(写真)到道館
庄内藩の藩校・到道館(山形県鶴岡市)




(幕末・維新の町を行く「山形県鶴岡市」−領民と結ばれた深い絆−)
 今年(2001年)の夏、大阪から新潟経由で山形県鶴岡市を旅してきました。現在の鶴岡市は、田園地帯が広がる非常にのどかな田舎町です。その昔、鶴岡(前名を鶴ヶ岡)は、庄内藩酒井氏14万石の城下町として発展し、後年には西郷隆盛と深い交流があった土地としても有名です。
 庄内藩酒井氏の藩祖は、徳川家康の側近として名を馳せ、「徳川四天王」の一人と謳われた酒井忠次(さかいただつぐ)です。庄内鶴ヶ岡へは、第3代藩主・酒井忠勝(さかいただかつ)の時に入部し、それ以後、明治維新にいたるまで酒井氏が庄内を治めることになるのですが、天保11(1840)年、庄内藩に大きな危機が迫りました。

 天保11(1840)年11月、当時の江戸幕府は、鶴ヶ岡を本拠とする庄内藩に対し、突如越後長岡への領地替を命じました。その内容は、庄内藩を越後長岡に、長岡藩を武蔵川越に、そして川越藩を庄内鶴ヶ岡に転封させるもので、世間一般には「三方領地替」と呼ばれるものです。
 武蔵川越藩主・松平斉典(まつだいらなりつね)は、以前から自藩領の収入が非常に低く、財政が苦しいことに頭を悩ませていたのですが、第11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)の子を養子として迎えたのをきっかけに、幕府に対し国替えを申請しました。つまり、将軍家の子を養子として迎えたのだから、「国替え」という引き出物が欲しいと暗に要求したのです。
 時の老中・水野忠邦(みずのただくに)は、そんな川越藩の申請を受け入れ、その国替えの候補地として白羽の矢を立てたのが、広大かつ肥沃な庄内平野を持つ庄内藩領だったのです。

 しかし、庄内藩としては、幕府の突然の転封命令は大いに不満でした。なぜなら、庄内藩は表高14万石しかありませんでしたが、実質は20万石ほどの収入があったため、表高7万4千石しかない長岡藩領(実収入はその倍程度)では、減封に近い処置と考えられたからです。
 しかしながら、前述のとおり、庄内藩は徳川家に縁の深い親藩であったため、幕府の命令に逆らうわけにはいきません。庄内藩としては泣く泣く転封の準備を始めたのですが、その庄内藩に迫った危機を救ったのが、庄内藩領に住む農民や町民といった人々だったのです。

 庄内藩は、第9代藩主・酒井忠徳(さかいただあり)の治世時、慢性的な財政危機に陥りました。江戸時代と言えば、全国どこの大名家も、幕府からの相次ぐ手伝い普請や参勤交代の費用などがかさみ、その財政は逼迫していました。例えば、薩摩藩などは、「借金500万両」という途方もない財政危機に陥ったことは有名な話です。
 庄内藩の財政危機を前にした藩主・忠徳は、本間光丘(ほんまみつおか)という人物を起用し、財政の改革に着手しました。光丘が当主であった本間家は、戦後の農地開放までは「日本一の大地主」として名を馳せた庄内酒田の名家です。

「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」

 巷でこう歌われるほど、本間家の繁栄ぶりには目をみはるものがありました。
 この本間家が財をなす基礎を作った人物が、本間家第3代当主の本間光丘です。光丘は商人でありながらも、明和4(1767)年1月、藩主・忠徳に登用されるや、私財を投げ打って次々と藩内の財政改革を開始しました。光丘は、藩士や農民達が抱える高額の借金などを肩代わりし、その代わりに低利息で融資を行い、藩士や農民の窮状を救いました。
 また、光丘は、領内に備荒籾(備蓄米)を蓄え、冷害などで米が凶作の際には、それを領民達に分け与えるなどの善政を領地内に行ったのです。この光丘の改革で、庄内藩は息を吹き返したこともさることながら、その後の歴代藩主は、こういった領民を労わる政治姿勢を踏襲したため、庄内の領民は、その後も藩に対して感謝の念を抱くこと一通りではありませんでしたが、そこに降って湧いたように、天保11(1840)年11月の幕府からの突然の転封命令が庄内藩を襲ったのです。

 転封命令を知った農民らは、「酒井様が庄内からいなくなられるなんて考えられぬ」とばかりに、独自に行動を起こしました。村ごとに決めた代表者を直接江戸に派遣し、幕府に対して、執拗に転封撤回の嘆願活動を繰り広げたのです。天下の幕府が出した命令に対し、一領民達がその撤回を要求する等ということは、まさに前代未聞のことでありました。しかしながら、庄内の領民は、根気良く、そして必死に嘆願活動を続けたのです。
 そしてその結果、何と幕府が命じた「三方領地替」は、白紙撤回されたのです。これは前将軍・家斉が死去したことにも影響しているのですが、庄内領民達が続けた熱意ある運動の成果が、転封撤回の要因の一つとなったといっても過言ではないでしょう。
 このような形で、領民達が一丸となって幕府の転封命令を覆したというのは、まさに異例中の異例、奇跡と言っても近い出来事でした。
 この庄内領民の転封撤回運動を、地元では「天保おすわり事件」と呼んでいます。この事件に象徴されるように、庄内藩とその領民との間には深い絆があったことは、特筆すべきものではないでしょうか。

 時代は飛んで、幕末期。
 戊辰戦争において、会津藩と共に征討の対象となった庄内藩は、新政府軍との戦いにおいて、最終的に約4500人の兵を動員したのですが、その内の約2200名が、実は農民や町民といった領民達によって組織された民兵でした。この民兵の割合は、非常に異例なもので、このような高い比率は他藩には見られず、庄内藩だけに見られることです。
 このように、庄内藩の戊辰戦争は、藩士と領民とがまさに一丸となって、新政府軍と相対しました。そして、戊辰戦争後、庄内藩が新政府から、会津若松への転封や賠償金の請求を命じられた際にも、領民はその転封撤回の嘆願活動を行ったり、賠償金支払いのための基金として、藩に対し献金したりと、藩と領民が一丸となって、庄内藩に訪れた危機を乗り越えようとしました。
 その結果、明治に入ってからも、庄内藩は転封することもなく、鶴ヶ岡を中心拠点にし、松ヶ岡開墾場に代表される県内の殖産興業に努めることが出来たのです。
 天保おすわり事件、戊辰戦争、そして明治に入ってから訪れた転機、この庄内藩を襲った様々な危機に対し、深い絆で結ばれていた藩とその領民達は、まさに一心同体となって乗り越えたのです。




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