玉藻公園(高松城跡)(香川県高松市)




(幕末・維新の町を行く「香川県高松市 −高松と水戸と彦根の関係−」)
 先日のことですが、私事で香川県高松市に行ってきました。
 私の叔父が高松市内の病院に急遽入院したことから、その見舞いとして大阪から車を飛ばして高松まで行ったのですが、その帰りに「香川県歴史博物館」と「玉藻公園(高松城跡)」に寄って帰って来ました。
 香川県と言えば、最近ブームに火が付いている「さぬきうどん」の本場としても有名な場所ですが、その香川の県庁所在地である高松市は、松平家が治めていた城下町でもありました。

 高松松平家(高松藩)は、御三家の一つ、水戸藩徳川家の支藩とも言うべき藩です。
 高松松平家の始祖である松平頼重は、水戸藩初代藩主・徳川頼房の長男であり、水戸藩第2代藩主・徳川光圀の兄にあたります。徳川光圀と言えば、テレビの時代劇でもお馴染みの「水戸黄門」のことです。
 光圀は徳川頼房の三男にあたるのですが、光圀は兄の頼重を差し置いて水戸藩を継いだことから、そのことを後年はかなり気にしていたようです。光圀は自らの跡取りとして、兄の頼重の子である綱条(つなえだ)を第3代藩主に迎え、自分の子である頼常(よりつね)を兄の跡取りとして高松藩第2代藩主にしています。つまり、お互いの子供を世継ぎとして交換した形を取ったのです。
 このような関係から、水戸と高松は非常に縁が深い間柄で、その後もお互いに養子のやり取りなどをして交流を深めていたのですが、これが幕末になるとその関係が一変しました。

 弘化元(1844)年5月、ご存知「烈公」として名高い水戸藩第9代藩主・徳川斉昭が幕府から隠居・謹慎を命じられていますが、この斉昭の隠居・謹慎を裏で糸をひいた黒幕こそが、当時の高松藩第10代藩主・松平頼胤であるという噂が流れ、そしてそれは「頼胤自身が水戸藩を乗っ取ろうとしているからだ」という流言までもが水戸藩内を駆け巡りました。
 実際にこのような陰謀があったのかどうかについては、今では判別しにくいものがありますが、当時の斉昭派の水戸藩士達はそう信じていた者が多かったようです。
 このような経緯があったことから、幕末当時の水戸藩士の中には高松藩のことを疎ましく思う者が数多く居たことは事実です。そして、さらに水戸藩士らの感情に火に油を注いだのは、高松松平家と彦根井伊家との縁組みでした。

 水戸家と井伊家が因縁浅からぬ間柄であることは歴史上周知の事実です。
 この両藩の間では、文化5(1808)年に「松戸川事件」という船喧嘩事件も起こっており、元々水戸家と井伊家は互いに相容れぬ間柄であったのですが、その井伊家と水戸の支藩とも言うべき高松松平家が縁組みを行なったことは、水戸藩士達の感情を非常に刺激しました。
 彦根藩第16代藩主・井伊直弼の次女である弥千代姫と高松藩第10代藩主・松平頼胤の世子である頼聡が、安政5(1858)年4月21日に婚儀を取り結び、この両藩の縁組みが成立したのですが、元々高松藩と彦根藩は同じ「溜間詰」の大名であり、お互い親交が深かった間柄であったため、その運びとなったのです。

