(写真)倉浜荘
「密貿易屋敷・倉浜荘」(鹿児島県川辺郡坊津町)




薩摩旅行記(3)「大陸への玄関口・坊津(ぼうのつ)」
 山川町を後にした私は「開聞岳(かいもんだけ)」を左手に見ながら、一路薩摩半島の西にある港町「坊津(ぼうのつ)」へと向かいました。
 開聞岳という名を一度は耳にしたことがある方が多いのではないでしょうか。
 開聞岳は薩摩半島の南端にある標高922mの休火山で、別名を「薩摩富士」とも呼ばれています。開聞岳は、限りなく三角錐に近い、きれいに整った山相をしており、またその山の色も、常に瑞々しい緑色に光輝いていて、素晴らしく美しい山なのです。
 知覧から飛び立った特攻隊の若者達は、飛行機の窓から見えるこの開聞岳に一礼し、死への旅路へと旅立ったと言われています。
 桜島が鹿児島市内に住む人々の象徴であるとするならば、開聞岳は鹿児島の南方に住む人々の心の故郷と言えるかもしれません。

 さて、話を戻して、私が向かった坊津という港町は、三重県の「安濃の津」、福岡県の「博多の津」と並んで、「日本三津(にほんさんしん)」と呼ばれ、古くから大陸への玄関口として栄えた港町でした。
 山川から車で約1時間30分。ようやく坊津に到着した私は、まずは地元で「密貿易屋敷」と呼ばれている『倉浜荘』(くらはまそう)という屋敷へと向かいました。この『倉浜荘』という屋敷は、鹿児島に縁の深い作家・梅崎春生の『幻化』にも登場する非常に有名な建物で、坊津の豪商として名高い森吉兵衛の屋敷のことです。

 坊津は、遣唐使船の寄港地になるなど、古来から大陸への玄関口として、中国、琉球、南方貿易の拠点として繁栄しました。
 現在の坊津には「久志(くし)」という地名があるのですが、ここにあった博多浦という場所には、古くは唐人(中国人)が住んでいたそうで、現在は「唐人町跡」という史跡が残されています。坊津の博多浦は、今の福岡県の博多と並ぶほど、貿易で栄えた町であったのです。
 このように、坊津は古来から日本の大陸への玄関口として発展し、繁栄していったのですが、江戸時代に入ると、幕府が鎖国を国是として改めたため、海外貿易の拠点は長崎の出島のみに移ることになりました。
 貿易港として栄えていた坊津は、この幕府の鎖国令により、大きな危機を迎えることになったのですが、坊津は「抜け荷」と呼ばれる、いわゆる「密貿易」の拠点として、海外との取引きが鎖国の後も依然として行なわれていたのです。
 倉浜荘の森家を始めとする坊津を拠点としていた商人達は、この「抜け荷」を利用して巨額の富を蓄えました。

 しかしながら、密貿易で鎖国令を切り抜けた坊津の繁栄に大きな事件が起こります。
 「享保の唐物崩れ」と呼ばれる、享保年間に行なわれた藩内の密貿易の一斉検挙事件が生じ、坊津を拠点に富を築いた商人達は没落への道を辿ることとなったのです。
 この享保の唐物崩れについては、私も詳細に書けるほどの知識を持っていませんが、元々薩摩藩は密貿易が盛んに行なわれていたところであったため、幕府からは要注意藩として常に目を付けられていました。幕府が密貿易の禁止を強く各大名へ布令したことにより、薩摩藩としても藩内の密貿易の取り締まりを強化せざるを得なくなりました。当時の幕府は絶対権力です。その方針に逆らうことなどは絶対に許されません。その結果、坊津の商人達は密貿易の一斉摘発の影響をまともに受けて、一時的に没落せざるを得なくなったのです。
 享保の唐物崩れの影響で、坊津の商家の男達のほとんどは検挙されたり、他国へ逃亡するなどしたため、かって貿易港として賑わった坊津の町は、老人と女性や子供だけしかいない町へと変わり果てたと伝えられています。
 このように享保の唐物崩れの影響で、坊津の商人達は大打撃を被ったのですが、彼らは鰹を中心とした漁業と鰹節の生産、そして元来の廻船業を中心に盛り返し、一時期の繁栄とまではいかないまでも、ようやく坊津の町にも明るい兆しが見え始めてきました。
 また、幕末期には、財政立て直し策の一環として、薩摩藩が琉球を介した中国貿易を盛んに行ったため、坊津はその舞台として、また歴史上にその名が浮上してくることになるのです。

