鶴ヶ岡城跡
酒井氏の居城・鶴ヶ岡城跡(山形県鶴岡市)




(第10回「新徴組 −もう一つの浪士組−」)
 今年のNHK大河ドラマは「新選組!」。
 つい先日その放映が始まったばかりであるが、視聴率も上々ということらしい。
 新選組と言えば、池田屋への斬り込みをはじめ、数多くのエピソードと多彩な人物に彩られ、現代においても、幕末という時代の中で非常に人気の高い集団となっている。
 しかし、この新選組と出自を同じくして誕生したもう一つの浪士組のことについては、ほとんど語られることが無いばかりか、今では歴史の闇の中にその存在自体が葬り去られている。

 そのもう一つの浪士組の名は、「新徴組」(しんちょうぐみ)と言った。

 新選組と新徴組の誕生のきっかけとなったのは、出羽庄内の志士・清河八郎(きよかわはちろう)が考案した浪士組結成によることは周知の事実である。
 文久3(1863)年1月、幕府によって募集された浪士組は、表向きは将軍上洛のための警護兵としての役目を背負うものであったが、清河の本心は別のところにあった。清河は、幕府の力を使って結成した浪士組を尊皇攘夷を目的とする反幕勢力に変化させようとの策略を持っていたのである。

 江戸で集まった浪士組は総勢234名であったが、彼らが京に到着すると、清河は壬生にある新徳寺に浪士達の代表を集め、その秘めたる策略を演説し、それに同意を求めた。この清河の独断行動に反感を持ったのが、近藤勇や芹沢鴨といった13名の人物で、彼らは清河と袂を分かち、後にこの集団が「新選組」(しんせんぐみ)に変化することになる。
 一方清河に率いられた残りの浪士組は、幕府の命令により江戸に戻ることになったが、清河はそのことを逆手に取り、幕府に攘夷実行を迫る工作を続けていたのだが、江戸に戻った清河は、文久3(1863)年4月13日、幕臣の佐々木只三郎の手によって暗殺されたのである。
 清河という首領を失った浪士組はそのため宙に浮く存在となったが、清河が暗殺されてから二日後の4月15日、幕府は浪士組を「新徴組」(しんちょうぐみ)と改称し、彼らを庄内藩酒井家に預けることに決定した。酒井家は、徳川四天王の一人として数えられた酒井忠次を祖にする名家であり、幕府の信任が非常に厚かったため、幕府は扱いに困った浪士組を庄内藩に預けたのである。
 小山松勝一郎著『新徴組』によると、新徴組という名は、庄内藩の預かりになる以前からも、その名称は使われていたそうである。元々幕府に公募された浪士組には正式名称はなく、自然に浪士組や新徴浪士組という風に呼ばれていたのだが、それが転じて正式に「新徴組」という名になったというわけである。

 新徴組が庄内藩の預かりとなった当時、組士は総勢で169名もいたのだが、当初は彼らにこれと言った仕事もなく、給金なども少なかったため、組から脱走する者や、中には江戸の商家に押し入り、金品などを強奪する者も生じたりしたため、新徴組の存在自体が危ういものになっていた。
 しかし、文久3(1863)年10月26日、江戸の治安悪化を憂慮した幕府が、庄内藩ら十三藩に対し、江戸市中警護の命令を下すと状況が一変し、新徴組は再び歴史の表舞台に登場することになる。
 庄内藩は江戸市中警護の主力として、新徴組をその任務にあてることにした。東北育ちの庄内藩士よりも、関東近辺で募集された浪士組を前身にもつ新徴組の方が、江戸の地理などにも詳しく、その任に最適だと考えたからである。
 この庄内藩新徴組の江戸市中警護が非常によく行き届いたものであったので、当時の江戸の人々は、次のように囃し立てたと小山松勝一郎著『新徴組』には書かれている。


「酒井佐衛門様お国はどこよ 出羽の庄内鶴ヶ岡」
「酒井なければお江戸は立たぬ 御回りさんには泣く子も黙る」



 新選組が京で名を上げている頃、同じく新徴組もまた江戸でその名を上げていたのである。
 しかし、そんな新徴組もまた、幕末という大きな時代の渦に巻き込まれていくことになる。

 幕府と薩長との対立が日増しに激しくなった慶応3(1867)年12月25日。
 江戸において、庄内藩は薩摩藩邸を焼き討ちし、ここに戊辰戦争の火蓋が切って落とされた。新徴組もまた、薩摩藩の支藩であった日向佐土原藩邸を襲撃した後、薩摩藩士とも戦う活躍を見せたのだが、年が明けて勃発した「鳥羽・伏見の戦い」では、幕府軍は薩長連合軍に惨敗を喫し、その後、前将軍・徳川慶喜は恭順・謹慎の態度を示した。
 幕府軍敗北の結果、新徴組は庄内藩士と共に庄内へと帰国し、ここで新政府軍相手に奮戦することになるのだが、時代という大きな波のうねりの前にはどうすることも出来ず、最終的に庄内藩もまた降伏することになったのである。

 そして、その後の新徴組は悲運の一途を辿った。
 明治に入って後、旧庄内藩士は、地元の庄内において開墾事業に着手することになったのだが、新徴組もまた、その開墾事業への参加を余儀なくされた。
 元来、新徴組の面々は関東周辺の出身者がその多数を占めていたため、慣れない東北地方での開墾生活は、彼らにとって苦痛以外の何物でもなかった。そのため、新徴組の組士達は次々に庄内から脱走を試み、それにより切腹させられた者や討ち取られた者などが多数出る、非常に悲惨な結末が待っていたのである。
 明治14年7月当時、開墾事業に着手していた人員名簿の中には、元新徴組の組士はわずか11名しか記載されていない。往時は200名近い組士がいた新徴組であったが、このようにその最期は非常に悲哀に満ちたものであった。

 新選組に比べると、新徴組は知名度がほとんどなく、その悲惨な結末からか、現代においては、歴史上からその名が忘れられつつある。
 しかし、江戸市中警護に活躍し、当時の江戸市民に感謝された新徴組もまた、幕末という時代を裏から支えた存在であることを我々は忘れてはならないであろう。

(本文は平成16年1月に執筆したものです)




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