舞鶴城跡(鹿児島県霧島市国分)
舞鶴城跡(鹿児島県霧島市国分)




薩摩旅行記(14)国分への旅 −国分郷土館、舞鶴城跡を訪ねて−
 「花は霧島、煙草は国分」という、おはら節の一節で知られる鹿児島県国分市は、平成17年11月の市町村合併により、現在は霧島市国分という地名に名を変えました。
 いわゆる「平成の大合併」と呼ばれるものですが、この日本政府が推進した市町村合併については、私は史上最低の悪行だったとしか感じられません。政府が行政のスリム化を唱えること自体は大いに結構ですし、どんどんやってもらいたいところですが、結局のところ、市町村合併という政策は、見た目だけスリム化したように見せかけた、数合わせで帳尻合わせの付け焼刃の改革であったとしか思われないからです。
 こんなことを推進して莫大なお金をかけるよりも、税金の無駄遣いを是正してもらう方がよっぽど有益だと思いますし、ましてや政府が出す補助金目当てで、市町村が合併するなど言語道断のことではないでしょうか。

 本題からは少しそれますが、最近非常に不満に思っているので書きます。
 私は、「平成の大合併」と呼ばれる、そんな名ばかりで実の無い政策を提案された国民が、そのことに何の反発もなく、従容としてそれを受け入れたこと自体がどうにも信じられません。自らの故郷や古くから慣れ親しんだ地名が消え、非常に安易なネーミングで土地の名前が急に変えられることについて、国民は何の抵抗感や疑問、そして怒りを感じなかったのでしょうか?
 「一所懸命」という言葉が象徴するように、古来日本人というものは土地に異常なまでの執着心を持っていました。自らの所領を守るために武士と呼ばれる集団が生まれ、そしてその武士達は、全てを賭けて自らの所領を守り、拡大することに専念しました。そしてその土地の名は、自らを代弁する一つの象徴でもあったのです。
 日本人の苗字には土地の名前が由来となっているものが多いように、古来日本人は自分の住む土地の名に一種の誇りさえも持っていました。にもかかわらず、現代の日本人はいとも簡単に慣れ親しんだ伝統ある土地の名前を捨てたのです……。
 結果、新○○市などという非常に安易なネーミングの土地が日本全国の各所で生まれ、極論かもしれませんが、「平成の大合併」という史上最低の政策により、今まで代々培われてきた歴史や伝統は捨て去られ、全て水泡に帰したとも言えるのではないでしょうか。
 結果、この改革によってもたらされたものは、各自治体に残された膨大な借金と行政サービスの低下であったことは、ここで今更書くまでもなく周知の事実であろうと思います。

 話が大きくそれてしまいましたが、鹿児島県の国分の例を取ってみても、私は昨今伝統ある地名が次々と日本中から無くなっていくことに胸が痛んで仕方がありません。
 また、土地の名前だけではなく、方言などの無形の風俗や慣習にしてもそうですが、最近の日本人は、何百年間と温めて培い、受け継いできた歴史や伝統をいとも簡単に捨て去る傾向があるような気がしています。
 現代に生きる我々は、もっと先人から受け継いできた文化や伝統、そして歴史というものを再認識し、もっと大事にそして大切に扱う必要があるのではないでしょうか。
 前置き部分が非常に長く、少々堅苦しくなってしまいましたが、私は伝統ある土地の名前が次々と消えていくことを筆頭に、様々な無形文化が失われていくことが本当に残念でならないのです。


 さて、ここからはいきなり柔らかく調子を変えますが、今回の薩摩路の旅は、宮崎県宮崎市を出発点にし、車で宮崎高速道路と国道10号線を利用し、都城経由で国分へと向かいました。
 今回の旅の目的は、国分にある「国分郷土館」と「舞鶴城跡」です。