 「抜け荷(密貿易)」のことについて少し触れましたが、元々薩摩藩と中国との貿易は「幕府公認」であったという事実は、一般には余り知られてはいません。
 ただ、幕府公認とは言え、薩摩藩が無制限に中国と貿易を行なえたというわけではありません。貿易額と取り扱い品目に関して、幕府から厳しい制限が設けられていたのです。金額で言うと、年に銀千七百二十貫目までは、幕府公認の貿易として認められていました。ただ、銀千七百二十貫と書いても、今ではなかなかピンと来ない数字ですので、少し話がそれてしまいますが、今のお金に換算してみることにしましょう。

 現在の銀相場は、1グラムあたり約20円程度ですので、それを元に計算すると、千七百二十貫は今のお金に換算すると約1億円2千万円くらいになります。
 しかしながら、当時の貨幣価値は現在の5〜10倍程度です。
 ただ、幕末の頃は貨幣価値が格段と下がっていますので、おそらく計算した金額に3倍程度をかけるのが妥当ではないかと思われますので、今のお金に換算すると、約3億6千万円程度ということになるでしょうか。
 つまり、これだけ巨額の貿易が幕府公認のものとして、薩摩藩内で行なわれていたのです。
 少し話がそれましたが、このように薩摩藩が琉球を介して中国と貿易していたこと全てが密貿易であったというわけではありません。薩摩藩で言うところの密貿易とは、幕府公認の貿易以外のものを指すと言えましょう。

 さて、坊津の歴史的な背景はこの辺りで筆を止めることにして、私の見た坊津の町の印象を書いてみたいと思います。
 現在の坊津は、非常に静かな港町と言うよりも、一漁村となっています。かつてこの場所が中国との貿易船で賑わった港町だったとは思えないほど、今は寂しいくらいに静かな町となっています。
 藩政時代には巨額の富を蓄えた坊津の商人達は、明治維新以後、そのほとんどが没落の憂き目にあいました。明治維新という一大革命により、自由経済へと社会の形態が変化したことと、坊津の商人達に行われていた藩の庇護が完全に無くなったこと、地理的なことが要因となり、坊津は寂れていかざるを得なくなったのです。

 私が目指した森吉兵衛の屋敷『倉浜荘』は、坊津の「坊浦」という場所にあります。
 坊津に着いた私は、爽やかな海風に運ばれてくる磯の香りに包み込まれながら、一路坊浦へと向かいました。
 国道226号線からそれて、坊浦へと続く非常に細い路地のような道を入江に向かって入って行くと、地元では「密貿易屋敷」と呼ばれている『倉浜荘』が見えてきます。
 坊津という町は、、ほんとうに海が綺麗なところです。
 倉浜荘の前に広がる海は、透き通るような青色に澄み渡っていて、エメラルドグリーンとスカイブルーを混ぜ合わせたような、何とも言えない美しい輝きを発していました。

 また、私が坊浦に来て感じたことは、坊津周辺は入江が複雑に入り組んでいるリアス式海岸になっているため、密貿易など隠れて荷を積み入れたり、運び込んだりするには地理的に最も適した場所であるということです。
 倉浜荘ですが、現在も人がお住まいになられているようなので、屋敷内部を見学することは出来なかったのですが、屋敷の中には色々な仕掛けが施されているそうです。忍者屋敷のように一見壁に見える部分が扉になっていたり、取り外しの出来る階段や隠し部屋があり、その隠し部屋からは、入江や玄関に出入りする人々が覗き込めるなどの仕掛けがあるそうです。密貿易を取り締まる役人の目を逃れるために、このような仕掛けを屋敷に付けたのでしょう。

 往年は大陸への玄関口として栄えた坊津も、今は静かな港町へと変貌してしまいましたが、綺麗に光輝く海の色だけは、当時のままであるような気がします。その坊津の透き通った海の色の中に、私が当時の貿易船の姿を重なり映していたからかもしれません。




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