毛利空桑胸像(大分県大分市)




(幕末・維新の町を行く 第14回大分県大分市「鶴崎を訪ねて−毛利空桑と知来館−」)
 大分市の中心部から東に七キロほど行ったところに鶴崎という場所がある。
 鶴崎はその土地柄、府内藩(大分藩)の領地として誤解されやすいが、江戸藩政時代は肥後藩(熊本藩)が領有する飛び地であった。
 肥後藩にとって、熊本城下から遠く離れたこの鶴崎という領地は、実はとても重要な意味を持っていた。江戸幕府が定めた参勤交代の制度において、肥後藩主は熊本から江戸に向かう際、熊本城下からまず陸路で鶴崎まで移動した後、鶴崎で御座船に乗り込み、海路で大坂方面へと向かうのが慣例となっていた。つまり、鶴崎という土地は、肥後藩にとって重要な交通の要衝だったのである。
 現在、熊本城天守閣内に「波奈之丸(なみなしまる)」という御座船の御座所部分が保存・展示されているが、この波奈之丸は鶴崎において建造されたものであり、実際に肥後藩主の細川家が参勤交代において代々使用した船である。
 鶴崎という港町は、肥後藩が雇い入れていた水夫や船大工などが多数居住していたことから、肥後藩にとって、東に向かうための大切な海の玄関口として、藩政時代は大いに賑わいを見せていたのである。

 時は幕末。
 この鶴崎の地に一人の人物が私塾を開き、九州各地を中心に集まってくる多数の子弟達に対し、教鞭をふるっていた。
 塾の名は「知来館(ちらいかん)」と言い、そしてこの知来館を開塾した人物こそ、「鶴崎の三哲」の一人に数えられる、毛利空桑(もうりくうそう)である。

 寛政9(1797)年1月15日、毛利空桑は熊本藩領常行村(現在の大分市)に生まれた。
 空桑の父の太玄は、当時自然哲学者として名を馳せていた三浦梅園(みうらばいえん)の門下生となるなど、学問の誉れが高く、子の空桑もまたそんな父の薫陶を受けて、幼少の頃から学問漬けの日々を過ごした。
 空桑が鶴崎で私塾「知来館」を開くまでに師事した学者は、非常に多数そして多岐にわたる。三浦梅園と共に「豊後の三賢」の一人と称せられた帆足万里(ほあしばんり)、万里の師であり、儒学者であった脇蘭室(わきらんしつ)、肥後藩の藩校・時習館で教鞭をふるっていた大城霞坪(おおしろかへい)に加え、福岡藩の藩儒・亀井南溟(かめいなんめい)の子である亀井昭陽(かめいしょうよう)など、空桑は当時九州で高名だった儒学の大家達に次々と師事し、その教えを受けて自らの学問を深めた。
 文政7(1824)年、福岡から帰郷した空桑は、故郷常行村に私塾「知来館」を開いた。知来館はその後鶴崎の地へと移され、そこで40年近くもの長きに渡り、空桑は多数の子弟達を教育することになる。

 空桑の言葉に、

「文ありて武なきは真の文人にあらず。武ありて文なきは真の武人にあらず」

 というものがある。
 つまり、空桑は「文武両道」を最大の教育目標に掲げ、九州各地から集まりくる塾生達に対し、自らの理念や知識を教えると同時に、併せて剣術をも叩き込んだのである。
 知来館において空桑の教えを受けた人物は、何と900人近くにも上り、当時空桑の評判がいかに高かったのかが容易にうかがい知れるのではないだろうか。

 嘉永6(1853)年10月16日、そんな空桑の噂を聞きつけてか、ある一人の人物が彼の元を訪れた。
 その人物の名は吉田寅二郎。そう若き日の吉田松陰その人である。
 松陰は、後年長州藩の城下町・萩において、「松下村塾(しょうかそんじゅく)」を開き、多数の若者達を教育し、その後松陰の教えを受けた若者達は大いに活躍することになるが、この頃の松陰はまだ萩の地には落ち着いてはいなかった。
 嘉永6(1853)年6月のペリー来航を始めとする、諸外国からの様々な外圧が次々に迫りくる中、松陰は「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」という故事に従うかのように、外国への密航という大胆な計画を企てた。
 当時江戸に居た松陰は、ペリーの来航後、長崎にロシア使節プチャーチンが向かったことを知ると、嘉永6(1853)年9月18日に江戸を発ち、海路瀬戸内海を通って長崎へと向かった。
 この時の松陰の長崎行きの道中については、松陰が書き残した『長崎紀行』という日記の中に詳しく書き記されているが、松陰は長崎に向かう途中、豊後大分の鶴崎に立ち寄り、空桑の元を訪ねている。
 松陰が空桑のことをどこでどう知ったのかは定かではないが、豊後大分に着いた時、「鶴崎に賢人あり」という噂をどこからか聞きつけ、空桑を訪ねようと思い立ったのかもしれない。