 少し話がそれますが、「溜間詰」という言葉は、江戸城中黒書院に付属する部屋を「溜間」と呼んでおり、その部屋が当時の大名詰所の一つであったことから、この「溜間」に詰めている大名のことを「溜間詰」と呼んだのです。
 江戸城内には各大名(藩主)達の控え室として、詰所が用意されており、それらは大名の家格によって七つの部屋にランク付けされて分けられていました。
 簡単に書きますが、その七つの部屋の中でも一番格式が高かったのは「大廊下」と呼ばれる部屋で、これは御三家(尾張、紀伊、水戸徳川家)や御三卿(田安、一橋、清水徳川家)等、非常に家格の高い大名が詰めている部屋でした。そして「溜間」は、それに次ぐ格式の高い部屋だったのです。
 「溜間」は、譜代大名の中でも特別の家柄の者や老中を勤めたことのある大名らが詰めている非常に格式の高い詰所でした。この「溜間」に詰めている大名の中に、彦根、会津、高松(松平家)の三家があり、この三家は俗に「常溜(じょうだまり)」や「本席」と呼ばれ、歴代溜間詰に列せられる家格でした。
 また、溜間詰の大名は、在府中(江戸にいる間)は、毎月10日、24日の両日に登城して溜間に詰め、政務のある際には老中と討議したり、はたまた直接将軍に意見を上申することも出来たのです。この「溜間」の他にも、江戸城中の大名詰所には、上から「大広間」、「帝鑑間」、「柳間」、「雁間」、「菊間」と呼ばれる部屋がありました。

 少し話がそれましたが、このように高松松平家と井伊家は共に溜間詰の大名であり、親交も深かったことから、両家の縁組みが成立したと言えましょう。
 また、非常に注目すべき出来事に、この両家の縁組みが成立した2日後の4月23日に、井伊直弼が幕府の大老職に就任しています。
 江戸幕府第12代将軍・徳川家定の跡継ぎを決める、いわゆる「将軍世子問題」については、水戸藩は前藩主の徳川斉昭の子である一橋慶喜(後の徳川慶喜)を候補者に挙げて運動を行なっていましたが、反対に井伊家は、紀州藩第13代藩主で当時わずか12歳であった徳川慶福を推しており、水戸家を中心とした一橋派と紀州徳川家、井伊家を中心とした紀州派は対立関係にありました。
 その最中、井伊家が水戸の支藩とも言える高松松平家と縁組みを行ない、そして直弼自身が大きな権力を持つ大老に就任したのですから、水戸藩士達の目の色が変わったのも無理ないことだったと言えるでしょう。そしてその後、その将軍世子問題を巡って、井伊家と高松家、そして水戸家は激しく衝突することになったのです。
 結果、大老・井伊直弼の独断という強引な裁定により、次期将軍には紀州藩の徳川慶福が就くことになり(慶福は14代将軍・徳川家茂となる)、また大老の井伊が一橋派の大名らを多数処罰する荒業に出たため、井伊家、高松松平家と水戸家の間には大きな遺恨が生じました。
 万延元(1860)年3月3日、江戸城桜田門外において、大老・井伊直弼を襲撃され、白昼堂々その首が討ち取られる事件が起こりました。いわゆる「桜田門外の変」と呼ばれているものですが、この事件の主犯格になっていたのが井伊家に恨みを持っていた水戸脱藩浪士達だったのです。

 今回の高松行きでは、高松城跡である「玉藻公園」を訪れたのですが、園内の「陳列館」という高松松平家の史料を展示している陳列室には、頼聡と結婚した井伊直弼の娘である弥千代姫の晩年の写真が展示されていました。いかにも品の良いその顔立ちからは、晩年であるにもかかわらず、大大名であった井伊家の姫君としての雰囲気が窺い知れましたが、おそらく明治維新後の彼女は、井伊直弼の娘として、周囲からも余り良い目では見られず、不遇な年月を過ごしたのかもしれません。

 昭和41年8月、彦根城と高松城の間で姉妹城の締結がなされました。
 これは前述した通り、高松の松平家と彦根の井伊家が婚姻関係を取り結ぶなど、非常に親しい間柄であったためです。
 また、その2年後の昭和43年10月には、彦根市と水戸市が親善都市となり、さらにその6年後の昭和49年4月には、彦根市の仲介で高松市と水戸市が親善都市の関係を結びました。
 激しい時局の変化のため、幕末期には三つ巴の対立を免れなかった高松と水戸と彦根の三藩は、長い年月を経た今、ようやくお互いの遺恨を水に流し、親善都市として互いに交流を深めあっているのです。




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