木戸孝允誕生地(山口県萩市)




(第14回「『入薩詩』−桂小五郎の決意−」)
 現在、鹿児島県歴史資料センター黎明館で開催中の特別展『激動の明治維新』において、『入薩詩』という一幅の書が展示されている。
 それは次のようなものである。


東天雲雨悪(東天雲雨悪く)
西海屡揚波(西海しばしば波を揚げる)
一舸不避険(一舸険を避けず)
逆風入薩摩(逆風に薩摩に入る)



 この薩摩の国に入る際の心情を詠った『入薩詩』の作詩者は、長州藩の桂小五郎、後の木戸孝允である。

 慶応2(1866)年11月25日、当時木戸準一郎と名乗っていた桂は、生まれて初めて薩摩の地を訪れた。
 薩摩藩と長州藩の間では、慶応2(1866)年1月20日、京都において「薩長同盟」が締結されてはいたが、この盟約は書面を取り交わした正式なものではなく、いわゆる口約束に過ぎなかった。
 薩長同盟締結後、約九ヶ月経った10月19日、薩摩藩側はようやく正式な使者として、藩士・黒田嘉右衛門(後の清綱)を長州藩へと派遣し、長州藩主・毛利敬親に対し、藩主島津忠義とその実父である島津久光の親書を手渡した。
 そのため、長州藩側としても、薩摩藩との親睦を深めるべく、正式な答礼の使者を送る必要性が生じたのだが、藩政府はその使者として桂に白羽の矢を立てた。薩長同盟は長州藩のこれからの命運を左右する重要な盟約であり、薩摩藩への答礼は非常に重要な意味を持っていたため、長州藩政府は当時藩の中心人物として活躍していた桂にその重要な使者の役目を託したのである。

 慶応2(1866)年11月17日、海路下関を発った桂は、途中長崎に上陸した後、一路薩摩へと向かった。途中、天候不順により天草で足止めを食った桂は、ここで『入薩詩』を作詩したと思われる。
 『入薩詩』の添え書きには、


「丙寅晩冬奉使命到干薩摩路過長崎聞京都ノ新報有志諸公卿被幽因慨然賦之」
(丙寅(慶応2年)晩冬、使命を受けて薩摩路に到る途中、長崎を過ぎたところで、京都で有志の諸公卿らが幽因されたという知らせを聞き、慨然としてこれを賦した)



 と書かれており、『防長回天史』によると、長崎を過ぎて天草に船を停泊させていた時、桂がこの漢詩を賦したと記されている。
 同年10月27日、京都で正親町三条実愛ら薩長派の公卿達が免職や閉門の処分を受けたことを桂は天草で知り、これから薩摩の地を訪れる際の心情を漢詩にしたためたのである。

 桂が作詩した『入薩詩』を読んでいると、当時の彼の心境がひしひしと伝わってくる。


東天雲雨悪
「東の天には雲がたちこめ、雨が降っているような悪天候になっている」
西海屡揚波
「私が向かう西の海からは、高い波がひっきりなしに押し寄せてくる」
一舸不避険
「しかし、私が乗る小さな船はそんな困難を避けず」
逆風入薩摩
「逆風の吹く中、薩摩に入るのである」



 この漢詩が作られたきっかけを考えると、最初の「東天雲雨悪」という部分は、実は天候のことだけを言っているのではなく、遠く離れた東方にある京の様子を詠じていることがよく分かる。当時の京都の朝廷の状況は、薩長派の公卿達が処分を受けたことにより、幕府側に優勢な状況となっていた。
 このような薩長不利の現状を打破するためには、今、薩長両藩の確固たる同盟こそが必要であるとの認識を持っていた桂としては、今回の薩摩行きは、何としてでも成功しなければならない重要な使命であったのである。

 「逆風入薩摩」と書いた桂の心境たるや、いかばかりであったろう。

 「逆風」とは、船の航行に影響を与える風のこともさることながら、今まで長州藩に降りかかってきた様々な災難や苦労を言い表しているのではないだろうか。
 そして「そんな逆風の吹く中、薩摩に入る」と書いた部分には、桂の薩摩入りにかける強い決意が込められていると感じられてならない。
 桂は今まで長州藩に吹いていた「逆風」を「順風」に変えるべく、大きな決意を持って薩摩の地に入ったのである。

 桂は『入薩詩』を賦した後、無事に薩摩に入り、答礼の使者としての任務を成功させた。そしてこのことが薩長両藩の絆を一層深いものとし、時代は明治維新に向かって大きく旋回することになるのである。
 桂小五郎の強い決意が込められた『入薩詩』。
 まさしく後世に綿々と伝えられるべき逸品であると言えよう。


(本文は、平成15年10月3日(金)〜11月3日(月)まで鹿児島県歴史資料センター黎明館において開催された特別展『激動の明治維新−世界が動いたその時日本は 薩摩は 琉球は−』を見学した後に執筆したものです)




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