 松陰は鶴崎に着いた10月16日の夜、空桑の元を訪ねた。時に空桑56歳、松陰23歳の時のことである。
 松陰の『長崎紀行』には、その時のことがごく簡単に次のように記されている。


「十六日 舟を發し、硫黄洋(伊予灘)を渡り、鶴崎に達す。(中略)夜、毛利到を訪ふ」
(『吉田松陰全集第10巻』(岩波書店)所収『長崎紀行』より抜粋。なお、旧字等は筆者が分かりやすく改めた)



 到とは空桑の通称である。
 その日、親子ほども年が違う空桑と松陰がどんな対面をし、そしてどのような話をしたのかは、残念ながら記録上何も残されていない。
 ただ、後年の松陰の行動や空桑の思想などを考え合わせると、想像ではあるが、二人はきっと意気投合し、話も弾んだように思える。二人は夜を徹して語り合ったのではないだろうか。

 空桑を訪ねた後、松陰は無事に長崎に到着したが、既にプチャーチンは長崎を去っており、海外への密航計画は失敗に終わった。
 しかし、なお諦めきれなかった松陰は、ペリー二度目の来航の際、下田において再び密航を試みるがあえなく失敗し、幕府に捕縛される身となる。
 その後の松陰の生涯は、歴史上よく知られている。故郷萩へと送還された松陰は、そこで松下村塾を開き、多数の若者達を教育した。松陰の門下生達は、幕末の長州藩における大きな力となり、明治維新を迎える大きな原動力となったのである。

 一方空桑はと言うと、その明治維新という大きな時代の流れを真っ向から否定する立場をとった。根っからの尊王攘夷論者であった空桑は、亡くなる直前まで攘夷を主張し続け、急激な西洋化を目指す明治政府を絶えず批判し続けた。
 明治3(1870)年、長州藩の奇兵隊脱走騒動を機に、反政府運動を画策したとされる旧長州藩士・大楽源太郎(だいらくげんたろう)は、山口を脱走後、鶴崎に赴き、空桑の元を訪ねた。空桑はそんな大楽の身を匿い、彼の運動を積極的に援助したのだが、このことにより、空桑は政府より罰せられることになる。
 しかし、そんなことがあっても、空桑はその後も絶えず政府に対する批判を続け、いつまでもその反骨精神を失うことなく、明治17(1884)年12月22日、由布院村川上(現在の大分県由布市)で湯治中に病にかかり、その生涯を終えた。享年88歳であった。

 大分駅から電車に乗り、鶴崎までは約15分。そこからタクシーを使って約5分のところに、空桑が「知来館」を開いた場所がある。
 驚くべきことに、知来館の建物は現在もそのままの姿で保存されており、また空桑の居宅であった「天勝堂」と名付けられた母屋も、当時のままの姿で保存されている。
 空桑ゆかりの二つの建物に隣接したところに、「毛利空桑記念館」が建てられている。記念館内には、空桑の遺品や遺墨、書画、肖像画など空桑関連の史料が数多く展示され、空桑の生涯や業績を詳しく知ることができる。
 私は何度かこの記念館を訪ねたことがあるが、いつ訪れても、地元のボランティアの方であろうか、懇切丁寧に空桑の生涯や展示品について詳しく説明して頂いた。空桑という人物は、地元鶴崎においては、誇られる郷土の偉人なのである。

 空桑が開いた私塾「知来館」の建物内部に入ると、そこはもう別世界である。まるでタイムスリップしたかのように、幕末当時の空間がそのまま保存されており、往時の情景を想像するのではなく、直接的にその光景が目に飛び込んでくるような錯覚さえも覚える。
 また、空桑の居宅であった天勝堂の内部や庭を歩いていると、腰に大きな刀を差した空桑が、塾生達に対し、大きな声を張り上げて時勢を語る姿や庭先において塾生達が木刀を振る様子などが、まるで目に浮かんでくるようだ。
 鶴崎の知来館は、幕末当時のまま、まるで時が止まっているような感覚を感じさせてくれる場所である。




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