(写真)いにしへの道
「日新公いろは歌」が刻まれた「いにしへの道」(鹿児島県加世田市)




薩摩旅行記(5)薩摩兵児の源流「日新公いろは歌」
 前回は島津忠良の活躍について簡単に書きましたが、今回は本題に戻って、忠良と加世田の関係、そして私が訪れた『竹田神社』について書いてみたいと思います。

 島津実久の加世田別府城を攻略した島津日新公(ここからは忠良ではなく、号の日新(じっしん)を使用します)は、天文9(1540)年、加世田に居城を構え、永禄11(1568)年に77歳で亡くなるまで、加世田においてその生涯を過ごしました。
 日新公は、加世田において、あまねく善政を施いたため、領民からは慕われること一通りではなく、慈愛溢れる優れた名君として、後世にその業績が伝わっています。
 例えば、日新公の人となりを示すものとして、後年、日新公が孫の第16代・義久に送った書状には、次のような歌が記されています。

「善も悪 悪も善なり なせばなす こころよこころ はぢよおそれよ」

「善行も時には悪行となり、悪行も時には善行となることがある。すなわち、それは普段からの心の持ち方や心掛けによって、変わるものなのである。なので、まずは心に恥じるところがないかどうか、己に問うてみよ。そして、心の中に恥じるところが出来ることを自分自身恐れよ。そうすることによって、心に恥じるところがなければ、為すことは自ずからそれは善行となるであろう」

 私流に解釈してみると、こんな感じになるでしょうか。
 この歌を見ても、島津日新公とは、非常に徳の深い人物であったことがよく分かると思います。
 また、日新公は加世田で過ごしている間に、武士や庶民達の教育や生活の指針となるように、その教訓を歌としてまとめて作成しました。日新公は、一般の人々にも分かりやすくするために、その歌を「いろは順」にして作成したのです。

 これが世に言う『日新公いろは歌』と呼ばれているものです。

 少しだけですが、日新公が作った「いろは歌」の一部を書き出してみたいと思います。

「い」いにしへの道を聞いても唱えても 我が行ないにせずば甲斐なし
「ろ」楼の上もはにふの小屋も住む人の 心にこそは高き賤しき
「は」はかなくも明日の命を頼むかな 今日も今日もと学びをばせで
「に」似たるこそ友としよけれ交じわらば 我に増す人おとなしき人


 この『日新公いろは歌』は、藩政や藩士の教育の規範ともなり、非常に長い年月に渡って、一般庶民から武士に到るまで、あまねく親しまれました。
 薩摩藩独特の青少年教育「郷中教育(ごじゅうきょういく)」においても、この「日新公いろは歌」は使われ、多くの藩士達が幼少の頃、これを繰り返し反復して、武士の心がけや基礎を身につけたのです。

 坊津を後にした私は一路薩摩半島を北上し、島津忠良ゆかりの加世田の『竹田神社』へと向かいました。竹田神社は、文明12(1480)年、島津久国(しまづひさくに)によって建立された保泉寺という菩提寺を、日新公が再建して、「日新寺(じっしんじ)」としたことに始まります。
 しかしながら、明治維新後、廃仏毀釈によって寺は破壊され、その後、竹田神社と名を変えることになりました。
 竹田神社には島津家中興の祖と呼ばれた島津日新公忠良が祀られ、現在その敷地内には『日新公いろは歌』が彫り込まれた歌碑が道の両脇に並ぶ「いにしへの道」と呼ばれる道が作られています。
 坊津からレンタカーで走ること約1時間30分。
 ようやく竹田神社に到着した私は、まずは本殿の日新公に拝礼した後、「いにしへの道」へと向かいました。いにしへの道の両側には、イヌマキと呼ばれる温暖な地に植生するマキ科の常緑針葉樹の大木が立ち並び、何とも言えず非常に厳かな雰囲気を漂わせています。

「い、いにしへの道を聞いても唱えても……」
「ろ、楼の上もはにふの小屋も住む人の……」
「は、はかなくも明日の命を頼むかな……」

 私は、一つ一つの歌碑に刻まれている「いろは歌」を口ずさみながら「いにしへの道」を歩きました。
 セミの鳴く声と「いろは歌」。
 この二つが何とも言えない心地よい響きを持ったことを、私は今でも忘れることが出来ません。




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