 国分という町は、今では京セラやソニーなどの大企業の工場が立ち並ぶ場所として有名ですが、元は島津家第16代当主・島津義久が整備し、居城とした城下町です。
 戦国時代の薩摩を語る際には、この義久とその弟の義弘という二人の兄弟の名前を抜きにしては語ることが出来ません。この兄弟は近世の薩摩藩成立に大きな影響を与えているからです。
 本Webサイト内の第4回薩摩旅行記「島津家中興の祖・島津忠良」の中でも少しだけ触れていますが、近世の島津家を語るには、その義久・義弘兄弟の前に、彼らから見れば祖父にあたる島津忠良(日新斎)と島津貴久の親子から話を始めなくてはなりません。

 16世紀に入ってからの近世の島津家は、16代義久の代で三州(薩摩、大隈、日向)を統一するに至りますが、それまでの間は同族同士、血で血を洗うような闘争を繰り返してきました。
 義久の父・貴久の義理の父にあたる島津勝久は、17歳で島津宗家の証である守護職を継ぎましたが、凡庸な人物であったがために、島津一族の内紛は激化し、薩州家と呼ばれる一族の島津実久が徐々に力を持ち始め、島津宗家の座を狙い始めました。
 「日新公いろは歌」で知られる伊作島津家出身の島津忠良(日新斎)は、当時の島津家中でも有力な実力者の一人でしたが、守護職の勝久はその忠良の実子である貴久を自らの養子に迎えました。つまり、勝久は本家の座を狙い始めた実久に対抗するため、貴久を養子に迎えることにより、その父である忠良を後ろ盾にしようと考えたのです。
 勝久が貴久を養子に迎えたことにより、島津家中は実質上「実久 対 忠良・貴久親子」という構図が出来上がり、島津宗家の座を巡って、大きな戦乱が生じたのですが、結果忠良・貴久親子が実久を打ち破って勝利し、その後、貴久は近世島津家の基礎を作り上げることになります。
 このことから忠良・貴久親子は島津家の中興の祖とも呼ばれていますが、その跡を引き継ぎ、近世島津家の地盤を磐石なまでに堅固なものにしたのが、貴久の長子である島津義久でした。

 貴久の子供には、義久、義弘、歳久、家久という四人の男子がいましたが、いずれも武芸に秀でているだけではなく、皆才知溢れる人物であったことから、九州の戦国史にその名を残しています。その中でも、義久と義弘という二人の兄弟は特に優れ、父・貴久の跡を受け継いだ義久は、偉大な祖父と父の薫陶を受けて立派な当主へと成長し、貴久の領土をさらに拡大し、三州(薩摩、大隈、日向)の統一を果たしました。
 ちなみに義久、義弘、歳久の三人は実の兄弟で、母は入来院渋谷氏の出身である雪窓夫人です。(平成16年夏、私は渋谷氏の居城であった現在の薩摩川内市入来(旧入来町)を訪れ、そこで色々な発見をしたのですが、そのことについてはまた別の機会に書きたいと思います)
 三州統一後も、義久は三人の兄弟と力を合わせ、全九州の統一を目指しました。
 現在の宮崎県児湯郡木城町を主戦場とした「耳川の戦い」においては、豊前・豊後などを掌握し、九州北部の雄としてその名を轟かせていた大友宗麟を打ち破り、さらに「沖田畷の戦い」では、大友家と共に北九州で勢力を誇った肥前の龍造寺隆信を撃破しました。
 九州北部を拠点としていた大友、龍造寺両家との戦いに勝利したことにより、島津家の九州統一は目前に迫ったのですが、ここで義久の前に一人の男が立ちはだかりました。
 ご存知、羽柴秀吉、後の天下人となる豊臣秀吉です。
 島津家の猛攻により九州北部へと追い詰められ窮した大友宗麟は、当時天下統一を目前にしていた秀吉に援助を求めると、秀吉は宗麟の意に応え、島津家の征伐を決意し、九州に大軍を送り込みました。
 これが世に言う「豊臣秀吉の九州征伐」です。
 島津家がいかに九州で急激に勢力を伸ばしていたとは言え、相手は天下人秀吉です。多勢に無勢、最終的に島津家は秀吉の軍門に下らざるを得なくなったのです。

