島津氏の居城・鶴丸城跡(鹿児島県鹿児島市)



第十六話「関ヶ原から明治維新へ−薩摩藩と幕府の関係A−」
 前回@の最後では、島津家の関ヶ原参戦理由とその結果について書きましたが、このような理由から、薩摩藩にはそれほど根強い反幕府感情は無かったと私は考えています。
 と、言うよりも、反幕府的な感情を抱く原因も無いばかりか、薩摩藩は幕府に対し、非常に友好的な政策を取っています。

 例えば、薩摩藩と徳川家との深い関係を書くためには、一人の重要な人物をまず紹介する必要がありましょう。

 それは、島津家22代藩主・島津継豊の夫人、竹姫(浄岸院)です。

 竹姫は、徳川5代将軍・徳川綱吉の養女であり、継豊と結婚する以前、保科正邦、有栖川宮正仁親王の二人と二度縁談が決まっていたのですが、その二人共が早世したため、当時の第8代将軍・徳川吉宗の時代になって、そのことを不憫に思った吉宗が、当時薩摩藩主であった島津継豊に対して、竹姫との縁談を持ちかけたのです。
 しかし、この縁談は薩摩側にとっては晴天の霹靂だったようです。
 まず、前将軍の養女を妻にするということは、財政的にも莫大なお金が必要になってきます。また、継豊自体には於嘉久(おかく)という側室がおり、もう既に跡を継ぐ子供も出来ていたからです。
 そのため、継豊は竹姫を迎えることに拒否反応を示したのですが、吉宗が

「例え竹姫と結婚して男子が生まれたとしても、側室・於嘉久の子を跡継ぎにしても構わない」

 という条件を出し、半ば強引に竹姫と継豊の婚礼話を進めて結婚させたのです。
 このような形で竹姫は薩摩に輿入れしたわけですが、この竹姫こそが後に薩摩藩と幕府の繋がりを強くする絆ともなったのですから、歴史とは本当に不思議なものだと感じられてなりません。

 薩摩に輿入れした竹姫は、薩摩藩と幕府の友好関係を築くべく、まず第25代藩主・島津重豪(しまづしげひで)の正室に、将軍家とは縁戚関係の一橋家から保姫(やすひめ)を迎えることに尽力しました。一橋家は吉宗が新たに作った御三卿の家柄ですから、竹姫がその婚礼の橋渡しをつとめたのです。
 また、竹姫は自分の死後、島津家と徳川将軍家との縁が切れてしまうことを危惧し、亡くなる直前にある遺言をしました。


「重豪に女の子が生まれ、また、一橋家の当主に男の子が生まれたら、必ず両者で縁組みを行なうように」


 この竹姫の遺言をまさに実現させるかのように、竹姫が亡くなった翌年の安永2(1772)年6月17日、重豪に女の子が生まれ、一橋家にも豊千代という男の子が生まれました。
 この一橋家の豊千代が後の第11代将軍の徳川家斉となり、重豪に生まれた女の子が後に家斉の正室となる廣大院茂姫となるのです。
 そして驚くべきことに、一橋家の豊千代と茂姫との二人の縁談は、何と両者が三歳の時(安永5(1775)年7月)に成立しています。このことを見ても、いかに竹姫の遺言が薩摩藩に影響を与えていたのかがよく分かります。
 また、この廣大院茂姫の血筋は、将軍家にとって非常にもてはやされ、薩摩藩研究史の大家であられる芳即正先生の論文によると、後の第13代将軍・徳川家定の正室となる天璋院篤姫が将軍家に輿入れする大きな要因ともなったのです。
 このように、竹姫や茂姫、篤姫などの薩摩藩にゆかりのある女性達の影響で、薩摩藩と徳川将軍家とは、非常に縁深い、太いパイプラインで結ばれていたのです。

 次に話は変わって、「宝暦治水事件」。
 これは作家の杉本苑子氏が『孤愁の岸』という小説の題材にした、幕府から木曽川などの治水工事を命じられた薩摩藩関係者に多数の死者が出た事件のことを言うのですが、このことも薩摩藩が幕府に恨みを持つ大きな原因となり、倒幕への起因ともなった風に扱われがちですが、鹿児島出身の歴史作家・海音寺潮五郎氏は、その著作『西郷隆盛』の中で次のように書かれています。


