板垣退助銅像(栃木県日光市)




(第13回「板垣退助と日光東照宮」)
 江戸幕府の開祖・徳川家康の祖廟を祀る日光東照宮。
 絢爛豪華な装飾や彫刻に彩られた日光東照宮の建物は、今もなお創建当時のままの姿を留め、現代においては一大観光地となり、観光客の目を楽しませるものとなっています。
 その東照宮がある日光山の山裾、神橋と呼ばれる橋のたもとに、刀を差して日光山を静かに見つめる一人の男の銅像が建てられています。

 その男の名は、板垣退助です。

 板垣退助と言うと、自由民権運動を推進した政治家というイメージが付きまといますが、彼の本質はむしろ軍事的な才能にあったと言えましょう。
 板垣が属した土佐藩は、幕末の最後まで非常に複雑な立場にいた藩でした。前土佐藩主・山内容堂は、幕府権力が衰退していく中でも、最後まで幕府擁護論を展開し、慶応4(1868)年1月3日に起こった「鳥羽・伏見の戦い」においても、

「この度の戦は、薩長と会津・桑名の私闘である」

 と藩内に宣言し、土佐藩兵に対しても、決して戦闘を行なってはならないと発砲禁止命令を出しました。
 しかしながら、土佐藩内の一部の倒幕派はその容堂の命令を無視し、独断で薩長の連合軍に加わり、その結果「鳥羽伏見の戦い」は、薩長土三藩の連合軍側の勝利に終わったのです。

 鳥羽伏見の戦いが勃発した当時、板垣退助(当時は乾退助)は郷里の土佐にいたのですが、京都から鳥羽伏見開戦の報が土佐に届くと、1月8日、板垣は土佐藩迅衝隊の大隊司令に任命され、土佐藩兵を率いて上京することになりました。鳥羽伏見の戦いの勝利で形勢が薩長有利となった今、土佐藩として、いつまでも幕府を擁護する立場を取ることは藩の自滅をまねきかねないとの懸念から、急遽、薩長側として兵隊を京に送る必要が生じたためです。その司令官に板垣が任命されたのは、彼は以前容堂に対しても直接倒幕論を建白するなど、藩内の倒幕派の中心人物であり、容堂の信頼も非常に厚い人物であったからでしょう。
 板垣は上京する当日の1月13日、藩校の致道館に集まった藩兵達に対して、次のように訓告したと伝えられています。

「諸君、よく聞け。君達とは今まで友達であり、仲間であったが、今日から俺は大隊を指揮する司令官となった。軍規は厳しいから覚悟しておけ」

 板垣が藩兵の前で宣言したように、戊辰戦争中、土佐藩迅衝隊の軍規は非常に厳しく、略奪その他の乱暴行為は一切禁止されたと伝えられています。
 これも板垣という人物の威徳であると言えるでしょう。

 土佐藩迅衝隊を率いて京都に入った板垣は、東山道先鋒総督府参謀を拝命し、一路江戸へ向かって進撃を開始しました。途中甲州の勝沼では、元新撰組の近藤勇率いる甲陽鎮撫隊を打ち破るなどの活躍を見せた板垣は、その後、旧幕府の歩兵奉行を務めた大鳥圭介率いる旧幕府伝習隊と相対することになりました。大鳥率いる旧幕府伝習隊は、当時、関東地方を中心にゲリラ戦を展開しており、新政府は板垣に対し、その討伐を命じたのです。
 板垣は土佐藩兵を率いて江戸を出発すると、壬生(現在の栃木県下都賀郡壬生町)において、大鳥らが日光東照宮のある日光山を本拠として立てこもっているとの情報を得ました。日光東照宮と言えば、江戸幕府を樹立した徳川家康の祖廟を祀り、文化財的にも非常に貴重な建築物です。板垣はそのような貴重な建物がこれから戦火によって焼失してしまうことを憂い、鹿沼という場所において、日光の末寺を探させ、そこの僧侶を呼び出して次のように言いました。

「日光にはただいま危機が迫っている。敵が日光に立てこもる限り、我々はこれを攻めなければならないが、そうなれば焼討ちにもかけねばなるまい。東照宮を尊敬するのならばいさぎよく撃って出て、今市(現在の栃木県今市市)で勝敗を決すべきではないか。あくまで日光に拠って戦うというのは東照宮(家康公)への不敬にあたるし、建築も兵火からまぬがれない。おぬし、この理を説いて徳川の将を説得せよ」

 板垣は大鳥ら旧幕府軍を日光から下山させ、貴重な建築物である東照宮を焼失から防ごうと考えたのです。
 この板垣の言葉に動かされた日光の末寺の僧侶は、日光の本山へと向かい、そして大鳥ら旧幕府軍の将兵達は板垣の発した言葉に動かされ、最終的に日光山を下山することを承諾しました。
 旧幕府軍が去り、後に日光東照宮に入った板垣は、兵士達に乱暴狼藉を働くことを厳しく禁止し、自らは旧来の作法にのっとって、神廟に拝礼の儀式を行ないました。その板垣のとった立派な態度は、東照宮の僧侶達を感激させたと伝えられています。

 五百を越える彫刻で究極の美の限りを尽くし、一日中眺めていても飽きないので、別名「日暮門(ひぐらしもん)」とも呼ばれている陽明門。
 名匠・左甚五郎が作成したと伝えられる国宝「眠り猫」の彫刻。
 その他日光東照宮を彩る全ての美術工芸品が戦災を免れたのも、板垣退助という人物が居たからこそであったと言えましょう。
 そして、いつしか板垣は、「日光の恩人」と称されるようになったのです。

 昭和4年、板垣の遺徳を讃えるため、日光山の山裾に、腕を組んで静かに日光を見つめる板垣退助の銅像が建てられました。銅像自体は第二次世界大戦の金属供出で一度撤去されてしまいますが、昭和42年、板垣の業績を永久に残すべく、関係者の手によって再び銅像が再建されました。135年前、板垣が日光を救ったように、今もなお板垣退助は、静かに日光山を見守り続けているのです。




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