(画像)東シナ海
遠く東シナ海を臨む海岸(鹿児島県薩摩半島)




薩摩旅行記(7)大航海時代の遺産『阿久根砲』
 薩摩の旅二日目。
 この日は朝からあいにくの雨……。
 それも県内全域に「大雨警報」が出ているではありませんか!(これは出発後に知ったのですが)
 実は二日目もレンタカーを借りて出発! と急遽予定を変更したのですが、昨日マーチを借りたレンタカー屋さんは既に予約が一杯で車が用意出来ないとのこと……。
 なので仕方なく、すぐそばにある○○レンタカーへと飛び込んだのですが、昨日よりもかなり割高でした……(泣)。
 しかし、けがの功名とでも言うのでしょうか、二日目に借りた日産の「キューブ」という車は最高の走り心地でした!
 昨日のマーチよりも数倍乗り心地は良いし、また、馬力もあるではありませんか!(昨日のマーチは山道になるとかなり息切れしていたので^^;)
 レンタル料金は少々割高でしたが、この乗り心地なら納得(^^)とばかりに、西鹿児島駅(現在は鹿児島中央駅)を朝八持に出発しました。

 今日の目的は、薩摩半島の北方、東シナ海を望む港町「阿久根市(あくねし)」です。
 『鹿児島県の歴史散歩』(山川出版社)によると、阿久根という地名が初めて歴史上に現れるのは、延喜年間(901〜22)のことで、「英祢駅(あくねえき)」と記録には記されているそうです。
 薩摩藩政時代、阿久根は薩摩から肥後へ出る重要な街道「出水筋(別名・西目筋)」の宿場駅として発展し、藩主の参勤交代の際のルートにも組み込まれていました。
 つまり、阿久根は、薩摩藩の北方の交通の要衝として栄えていたのです。
 現在の阿久根市は水産業が盛んな町となっていますが、「ボンタンアメ」で有名な「ボンタン」の生産地としても知られています。阿久根市はボンタンの生産量が日本一だそうです。

 さて、鹿児島からおよそ三時間、途中で凄まじい暴風雨に遭遇しながら(恐いほどの……汗)、ようやく阿久根に到着した私は、まずは『阿久根市立郷土資料館』へと向かいました。
 阿久根市立郷土資料館は、阿久根市立図書館の二階と三階部分にあるのですが、私が訪ねた時にはカギがかかっていて、職員の方に開館して頂きました。資料館自体が非常に小さかった事とカギがかかっているような状況を見て、余り訪れる人もいないのだろうな……、と思って余り期待はしていなかったのですが、入館してみると、良い方向に期待を裏切られました。
 展示物には、幕末関係のものも非常に多く、素晴らしいものがいくつかありました。
 例えば、斉彬が五女の典姫に授けた「白薩摩御庭焼の茶碗」、「島津久光着用の裃」、「西郷隆盛の書簡」、そして西南戦争で雷撃隊を率いて奮戦した「辺見十郎太の書簡」などなど、小さな展示スペースながらも、貴重な資料が幾つも展示してある充実ぶりでした。

 私がメモを取りながら展示物を見ていると、その展示スペースの一角に、少し変わった展示品が飾られているのに気が付きました。
 長さ3メートルほどの青銅製と思われる砲身(大砲)で、展示名には『阿久根砲』と書かれていました。

「これがあの『阿久根砲』か……」

 阿久根砲については少しだけ知識を持っていたので、実物を見た時には、非常に感動しました。
 この砲身は阿久根砲という名前が付いていますが、実は日本製ではなくて、ポルトガル海軍が使用していた砲身です。それなのに、なぜこの砲身は『阿久根砲』と呼ばれているのでしょうか?
 実はその理由の裏には、一つの面白い裏話が隠されているのです。


