島津義弘銅像(鹿児島県日置郡伊集院町)

第十五話「関ヶ原から明治維新へ−薩摩藩と幕府の関係@−」

「明治維新において、幕府を倒した藩は「関ヶ原の合戦」で敗戦した側が中心となっており、その中でも反幕府の精神が横溢であった薩摩藩や長州藩が、関ヶ原の恨みを幕末になって晴らしたのである」

 このいわゆる「明治維新は、関ヶ原の戦いの雪辱を晴らしたものである」という従来の史観に関しては、私自身、非常に無理のある解釈だと考えています。
 確かに、結果的には関ヶ原の敗戦藩が中心となって幕府を倒すことになりますが、先程の考え方は、おそらく結果論からくる後世の後付け的な考え方ではないかと考えています。
 幕府と全国に配置された諸藩との関係を考えると、関ヶ原で敗戦した藩が幕府に対し、長年恨みを持っていたために明治維新が起こったとは簡単に判断出来るものではありません。倒幕に至ったプロセスは、各藩の思惑が色々と絡んで非常に複雑な過程を経ているため、そう簡単に割り切って断定出来るものではないと私は考えています。
 これはまったくの推測ですが、この「関ヶ原史観」は、おそらく明治維新後、栄達を遂げた薩長両藩出身の元勲達がそういうことを言い出したり、各歴史書に書かせたことから生じたものと言えるかもしれません。

 さて、まずは島津家の話に入る前に、毛利家、つまり長州藩の話から入りますが、確かに長州藩は関ヶ原の合戦後120万石以上もあった領土を36万石程度に削減されています。
 そのため、長州藩自体が心情的に幕府に対して良い感情を抱いていなかったであろうことは理解することが出来ますが、その反幕的な感情を250年間以上も抱き続け、そして待っていたとばかりに最終的に反幕の烽火を上げたということには、単純に繋げられないものと思っています。
 幕末史の流れをよく観察すれば見えてくるのですが、幕末期、長州藩が最初に政局に絡んで来たのは「航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)」という、長州藩士・長井雅楽(ながいうた)が提唱した論策を引っさげての登場でした。
 この長州藩が周旋した航海遠略策というものは、「公武合体政策」、つまり朝廷と幕府を融和させ、政治を行なっていこうとするための政策であり、また、どちらかと言うと、当時公武合体運動を推進していながらも政治に行き詰まりを起こしていた幕府への救済策として登場した性質を持つものです。
 長州藩が周旋した論策が、幕府への一種の助け舟を出すような政策であったことは、注目する必要があると思います。
 航海遠略策がこのような性質を持つものであったため、当時の幕府老中であった安藤信正は、長州藩のこの提案を非常に喜んで飛びつき、この航海遠略策を元にして、行き詰まった公武合体運動を打開し、一つの活路を見出そうとしました。平たく言えば、長州藩の周旋は、幕府にとっては「渡りに舟」的な政策でもあったのです。

 このように、長州藩は最初から反幕の姿勢を取って幕末の政局に関わってきたのではなく、むしろ幕府寄り、つまり幕府を立て直して国内政治を安定させようとする政策をもって政局に登場したのです。
 しかしながら、その後に起こった様々な事件や出来事が複雑に絡み合って変化し、最終的に長州藩は航海遠略策を捨て、反幕の立場を表明することになるのですが、前述したとおり、長州藩は最初から幕府に対して敵愾心を燃やしながら政局に絡んでいったわけでは決してないのです。。
 ここで考えなくてはならないのは、当時の幕府は「絶対権力」であったということです。
 幕末ともなると、幕府の権力や権威は恐ろしいばかりに失墜してしまいますが、それは幕末の末期、究極に政局が煮詰まった最後の最後になってからのことです。250年以上も続いた幕藩体制下においては、反幕的な態度や考え方を持つ藩自体、おそらく皆無であったろうと思います。現に慶応4(1868)年の年明けに起こった「鳥羽・伏見の戦い」においても、実際幕府と敵対して交戦した藩は薩長両藩の二藩しかありません。
(付記:一部の土佐藩兵が戦闘に参加していますが、それは土佐藩の公式的な態度ではありません)
 これらから考えると、幕府権力というものは、現代に生きる我々が考え、感じる以上に強大かつ堅固なものであったのです。
 薩摩藩、長州藩に限らず、例外無く全国どこの藩もそうですが、幕府のその強大な力の前に、250年以上もの長い間、どの藩も積極的に親幕政策を取っています。当然「関ヶ原の恨み」なんて微塵とも見せません、いやそんなことを態度に見せようものなら、藩を取り潰されても仕方がありませんから。