「民間人の著述で、鹿児島で昔から一般に読まれている書物には、(宝歴治水のことは)まるで見かけない。少なくともぼくは見たことがない。ぼくがこの事実を知ったのは大正七年、中学五年の時の秋、岐阜県から人が来て、中学で講演したのを聞いてからである」


 つまり、当時の薩摩藩政府は、こういった事件が原因となり、藩士達に反幕府的な感情が芽生えることを危惧して、一切藩士達にはその情報を漏らさなかったようです。
 これほど当時の薩摩藩は、幕府に対して関係が悪化するのを危惧し、また色々と恐れ憚るところがあったと考えられましょう。

 また、鹿児島の三大行事の一つ「妙円寺参り」に代表されるように、よく


「チェスト関ヶ原」


 という言葉が、反幕府感情を表すような言葉として使われたり、捉えられたりしがちですが、私の解釈では、これはそういう意味合いのものではないと考えています。
(付記:「妙円寺参り」とは、関ヶ原の合戦に出陣した島津義弘の遺徳を慕って、鎧や兜に身をかためた城下の侍達が、義弘の菩提寺である妙円寺(現在の徳重神社)までの往復40キロ余りの道のりを、夜を徹して歩き、当時の苦難を思い起こして士気を高めようとした行事で、現在も鹿児島で行なわれています)
 「チェスト関ヶ原」とは、つまり「関ヶ原で幕府に負けたので、幕府に対して良い感情を抱くな!」という反幕的な意味合いを込めて使われたのではなくて、ただ純粋に、


「関ヶ原での敗戦を忘れるな!」
「あの時、戦に負けたあの屈辱を生涯忘れるな!」



 といったように、何より強いものが好きで、負ける事が嫌いな薩摩人が、戦に負けた屈辱とその時の苦難を生涯忘れないために、「チェスト関ヶ原」という言葉を使い、そして「妙円寺参り」というような行事を行なったものであると私自身は解釈しています。
 つまり、この言葉は別に反幕府への「合い言葉」ではなく、「あの時の敗戦を忘れず、常に鍛錬を怠らず武を張れ!」という教訓のためのものであると、私は認識しています。何事にも勇ましい薩摩隼人が、戦に負けた屈辱を生涯忘れないための標語のようなものということです。

 ただ、これまで長々と書いてきた通り、いかに薩摩藩が幕府に対して友好的な態度を取っていたとしても、幕府がそれを額面通り鵜呑みにしていなかったのは事実です。江戸幕府は開幕当初から、薩摩藩を非常に警戒しています。
 例えば、熊本城−福岡城−岡山城−姫路城−大坂城−名古屋城といったように、江戸まで続く街道沿いに、大きくそして堅牢な造りを誇った城を配置したのは、幕府の島津対策ともよく言われます。
 また、そんな島津家を警戒する幕府の態度は、幕末に入ってからも相変わらず続いています。薩摩藩主の実父であり、幕末期に薩摩藩内で権力を握った島津久光という人物は、幕府のためを思って、色々と苦心して公武の間(朝廷と幕府の間)を斡旋する努力をしていますが、幕府はそんな久光を信用せず、結局そんな幕府の態度に嫌気がさした久光は、一気に倒幕へと走ることになってしまうのです。この辺り、幕府は自分の首を自分で絞めてしまった感があります。

 ここまで二回に分けて書いてきましたが、確かに薩摩藩や長州藩の歴史を考えても、両藩に幕府とは合い入れぬ感情がまったく無かったとは言いませんし、特に長州藩の場合には、幕府を快く思わない感情があったということを全面的に否定するわけではありません。長州藩の場合には、そういった感情が色濃く残っていたことが、大きなパワーとなって幕末期に噴出した側面も当然あると思いますので。
 しかしながら、関ヶ原の合戦から250年以上もの月日が経ったことによって、それらの反幕感情は非常に稀薄となっていたと考えるのが自然の成り行きだと思いますし、そういった感情が倒幕に繋がっていったと考えるのには、少し無理があるように思います。
 また、前述しましたが、薩摩藩の場合は、幕府自体が開幕当初から薩摩藩への警戒態勢を取っていたため、薩長が幕府を倒した際、その幕府の薩摩藩に対する警戒心というものが逆に捉えられ、「薩摩藩自体も反幕的な感情をずっと抱いていた」という風に解釈されるようになったのではないかとも私は推察しています。
 薩摩藩、長州藩という関ヶ原で敗戦した藩が中心となって幕府を倒したのは、単純な関ヶ原の恨みだけではなく、もっともっと深い理由があると私は考えているのです。



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