないと私は考えています。
少し前置きが長くなりましたが、冒頭に書きましたように、今年は島津久光没後120年の節目にあたる年であることから、鹿児島大学附属図書館の主催で、
『没後120年 島津久光 −玩古道人(がんこどうじん)の実像−』
という企画展示が、二つの会場で二つの期間に分かれて開催されています。
企画展のタイトルにも使用されている「玩古道人(がんこどうじん)」という言葉ですが、これは久光が使用した雅号の一つです。
「玩古(がんこ)」とは、「古(いにしえ)を玩(もてあそ)ぶ」という意味が込められています。「玩(もてあそ)ぶ」と言うと、何だか玩具で遊んだり、操ったりという意味のように聞こえますが、玩ぶという言葉は、「自分の慰みものとして愛する」という意味でも使用します。
つまり、久光の言う「玩古」とは、「古きを愛する」、つまり古き良き時代の制度や学問といったものを心から愛するということであり、彼の復古思想の一端を窺い知れる雅号だと思います。
今回の企画展は、鹿児島市内の鹿児島大学会場と鹿児島郊外の姶良町会場で行われているのですが、姶良という場所が展示会の会場として選ばれたのは、島津久光ゆかりの土地であるからです。
文政8(1825)年、久光が八歳の時のことですが、彼は島津一門の筆頭である越前島津家の当主・忠公の養子となっています。
久光が後に島津家28代当主となる島津斉彬の異母弟であることはよく知られていることですが、このように久光は世継ぎとしての世子ではなく庶子であったことから、幼少の頃に越前島津家に養子に出されたのです。
越前島津家は、よく重富島津家とも呼ばれますので、こちらの呼び名の方がピンと来られる方も多いのではないかと思いますが、この越前島津家の領地が現在の鹿児島県姶良郡姶良町周辺でした。
つまり、姶良という土地は、歴史をさかのぼれば、久光の直接の領地であったのです。
このように久光と姶良という土地には深い関係があることから、今回の展示会については、姶良町歴史民俗資料館において、平成19年11月9日(金)から11月23日(金)までの期間、鹿児島大学附属図書館が収蔵している貴重な久光関係の資料が、没後120年を記念して、展示されることになったのです。
久光がメインとなる企画展というものはなかなか見られない代物ですから、私も宮崎から車を飛ばし、姶良町会場に駆けつけ、早速今回の展示会を見学してきました。
鹿児島郊外の姶良という街は、今では鹿児島のベッドタウンの様相を見せ、ややもすれば、他県から鹿児島市内に入る際には素通りされがちな地理環境にありますが、非常に歴史深い街でもあります。
私もじっくり姶良の街を歩いたのはこの時が初めてでしたが、マンションなどの宅地造成が進む場所も増えていますが、まだまだ広大な田や畑が広がるところもあり、十分に昔の薩摩の原風景を感じさせられる土地です。
明治維新後、いや厳密に言うと、明治10(1877)年に起こった西南戦争終結以後と書いた方が良いのかもしれませんが、島津久光は政治の世界から離れ、その晩年は主に歴史書の編纂に力を尽くして、その生涯を終えました。
薩摩藩の藩主待遇であり、明治維新に多大な功績があった久光が、なぜそのような修史事業を行なったのかについては、やはり彼の思想の源流ともなっている、古学、国学といったものへの造詣の深さが大いに関係していることは間違いありませんが、もう一つ指摘するならば、西郷と大久保の死後、中央政界における久光の影響力が一気に小さくなってしまったということも、その要因の一つであったように私は考えています。
つまり、薩摩藩閥の中心人物であった西郷と大久保の死によって、自然久光の影響力も減退し、彼は政治の世界から身を引かざるを得なくなったとも言えましょう。