 嘉永6(1853)年6月、ペリーが浦賀に来航して以来、日本中は「開国するか、鎖国を続けるか」の究極の二者選択を迫られました。そのため、この国家的な危機を乗り切るために、第13代将軍・徳川家定の跡目相続を巡る問題として、いわゆる「将軍継嗣問題」というものが起こりますが、これは「幕府を中心にして、いかにこの国難を乗り切るか」という考えの元に起こったものです。
 つまり、安政年間に生じた「将軍継嗣問題」というものは、強いリーダーシップを発揮出来る人物を将軍に立てることにより、国内政治を安定させ、緊急に差し迫った外交問題、つまり諸外国との対外交渉関係という日本に降りかかったこの大きな国難を乗り切ろうと考えた末、生じたものであると言えるのです。また、聡明な将軍を立てることにより、幕府の政治体制を安定、かつ強化しようとしました。当時の諸藩の考え方には、反幕的な要素は非常に少ないと言えますし、むしろいかに幕府を立て直すかに焦点を絞っていたとも言えると思います。
 これは薩摩藩の場合も同じです。薩摩藩の場合、最初に国政へ乗り出すきっかけを作ったのは、島津家28代藩主・島津斉彬ですが、斉彬が積極的に政局に絡んでいったのも、いかに幕府を中心にして、欧米列強諸国に対抗出来る国家を作り上げることが出来るか、という観点からでした。

 さて、ここから薩摩藩のことに話を移しますが、確かに薩摩藩は「関ヶ原の合戦」では石田三成率いる西軍方に付き、敗戦側となった藩です。
 しかしながら、薩摩藩は関ヶ原で負けたからといって、徳川家からは領地を一合も削られていません。薩摩藩が領地を削られなかったのは、ひとえに島津家の巧みな外交交渉の結果であったと言えましょう。
 反対に対幕府外交に失敗し、領地を大きく削減されたのは、前述した長州藩の場合であって、長州藩には心情的に幕府を恨む気持ちは当然あったでしょうが、薩摩藩には特に幕府を恨む理由など無かったと私は考えています。
 また、薩摩藩の島津義弘が関ヶ原の合戦で石田方に付いたのは、非常にやむを得ない事情がありました。関ヶ原で戦いが行なわれる以前、上杉討伐に向かおうとした徳川家康は島津義弘に対して、

「石田三成が西で事を起こしたら、伏見城に入城して、城を守備してくれるように」

 と頼んでいました。つまり、島津家は元々は徳川方に組していた大名であったのです。
 その家康の予想通り、その後石田三成が挙兵したため、島津勢は家康の指示通り伏見城に入城しようと試みますが、伏見城を守る徳川方の武将・鳥居元忠は「援軍無用!」とばかりに、島津勢の入城を堅く拒否しました。そのため、島津勢は伏見城に入ることが出来ず、結局島津義弘はここで已む無く石田方に付くことを決心するのです。当時京都にいた島津勢は非常に寡少であったため、義弘としてはこう決断せざるを得ない状態にあったとも言えましょう。

 このように島津勢自体が徳川方に属することが出来ず、やむを得ず石田方に組せざるを得なかった影響は、後の関ヶ原の合戦において出てきます。
 関ヶ原の合戦において、島津勢は戦闘には参加せず、戦の勝敗が徳川方の勝利に決したのを確認してから、「捨てかまり」と呼ばれる独特の退却法を使って、敵中突破を試みて退却するのです。
 このような形で島津勢が関ヶ原でまったく動かなかったのは、兵が非常に少数であったこともさることながら、元々は徳川方に属していた理由によるものも大きかったと言えるのではないでしょうか。
 また、関ヶ原の合戦後、徳川家が島津家の領土を一合も削除しなかったのは、新たに九州征伐に出陣し、島津と戦闘状態に入るのを嫌ったこともさることながら、前述したとおり、島津家の関ヶ原への参戦状況(つまり、やむを得ず石田方についたこと)による要因も大きかったと言えると思います。


Aに続く
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