伊達氏の居城・宇和島城(宇和島市)



(幕末・維新の町を行く「愛媛県宇和島市」−小さな町が生んだエネルギー−)
 私は、四、五年前からずっと、愛媛県にある宇和島という町に一度足を運びたいと考えていました。
 江戸幕府が終焉を迎えようとしていた幕末と呼ばれる時期、宇和島藩はわずか10万石の小藩であったにもかかわらず、幕末の政局に多大な影響を与えました。幕末期に活躍した藩と言えば、「薩長土」(さっちょうど)という言葉に表現されるように、77万石の薩摩藩・島津家、36万石の長州藩・毛利家、24万石の土佐藩・山内家といったように大藩がほとんどでした。こうした薩長土と相対し、わずか10万石の小大名であった宇和島藩が活躍したということは、特筆すべきものであると言って過言ではないでしょう。
 それでは、なぜこんな小さな藩からそのような大きなエネルギーが生まれ、国政に大きな影響力を持ったのでしょうか。私が宇和島という町を実際にこの目で見たいと思った最大の理由がそれだったのです。

 宇和島は、愛媛県の南方にある旧伊達家10万石の小さな城下町です。
 伊達家と言えば、宮城県仙台市の東北の伊達家を連想される方がほとんどでしょうが、宇和島伊達家の藩祖は、独眼竜と畏怖された戦国期の大名・伊達政宗(だてまさむね)の長男・伊達秀宗(だてひでむね)です。
 伊達家の長子である秀宗が、仙台の本家を継ぐことなく、宇和島の地に大名として入封した理由については、秀宗が政宗の側室の子であったため家督を継ぐことが出来ず、本家を正室の子の次男・忠宗(ただむね)が継ぐことになったからです。秀宗は徳川家から伊予国宇和郡に10万石を賜ることになり、元和元(1615)年、宇和郡板島(現在の宇和島市)に入国しました。これが宇和島伊達家の始まりです。

 江戸時代における宇和島藩は、幕府から転封を命じられることもなく、幕末を迎えることになったのですが、幕末期の宇和島藩の活躍を述べるには、第8代藩主の伊達宗城(だてむねなり)の存在を抜きにしては語れません。
 伊達宗城という人物は、進取気鋭の人物で、積極的な殖産興業と富国強兵策を藩内に実施しました。また、こよなく西洋の学問を愛し、「蛮社の獄」(江戸幕府が渡辺崋山らの蘭学者グループを弾圧した事件)で捕らえられた後、脱獄した蘭学者・高野長英(たかのちょうえい)を藩内で匿ったり、長州藩出身の蘭学医・大村益次郎(おおむらますじろう)を宇和島に招聘し、蒸気船の建造や砲台の設置等にあたらせる等、藩内へ最新の西洋知識の導入をはかりました。この宗城が世にその人物であることを認められ、幕末期に活躍することになり、国政のイニシアチブを握る一人となるのです。
 わずか10万石の小大名であった宇和島藩が一躍国政の表舞台に出られたのは、ひとえに藩主・宗城の存在があったればこそと言って良いでしょう。

 今年(2000年)5月のゴールデンウィーク、私はかねてからの念願であった宇和島へと向かいました。
 フェリーで大阪から愛媛県松山市まで約9時間、松山から特急で約1時間30分、私はようやく宇和島に到着しました。
 宇和島は非常に小さい、そして静かな港町です。こんな小さな港町から、幕末という混乱時になぜ大きなエネルギーが生まれたのでしょうか。その理由を解くカギとして、歴史作家の吉村昭氏は、「宇和島藩の経済力と人の和」ということを重要視されていましたが、特に「人の和」に関しては、私も宇和島を実際に訪れて、まったく同感する思いでした。
 宇和島の街なかを散策していると、近所に住む人々が気さくに声をかけてくれることが多く、私は触れ合う宇和島の人々の性格が非常に温和で優しく、人情が厚いことが強く印象に残りました。
 幕末期、宇和島藩があれほどの大きな活躍が出来たのは、前述した藩主・宗城の存在が大きかったこともさることながら、宇和島藩士が人の和を大切にし、藩士全体が宗城の命令を遵守し、かつ補佐した結果、藩論が統一され、藩内が一体となっていたことも大きな理由であったのではないでしょうか。
 今では、非常に静かな港町である宇和島。その小さな町から発せられたエネルギーは、そこに住む人々全体から発せられたような気が私にはしてなりませんでした。




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