(写真)山川薬園跡
山川薬園跡に残るリュウガンの木(鹿児島揖宿郡山川町)




薩摩旅行記(2)「山川薬園跡を訪ねて−島津重豪と山川薬園−」
 レンタカーに乗って、私がまず最初に目指したのは、薩摩半島の最南端の港町、揖宿郡山川町(いぶすきぐんやまがわちょう)です。
 薩摩藩政時代、山川町は藩の代表的な港町として栄え、他国に出る便船の発着や琉球貿易なども、この港を中心にして行なわれました。
 言わば、山川港は「薩摩藩の玄関口」として繁栄したのです。
 現在の山川港は、かつお漁業やかつお節の町として有名で、山川で作られるかつお節は、全国の生産量の約三割を占めているのだそうです。
 私が山川町を訪れるのは今回で三度目のことだったのですが、今まで一つだけ見逃していた史跡がありました。今回はそれをどうしても見たいと思い立ち、まずは山川町に向かったのです。

 その史跡は、薩摩藩の「山川薬園跡」です。

 山川薬園は、万治2(1659)年に薩摩藩が設置したと伝えられている藩内で一番古い薬園です。
 幕末期、薩摩藩はたくさんの薬園を領内に所有していたのですが、その中でも三つ大きな薬園がありました。私が訪れた山川薬園、現在の鹿児島市吉野町にあった吉野薬園、大隈半島の最南端・肝属郡佐多町にあった佐多薬園の三つの薬園です。
 この三つの薬園の整備拡張に力を尽くしたの人物が、島津家25代当主で薩摩藩主の島津重豪(しまづしげひで)です。

 薩摩藩と薬園の関係を述べるには、重豪抜きでは話が進められないほど、重豪は薬園の経営に力を注いだ人物でした。
 重豪が薩摩藩の英明藩主と謳われた島津斉彬(しまづなりあきら)の曽祖父にあたり、斉彬の人格形成にも多大な影響を与えたことは非常に有名な話です。
 重豪という人物は、西洋や中国から入ってくる新しい物産や技術を好み、後年斉彬が「集成館事業(しゅうせいかんじぎょう)」と呼ばれた、近代工業事業を始める基礎を作ったとも言える人物です。斉彬が「西洋かぶれ」とか「蘭癖」などと言われるほど西洋の技術や文物を好んだのは、実はこの曽祖父の重豪の影響が大きかったのです。
 重豪は、薩摩藩の藩校となる「造士館」や「演武館」、現在鹿児島市の「天文館通り」としてその名を留めている天文学や暦を研究する「天文館(明時館)」を創設するなど、たくさんの西洋知識を研究する機関を創り、また藩内に施した開化政策は非常に多岐に渡りました。
 この重豪の興した様々な事業の中に「薬園経営」というものが含まれていたのです。

 重豪は薬木や薬草関係について、大きな関心と興味を持っていました。
 例えば、重豪が編纂を命じた『成形図説』(せいけいずせつ)という書物がありますが、これは簡単に言うと、農業と生物の大百科事典といった類のもので、植物や魚、動物にいたるまで、あらゆる様々な生物が図解入りで記載されている全100巻にも及ぶ一大事典なのですが、この中にたくさんの薬草類が紹介されています。重豪が『成形図説』の編纂事業を行ったことからも、重豪が薬草に大きな関心を持っていたことを窺い知ることが出来ます。
 また、重豪は『成形図説』の他にも、『質問本草』(しつもんほんぞう)という書物の編纂も家臣に命じて手掛けさせています。
 『質問本草』というのは、琉球や屋久島などの南島に自生している薬木や薬草類の効能を、中国の学者に質問する形式をとって、その結果をまとめあげた研究書なのです。
 以上のように、重豪は薬草類に大きな関心と興味を持っていたため、以前から存在していた山川薬園や佐多薬園を整備し、新たに吉野薬園を造営するなど、薬園の経営に力を注ぎました。重豪は「薬園署」という専門の役所まで設置し、薬園の管理・運営を行っていたのです。このことをもってしても、いかに重豪が薬草作りに力を入れていたのかが、よく分かるのではないでしょうか。

 薩摩、大隅両半島の南端にあった山川と佐多の薬園は、地理的にも気候的にも非常に温暖な場所に造られていたので、温帯性でよく育つレイシ、リュウガン、キコク、オオバゴムノキ、アカテツ、カンランなどの薬木や薬草を植えました。また、城下に近い吉野の薬園は台地の上にあったため、反対に寒冷地で育つものを植えたのだそうです。
 余談ですが、吉野の薬園では、朝鮮人参の栽培も行なっていました。
 少し話がそれますが、薩摩から遠く離れた東北の会津藩も、「御薬園」と呼ばれる薬園を所有していたのですが、そこで主に栽培をしていたのが朝鮮人参でした。当時朝鮮人参は非常に貴重で高価なものであり、また寒冷地で育ちやすい植物であったため、会津藩はそれに目を付け、会津藩の名宰相と言われた家老の田中玄宰(たなかはるなか)は、この朝鮮人参の植付けを藩内に奨励しています。
 私は浅学のため、会津藩がいつから朝鮮人参の栽培を始めたのかをよく知らないのですが、寒冷な地域に位置する会津藩が栽培していた朝鮮人参を、温暖な気候の薩摩藩で栽培にチャレンジしていることは、非常に興味深い話だと思います。

 閑話休題。
 話を戻しますが、私は以前吉野と佐多の薬園には行ったことがあったのですが、山川の薬園跡を訪ねるのは、今回の旅が初めてのことでした。
 鹿児島市から「指宿スカイライン」という高速道路を利用して約1時間30分。
 カーナビが付いていたにもかかわらず、途中で道に迷いながら、私はようやく山川薬園跡に到着しました。
 現在の山川薬園跡には、薬園としての跡形は何も残っておらず、市民の憩いの場である公園となり、ご年配の方々がゲートボールを楽しんでおられましたが、唯一往時の薬園を偲ぶものとして、大きな「リュウガン」の木だけが残されていました。
 リュウガンは、ムクロジ科の植物で、中国南部又はインドの原産と言われ、アジアの亜熱帯地域を中心に育つ植物です。リュウガンはその実を果物(フルーツ)としても食べることが出来るのですが、漢方薬としては、強壮薬や鎮静薬にもなる万能の植物です。
 山川薬園跡に建てられている案内板には、そのリュウガンの木は樹齢300年という風に書かれてありました。

「このリュウガンの実から煎じた薬を重豪も飲んだのかな……」

 薩摩の綺麗な青空に、一杯に枝を突き出しているリュウガンの木を見ていると、私は何だか幕末時代にタイムスリップしたような感覚を覚えました。
 重豪が生きた時代から大きく時は流れましたが、このリュウガンの木だけは、なぜか時間が止まっているような気がしたのです。




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