 ここまで簡単にですが、近世から戦国期に至るまでの島津家のことを書いてきましたが、島津義久という人物は、島津家の当主として領地を拡大し、九州統一まであと一歩と迫った偉大な武将であったにもかかわらず、弟の義弘と比べると、どちらかと言うと地味な人物として扱われ、その知名度も決して高いものとは言えません。
 天下分け目の合戦であった「関ヶ原の合戦」において、弟の義弘が家康の本陣目がけて敵中突破を果たした輝かしい戦績があり、そのことが後世に脈々と伝聞されているがゆえ、義弘に比べて義久の影が薄くなってしまった感が否めませんが、義久という人物は、智勇に長けた武将であっただけではなく、和歌や連歌、茶の湯をたしなむなど、当時一流の風流人でもありました。
 特に和歌に関しては、細川幽斎から『古今和歌集』の中の語句の訓詁注釈などを伝えられる「古今伝授」を授けられているほどです。
 義久は隠居後、現在の鹿児島県霧島市国分の舞鶴城へと移り住み、国分の城下町の整備に力を注ぎました。国分の地をまるで京の都さながらに碁盤の目状に整然とした町並みに造りあげ、没するまでの間、国分の地に住んだのです。
 冒頭にも書きましたが、現在の国分は霧島市などという、実に安易な地名に変わってしまいましたが、国分の街の繁栄は、義久が基礎を作り上げたことは間違いありません。
 そして、義久が作り上げた国分の町は、現在は鹿児島市に次ぐ鹿児島第二の都市として、ソニーや京セラといった大企業の工場が立ち並ぶ繁栄ぶりを見せているのです。

 平成18年4月16日(日)、宮崎を車で出発した私は、宮崎自動車道を利用し、まずは都城市へと出て、そこからは国道10号線を通り、旧国分市、現在の霧島市国分へと向かいました。
 宮崎から高速を利用せず、国道10号線を使って鹿児島市街に行くためには、必ず国分の街を通らなければならないことから、私自身、国分市街を何十回というほど車で走ったことがありましたが、自分でも意外なことに、国分に行くことを目的に向かったのは、この時が初めてのことでした。
 宮崎を出てから約一時間半、ようやく国分の町に到着すると、私はまず「国分郷土館」を目指しました。国分郷土館は、国分郊外の城山公園の一角にあり、国分に関する歴史や民俗資料などを集めた小さな資料館です。
 この国分郷土館には、大変貴重な史料の数々が展示されており、私も楽しく見学したのですが、その展示品の中で、今回は西郷隆盛関係のものを幾つか紹介したいと思います。
 まずは、西郷が国分敷根郷の大庭定次郎に贈った火縄銃です。

 国分敷根郷の大庭家は、代々薩摩藩の医家の家柄であり、当主の定次郎は猟犬を育てるのが趣味の一つであったそうです。定次郎はその墓石に犬の彫刻が施されているほどの愛犬家だったようですね。
 そんな大庭定次郎が育てた猟犬をどこで聞きつけたのか西郷隆盛が欲しがりました。西郷の最大の趣味であり、楽しみでもあったのが、猟犬を使った兎狩りなどの狩猟であったため、西郷は常に良質な猟犬を探し求めていたのかもしれません。
 実は私の父も狩猟が趣味であり、長年自宅で猟犬を飼っていたのですが、その猟犬の種類は「薩摩ビーグル」と呼ばれるものでした。少し聞いたところによると、薩摩ビーグルという血統の猟犬は、鹿児島原産の薩摩犬とイギリス原産のビーグル犬をかけ合わせて出来た犬種だそうです。いやはや、ここでも私と鹿児島は見えない絆や縁で子供の頃から結ばれていたというわけですね。
 少し話がそれましたが、西郷は定次郎から猟犬を譲り受けたお礼として、火縄銃を贈りました。それが国分郷土館に展示されている火縄銃というわけです。国分郷土館内の展示解説によると、大庭家の親類筋にはそのことを証明する書簡も残されているとのことでした。