久光が書いた書については、博物館や資料館等で何度も目にする機会がありましたが、久光の書は非常に力強い筆遣いで雄大に書かれているものもあれば、緻密なタッチで丁寧に書き記されているものもあります。私はそれらの久光の書を見ていつも感じるのですが、その書からは久光の大胆さの中に秘められた、ややもすれば繊細で几帳面な性格を言い表しているような気がします。「字は体を表す」という言葉がありますが、まさしく久光の書からは、大胆でありながらも、非常にナイーブな性格を持つ、彼の複雑な性格が垣間見れるような気がするのです。
今回の企画展には、たくさんの久光関係の史料が展示されていましたが、それら展示史料全てをここで紹介することは難しいので、私の目に留まった一つの史料を紹介したいと思います。
それは今回の企画展において、久光の自筆の書として展示されていた『王政復古詞』という史料です。
展示解説によると、この書は明治2(1869)年冬に久光が作詞し、玉里島津家の家扶を務めていた法亢(ほうが)太郎左衛門昌祥に与えた未定稿の七言古詩ということでした。
この久光が書いた古詩の中に、明治維新後の久光の思いが記された重要な箇所がありますので、その読み下し文を抜粋したいと思います。
賢を挙げ能を択ぶ 是其の時なるも
豈に科らん、陪臣袞職に備はり、
悍兇は登用され、暴威を震ひ、
侫姦は僥倖にして、貪冒を恣にす。
或は戦功を誇り、頻りに跋扈し、
或は自由を唱へ、声色に耽る。
読み下し文ですから、比較的内容は分かりやすくなっているとは思いますが、要約すると、次のような感じになるでしょうか。
「今は才能あるものを登用・起用する時節柄ではあるが、その実状はどうであろうか。陪臣などの低い身分の者や心よこしまな者達ばかりが要職に就き、権力をかさに着て暴威を振るい、自分の欲しいままに振舞っているだけではないか。ある者は自分の戦功を誇って、政府内にのさばり、ある者は身分の自由を唱えて、酒色にひたっている、こんな状況ばかりである」
この七言古詩の中で、久光は王政復古後、つまり明治維新後の政府の官吏達を痛切に批判しています。久光は明治維新後の官僚達、ひいてはその政治体制に対し、大きな不満を持っていたのでしょう。
私流にもっと踏み込んで解釈するならば、久光としては、幕府が倒れた後の政治体制は、自分を含めた有力な諸大名達がイニシアチブを握り、政治を運営していく、合議政治になることを想定してように思います。
ところが、実際に明治新政府が発足すると、知らぬ間に自分ら大名連中は完全に政治の蚊帳の外に置かれ、いわゆる西郷や大久保といった陪臣の身分にあった者達が新政府の要職に就き、まるで我が物顔で政治を取り仕切るようになった。そのことに対して、久光は大きな不満を持っていたのではないかと思います。
幕府を倒す大きな原動力となり、倒幕の主力藩の一つとなった薩摩藩。その薩摩藩のリーダーとも言うべき島津久光は、維新後は自分の時代が来ることを想像し、また確信していたのではないでしょうか。
しかし……、現実は違いました。
久光自身が想定していたこととは違うどころか、まるで正反対に逆行していくかのように、封建制度の崩壊を意味する「廃藩置県」などの大胆な改革が次々と行なわれ、久光は権力の座から引きずり落とされることになりました。
こんな現象は久光だけに限ったことではなく、当時全国のどの大名にも当てはまったことですが、経綸も実力もあった久光としては、自らの力で幕府が倒れ、そして新時代の幕を開けたとの大いなる自負心を持っていたにもかかわらず、自分の意向を無視するかのように様々な改革を断行していく新政府の方針を見て、大いに失望したことでしょう。自負心を踏みにじられた久光の憤懣は想像に難くありません。
新時代の幕開けに一役どころか大役を果たしたはずの久光が、維新後は新政府にとって不要な存在であることを暗に突きつけられたことを考えると、やはり島津久光という人も悲劇の人だったと感じずにはいられません。
久光が書いた「王政復古詞」からは、その久光自身の無念さが表れているような気が私にはしたのです。
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