 時は大きく遡って、昭和32年3月。
 当時、阿久根市に住んでいた小学五年生の坂元栄次さんは、市内の琴平海岸で遊んでいる時、偶然に砂浜の中に光り輝く物体があることに気がつきました。
 「何だろう?」と、坂元さんがその光り輝く物体に近づいて見ると、見た感じその物体は鉄の塊のようです。坂元さんは、その物体を一生懸命掘り出そうとしたのですが、非常に大きかったため、掘っても掘ってもその全体像が見えてきません。
 仕方なく、坂元さんは掘り起こすことを諦め、家に帰ると、家族にその光る物体のことについて話しました。その話を聞いた坂元さんの父とそして近所の男連中は、浜辺に行って、早速その光る物体を掘り出してみたのですが、鉄の塊と思われたその物体は、何と青銅製の砲身であったのです。
 突然海岸にあらわれた出所不明のその砲身は、当初は西南戦争当時の大砲ではないか? と地元でささやかれていたのですが、専門家に鑑定を依頼すると、何と16世紀中に作られた、今では非常に数が少なく貴重なポルトガル海軍の砲身であることが判明したのです。
 これが現在に残る『阿久根砲』の正体なのです。

 それでは、なぜポルトガル海軍の砲身が鹿児島の阿久根の海岸に埋まっていたのでしょうか?
 また、なぜ何百年もの間、誰にも発見されず埋まっていたのでしょうか?
 この『阿久根砲』については、非常にたくさんの謎に包まれていますが、ただ、ポルトガルの砲身が阿久根の海岸に埋まっていたとしても、まんざら不思議なことでもないと言えるのです。

 阿久根という港町は、坊津と同じく、16世紀中はポルトガル、スペイン、中国といった外国船が盛んに入港し、非常に繁栄した港町でした。坊津が薩摩の南の玄関口だとすれば、阿久根は北薩摩の大陸の玄関口として発展していたのです。
 例えば、ポルトガル商船の船長であったアッホンゾ・ヴァスという人物は、越冬するために阿久根港に入港し、春先まで阿久根で過ごしている記録が残されています。このヴァスという人物は、結局阿久根で海賊の襲撃に遭って命を落とすことになるのですが、阿久根には「とっぽどんの墓」と呼ばれる、このヴァス船長の墓ではないかと言い伝えられている史蹟が今も存在しています。
 このように、阿久根とポルトガルには非常に縁が深い関係があったのですが、『阿久根砲』はその後の詳細な調査から、16世紀中にポルトガルのリスボンかインドのゴアで鋳造されたファルコネッテ型船載砲で、砲身の長さは約3メートル、口径は7センチで、純銅に近い合金製で出来ているという結果が出ています。
 また、阿久根砲がポルトガル海軍の砲身であるという決め手になったのは、砲身に刻まれた紋章からです。
 阿久根砲には、三つの紋章が刻み込まれています。
 一つは、鋳造印。
 二つ目は、当時のポルトガル王室の紋章(王冠と盾を印したもの)。
 最後の三つ目は、ポルトガル帝国のドン・マヌエル王の紋章(ポルトガル帝国の偉大さを示す天球儀を形どったもの)です。
 ドン・マヌエル王と言えば、大航海時代と呼ばれる西洋諸国が大西洋やインド、はたまたアジアにまで進出していった時代に、あのヴァスコ・ダ・ガマをインドへと派遣した王としても非常に有名です。ヴァスコ・ダ・ガマは、その航海において、インド航路を発見することになります。

 このように、阿久根に住む小学生が偶然に発見した砲身は、その砲身に刻まれた紋章からポルトガルのものであると判明し、阿久根で発見されたことから『阿久根砲』と名が付けられ、現在では鹿児島県の指定文化財として大切に保存されています。
 中世の阿久根は外国との交易が非常に盛んに行なわれ、数多くの外国船の往来があったことから、何らかの原因でポルトガル船の砲身が海中に沈み、400年以上もの間、海中に隠れるように潜んでいたのでしょう。
 そして、その砲身を一人の少年が偶然に浜辺で発見したことは、何だか世紀を超えた歴史のロマンを我々に感じさせてくれるものだと思います。

 大航海時代の遺産とも呼べる『阿久根砲』。

 今でも、その砲身からは、大航海時代にかけた人々の熱い思いやロマンといった歴史の香気が、醸し出されているような気が私にはしたのです。




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