 さらに国分郷土館所蔵の西郷隆盛関係史料について紹介すると、西郷の真筆である漢詩が展示されています。
 漢詩の題名は「山行」というものです。


駆犬衝雲度万山(犬を駆り雲を衝いて万山をわたり)
豪然長嘯断峰間(豪然長嘯(ごうぜんちょうしょう)す断峰(だんぽう)の間)
請看世上人心険(請う看よ世上人心の険)
渉歴艱於山路艱(渉歴(しょうれき)は山路の艱よりも艱なるを)

(口語訳)猟犬をかり立て、雲を衝いて一人で山によじ登り、きり立った峰のあたりで思いきり威勢よく声長々と詩を吟じたりするが、どうかよく考えて見るがよい。人の心の険しい世間をわたるのは、険しい山路をふみ越えわたる難儀よりも更にむつかしいことを。

(『新版 西郷隆盛漢詩集』(西郷南洲顕彰会、山田尚二編)から抜粋。なお、旧字は新字に改めました)



 なかなか味わい深い漢詩ですね。

「世間をわたっていくのは、険しい山道を踏み越えるよりも、更に難儀を伴うものだ」

 まさに波乱万丈の生涯を過ごした西郷らしい言葉だと感じてなりません。
 
 また、国分郷土館には、西郷隆盛の肖像画も展示されています。
 国分出身の服部英龍が描いたもので、服部は生前西郷とも実際に会ったことのある人物ですので、生前の西郷の雰囲気を偲ぶには良い肖像画だと思います。
(付記:2008年、テレビ朝日系のTV番組「スーパーモーニング」内で、「追跡!ミステリーツアー 西郷隆盛の本当の顔」という特集が組まれ、その際に宮崎市内で確認された中原南渓(なかはらなんけい)の西郷隆盛肖像画が紹介されていました。中原南渓は、都城島津家お抱えの狩野派の絵師(「都城画人伝」によると、西郷より2歳年下とのこと)とのことですが、その南渓が描いた西郷の肖像画が、服部英龍の肖像画と非常にその構図が似ています。番組内の検証では、服部英龍は中原南渓の絵を参考にして、肖像画を描いた可能性が高いということでした)
 その他にも、国分郷土館には、島津義久関係や島津斉彬が描いた草花絵なども展示されており、国分の歴史を学び、そして紐解くには最適の場所であると思います。
 国分を旅される際には、是非立ち寄って頂きたい場所の一つです。

 さて、国分郷土館を後にした私は、次の目的地である『舞鶴城跡』へと向かいました。
 隠居後の義久が居城とした国分舞鶴城の跡地には、現在国分小学校が建てられていますが、当時の石垣や堀の一部、家臣の細山田氏が義久から拝領した朱門などが移築されており、往時の面影をわずかながらに残しています。
 前述しましたが、義久という人物は武芸に秀でていただけではなく、和歌や茶の湯にも通じていた希代の風流人でした。
 一般には余り知られてはいませんが、義久は祖父・島津忠良が残した「いろは歌」と同様に、武士や庶民達の生活指針ともなるべき教訓歌である「いろは歌」を残しています。
 舞鶴城跡の堀の周囲には、それら「義久のいろは歌」が刻まれた石塔が建ち並び、訪れる観光客の目を和ませています。

「人のよき 人のあしきを 見てはわが 身をみがくべき 鏡ともせよ」

 これは義久が作歌した「いろは歌」の中の一つですが、おそらくこれは義久の祖父である島津忠良が作った「いろは歌」の中の

「いにしへの 道を聞いても唱えても 我がおこないに せずばかいなし」

 に通じる歌と言えるのではないでしょうか。
 義久にとって、尊敬する偉大な存在であった祖父・日新斎のことを思い浮かべながら詠んだ歌なのかもしれません。
 天下人秀吉によって、九州制覇を断念せざるを得なくなった島津義久は、国分の地で何を考え、何を思いながら晩年を過ごしたのでしょうか……。
 舞鶴城跡の風化した石垣を見ていると、晩年の義久の無念が伝わってくるような気がしてならなかったのを今でも印象深く覚えています。




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