(写真)竹田神社
島津日新斎を祀る「竹田神社」(鹿児島加世田市)




薩摩旅行記(4)「島津家中興の祖・島津忠良」
 坊津を後にした私は、国道270号線に沿って薩摩半島を北上し、一路、加世田市(かせだし)へと向かいました。
 加世田の地名の由来は、非常に古いものです。
 『鹿児島県の歴史散歩』(山川出版社)によると、加世田という地名は『古事記』に記されている「笠狭田(かさた)」がなまったものと伝えられているそうです。『古事記』にもその名が出てくるくらいですから、加世田市内の各所には、たくさんの古代遺跡が存在し、鹿児島県の中でも歴史深い土地の一つです。

 私が目指した加世田には、「島津家中興の祖」と呼ばれた島津忠良(しまづただよし)を祀る『竹田神社』があります。私はこの竹田神社を見るために加世田に向かったのですが、竹田神社の説明に入る前に、

「島津忠良とはどのような人物であったのか?」

 について、少し島津家の歴史に触れながら、簡単に書いてみたいと思います。

 島津忠良は、島津氏第15代・島津貴久(しまづたかひさ)の実父にあたる人物です。
 忠良のことに触れる前に、先にその子の貴久のことを簡単に書きますが、貴久は薩摩・大隅・日向、つまり後年薩摩藩の領土となる三州の統一を目指し、近世の島津家の繁栄の基礎を作った人物です。
 また、貴久の子の義久(よしひさ)、義弘(よしひろ)という二人の兄弟は、戦国から江戸時代にかけて活躍した武将として非常に名高く、その名を一度は聞かれたことのある方も多いのではないでしょうか。特に、忠良の孫にあたる義弘は、天下分け目と呼ばれた「関ヶ原の合戦」において、徳川家康の本陣を正面突破して退却する離れ業を見せたことは、非常に有名な話として後世に伝えられています。

 話を島津忠良に戻しますが、忠良は明応元(1492)年9月、島津氏の一族である伊作島津家(いざくしまづけ)に生まれました。
 忠良は幼少の頃から聡明、利発と謳われた子供で、また非常に信心深く、かつ自愛溢れる性格であったために、その将来を嘱望され、一族の相州島津家の養嗣子として迎えられました。
 室町時代から戦国時代にかけての島津氏の歴史は、一族同士の争いの歴史とも言えます。
 忠良の子である貴久が薩摩・大隅といった南九州を統一するまでは、島津氏の内部では一族同士による争いが絶えない日々が続いていました。
 忠良が相州島津家に養嗣子となったことについては前述しましたが、この相州島津家(代々「相模守」を受け継ぐ家柄)や薩州島津家、豊州島津家などなど、島津家と一言に言っても、様々な一族がいたのです。そして、忠良の時代には、それら一族同士が互いに争い合い、戦が絶えない日々が続いていました。

 相州島津家を継いだ忠良は、島津氏第14代の守護職を務めていた島津勝久(しまづかつひさ)の願いで、島津本家の国政に携わることになり、勝久の強い要望から、忠良の実子である貴久が、第15代守護職(いわゆる島津家本家)を継ぐことに決まりました。
 また、前守護職の勝久は、忠良の旧領であった日置郡伊作に退隠したため、忠良は剃髪して、その後「日新(じっしん)」と名乗るようになったのです。
 しかしながら、これに不満を持っていたのが、一族の薩州島津家の島津実久(しまづさねひさ)です。実久は前守護職の勝久を篭絡し、忠良・貴久親子に戦いを挑んだのです。
 実久と忠良・貴久親子の戦いは長きに渡り行われることとなるのですが、結果、忠良・貴久親子は、実久勢の居城であった加世田別府城を攻撃し、攻め落とすことに成功したのです。
 また、戦勝した忠良は、この戦果に驕ることも無く、別府城攻めで戦死した兵士達を弔うため、「六地蔵塔」という供養塔を建立し、敵味方の区別なく、その菩提を弔う行いをしました。
 ここにも忠良の信心が厚く、慈悲深い一面があらわれています。
 忠良・貴久親子は、その後、実久を降伏させることにも成功し、島津家を一つに束ねることへの大きなきっかけを作りました。
 この忠良・貴久の働きにより、長らく続いた島津家の内乱はようやく沈静化し、島津家が薩摩・大隅・日向の三州を統一する基礎が作り上げられるのです。
 忠良が「島津家中興の祖」と言われる由縁が、これで少しはお分かりになられたのではないかと思います。




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