(画像)白河史跡
(右側)長州・大垣藩戦死六人之墓と
(左側)会津藩戦死墓と会津藩銷魂碑(福島県白河市)




(幕末・維新の町を行く「福島県白河市」−戊辰戦争の激戦地「白河」を訪ねて−)
 福島県白河市と言えば、松尾芭蕉の『奥の細道』にも登場する有名な「白河の関」があった場所であり、東北の玄関口として、その名を歴史上に留めている。
 また、白河は、老中首座を務め「寛政の改革」を実行した松平定信の居城があった場所としても知られ、市内の各所には、定信の遺徳を偲ぶことが出来る史跡が数多く点在している町でもある。
 そして、忘れてはならないものがもう一つ。
 「白河」の名で思い出されるのは、戊辰戦争における白河口の攻防戦ではないだろうか。

 白河口の攻防戦は、会津藩、仙台藩の両藩を主力とした奥羽列藩同盟軍と薩摩藩、長州藩を主力とした新政府軍との間で、およそ100日間にも渡って繰り広げられ、両軍合わせて800名を超える戦死者が出た、東北の戊辰戦争の中でも最大の激戦であった。
 特に、慶応4(1868)年5月1日に行なわれた白河小峰城を巡る攻防戦は、両軍熾烈を極める戦いとなった。
 小峰城を占領していた奥羽列藩同盟軍は、閏4月25日の新政府軍の猛攻を一度は耐えしのいだが、5月1日には、再び新政府軍の圧倒的な火器・銃器を使用した攻撃にあい、同盟軍が守る白河小峰城はあえなく落城した。
 この5月1日の戦いでは、会津藩白河口副総督を務めた横山主税(よこやまちから)、会津藩軍事奉行の海老名衛門(えびなえもん)、仙台藩参謀・坂本大炊(さかもとおおい)など、奥羽列藩同盟軍の重要人物が多数戦死し、また、新政府軍側も参謀の薩摩藩士・伊地知正治(いぢちまさはる)が負傷した。この日の奥羽列藩同盟軍の戦死者は、約700名にも及んだと伝えられている。
 その後、奥羽列藩同盟軍は七回にも及ぶ小峰城奪還作戦を行なったが、結局、最後まで城を攻め落とすことが出来ず、奥羽の要所であった白河は、完全に新政府軍の手に落ちることになったのである。

 今年(2003年)の8月21日、私は大阪から高速夜行バスに乗って、一路福島県郡山市へと向かい、翌朝の22日、電車を乗り継いで白河市に到着した。もちろんその目的は、戊辰戦争最大の激戦地であった白河の史跡を訪ねるためである。
 白河に到着して、私がまず驚いたことは、白河口の戊辰戦争で戦死した者達の墓や慰霊碑、供養塔は、白河市内の各所に建てられており、その数は何と50以上にも及ぶことである。
 奥羽列藩同盟軍にとっては、白河は城を攻め落とされ、多数の戦死者を出したことからも、同盟軍関連の慰霊碑ばかりが建っているのかと思いきや、新政府軍関連の慰霊碑も数多く建てられているのである。
 そんな数多くの慰霊碑が建てられている場所の中でも、特に、私が目を見張ったのは、白河城下で最も激しい戦いが繰り広げられた松並という場所である。
 松並は、白河小峰城の南方、奥羽列藩同盟軍が主力を置いた稲荷山のふもとに位置し、5月1日の攻防戦においては、多数の戦死者が出た最大の激戦地である。
 現在この場所には、旧奥州街道を挟んで東側に「長州・大垣藩戦死六人之墓」、西側には「会津藩戦死墓」と「会津藩銷魂碑」が向き合うように建てられている。道を挟んでわずか10mばかりの至近距離に、奥羽列藩同盟軍と新政府軍の墓が建てられ、なおかつ、私が訪れた時には、「会津藩戦死墓」と「長州・大垣藩戦死六人之墓」の両方の墓碑に、地元白河の方が供えたであろう同じ花がそえられていた。

 白河口の攻防戦では、白河の城下町は大きな戦火に見舞われ、白河の住民の多くもまた、戦争の犠牲者となって数多くの人々が亡くなっている。
 しかしながら、その戦争の悲劇を「怨念」として後世に残すのではなく、両軍の戦死者を手厚く葬り、そして今なお供養し続けている地元の方々の思いに、私は胸の奥から熱いものが込み上げてきた。
 奥羽列藩同盟軍、新政府軍、歴史の運命とは言え、激しい戦いを繰り広げた両者を、分け隔てることなく、その墓所に同じく供えられた花を見た私は、地元白河の人々のその花に込めた思いに、思わず感動せずにはいられなかった。
 戊辰戦争の悲劇の爪あとを色濃く残す町でありながらも、戊辰戦争の戦死者を両軍分け隔てることなく、今なお手厚く供養し続ける白河の町。いつかもう一度、訪れてみたいと感じさせる場所である。




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