「聚珍寶庫碑(しゅうちんほうこひ)」(鹿児島県鹿児島市)




薩摩旅行記(9)「島津重豪の聚珍寶庫(しゅうちんほうこ)」
 薩摩藩島津家の居城であった鶴丸城の背後にそびえる山が、西南戦争において西郷隆盛以下薩軍の将兵達が最後に立て篭もった「城山」です。
 この城山は、鶴丸城が敵に攻め落とされた際の最後の砦として機能するものであったと考えられています。つまり、薩摩藩が城山を背にして城を築いたのは、もし城が陥落した場合、その背後にある城山に立て篭もって戦えるようにと考えていたからです。
 西郷を中心にした薩軍が、宮崎で軍を解散して鹿児島に戻った際、城山を占領して、そこに立て篭もったのは、薩摩藩士達が城山の機能というものをちゃんと理解し、自覚していた証拠と言えるかもしれません。

 さて、鶴丸城の跡地には『激動の明治維新』を開催している鹿児島県歴史資料センター黎明館が建っているのですが、私が着いたのはまだ午前9時少し前でしたので、黎明館の敷地内に建っている『聚珍寶庫(しゅうちんほうこ)』の碑を見学していました。
 この『聚珍寶庫碑』については、黎明館の吉満学芸専門員が碑の由来と碑が黎明館の敷地内に移転されたあらましを詳細な調査研究報告書にまとめておられます。その報告書を元に簡単に説明すると、この聚珍寶庫碑というものは、島津斉彬の曽祖父にあたる島津家25代当主で薩摩藩主の島津重豪(しまづしげひで)ゆかりの碑なのです。

 重豪という人物が中国や西洋の文物を好み、その性格が曾孫の斉彬に色濃く受け継がれていたことはサイト内の随所に渡って書いておりますが(幕末・維新の町を行く 第3回「長崎県長崎市−出島・蘭学のふるさと−」などをご参照下さい)、重豪は自らの隠居屋敷があった江戸高輪の薩摩藩屋敷の別邸内に、自らが収集したたくさんの中国や西洋関係の文物のコレクションを保存する土蔵を持っていました。

 これが『聚珍寶庫(しゅうちんほうこ)』と呼ばれているものです。

 重豪はこの聚珍寶庫と名付けた蔵の前に一つの石碑を建立し、その中に収められている貴重な宝物の数々が、今後も永遠に受け継がれていくことを願った文章を碑に刻み込みました。この重豪の聚珍寶庫の由来を示す碑が、東京都大田区の旧島津家邸の敷地内で存在が確認され、それが現在黎明館の敷地内に移設され、我々も観賞することが出来るようになっているのです。
 聚珍寶庫碑の原文は非常に難しい漢文ですので、ここでは黎明館が設置している案内板の解釈文のみを抜粋したいと思います。この石碑のあらましを読めば、重豪という人物がいかに外国の文物を好み、それを大切にしていたのかがよく分かると思います。


(碑のあらまし −黎明館の案内版より−)
天地がはじめて開け、太陽と月がこの世に現れて、動植物が世界に広がった。神農(中国伝説上の皇帝)が現れて、多くの植物を薬と毒に区別した。
私はこれまで日本各地や海外の珍しい物産を収集し、草木を栽培し、鳥や動物を飼育したが、それは自然界の真理を知ろうとしたためである。年月を重ねるうちに、屋敷の中に宝石、古代の印章や瓦、陶磁器などが満ちてきた。
長年の心を込めた収集は、将来その散逸を残念に思う人がいるかもしれない。
そこで宝物庫を荏原郡の別荘に建て、収集品のうち特に優れたものを選んで収めた。
そして、宝物庫の名前を「聚珍」とした。
百年の後にこの収集品を所有するものは、どうか散逸させることなく、永遠に保持してほしい。



 重豪の聚珍寶庫は、我が国の博物館の始まりと言えば大げさかもしれませんが、博物館の先駆的なものであったと言えるのではないでしょうか。
 重豪が心を込めて収集し、そしてそれを永遠に残して欲しいと願いを込めて石碑に刻み込んだ『聚珍寶庫碑』。黎明館を訪れた際には見て頂きたい石碑です。




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