薩摩藩の藩校・造士館と演武館跡(鹿児島市)




(第15回「薩摩藩と会津藩の教育制度について」)
 薩摩藩と会津藩の教育制度は、非常に似通っているものと私は感じています。
 特に、両藩とも幼少・青年期に特別な教育方法と言いますか、独特の教育制度を取っている点において、非常に類似していると感じています。
 会津の士風や教育制度については、残念なことに平成八年にお亡くなりになられましたが、歴史作家・綱淵謙錠氏が書かれた「会津の士風と教育」(文春文庫『歴史の顔』に所収)というエッセイが、非常に分かりやすくまとめられています。
 今回はこの綱淵氏のエッセイを参考にして、「薩摩藩と会津藩の教育制度がどのような点で似通っているのか?」を少し簡単ですが書いてみたいと思います。

 まず最初に、薩摩藩と会津藩の教育制度が似通っている点は、両藩ともに少・青年期において、居住する町内において集団教育を行っているところです。
 会津藩から先に書きますが、会津藩には「辺(へん)」という制度があります。ただ、「辺」というものを説明するには、先に会津藩の「什(じゅう)」という概念を書かなければなりません。
 少し簡単に書きますが、「什」というのは、近所の少年達の集団グループ(組織)のような性質のものです。この什には「什の掟」という、「うそを言ってはなりませぬ」や「弱い者をいじめてはなりませぬ」という七つの掟がありました。かの有名な「ならぬことはならぬものです」という、会津藩独特の教育指針とも言えるこの言葉は、実はこの「什の掟」から来ているものなのです。
 会津藩の藩校は、亨和3(1803)年に完成した「日新館(にっしんかん)」というものですが、この日新館に入学出来るのは10歳になってからでした。そのため、日新館に入学するまでの間、会津藩の武家に生まれた子供達は、「什」という組織ごとに集団教育を受けていたのです。
 什には「什長(じゅうちょう)」と呼ばれるグループ内のリーダー(年長者)が居り、毎日午後になると、どこかの家の座敷を借り受けて、同じ什の年少者を集めて、先程の「什の掟」を訓示する習慣がありました。
 このように、藩校・日新館に入学する前に少年達が行なっていた行為のことを会津では「遊びの什」と言います。

 このように「什」というものは、武家の年少者達が集まって構成された一つの集団的教育組織のことを言うわけですが、冒頭述べた「辺」はと言うと、町内の区画によって定められた「什」の統括を行う、青年達の集団組織といった性質のものです。
 藩校の日新館には、幼少年に初等教育を施す「素読所」とその素読所を卒業した者達が進む「講釈所」という、二つの教育機関がありました。素読所は、藩士達の通学地域によって四つの塾に分かれており、さらにそれらの塾は一番組と二番組に分かれ、さらにその一番組と二番組が、それぞれ10〜14程度の小さな小組に細分化されていました。前述した「什」とは、この10〜14程度の小さな小組のことを指し、「辺」は一番組と二番組の別称を言うのです。
 綱淵氏によると、後年東京帝国大学総長となった会津藩出身の山川健次郎は、会津城下の「二之丁辺」という「辺」に属し、健次郎の回顧談によると、飯盛山で自刃した19名の白虎隊のうち7名が、この「二之丁辺」の者だったそうです。
 この「辺」という形で組織化された会津藩士達は、辺同士が互いに競い合う形で教育が行なわれており、辺同士の競争意識は非常に激しかったと伝えられています。
 このように会津藩の「辺」教育とは、簡単に言うならば、町内の区画ごとに設けられた少・青年達の所属した自治的な教育制度(組織)の総称と言えるのではないでしょうか。

 次に薩摩藩のことですが、会津の「什」や「辺」という教育制度は、薩摩藩における少・青年の教育制度「郷中教育」(ごじゅうきょういく)と非常に似通っていると感じられた方も多いのではないでしょうか。
 会津藩の「辺」や「什」は、薩摩藩で言えば、「方限(ほうぎり)」や「郷中(ごじゅう)」と呼ばれるものとほぼ同じ概念です。薩摩藩では、町内ごとに、つまり方限ごとに、そこに居住する少・青年達が組織を作り、自治的に教育を行う習慣がありました。

 これが薩摩藩の「郷中教育」と呼ばれるものです。

 薩摩藩では、だいたい7歳くらいから10歳までを「小稚児(こちご)」、11歳から15歳くらいまでを「長稚児(おせちご)」、それ以上の青年を「二才(にせ)」と呼び、それぞれが町内単位で組織を形成し、そしてそのグループごとに「頭(かしら)」、いわゆるリーダーを置いて、自主的に勉学する習慣がありました。
 若き日の西郷隆盛が下加治屋町郷中の「二才頭(にせがしら)」を勤めていたことは、非常に有名な話です。
 会津藩の教育制度と比較するならば、会津藩の「什長」は、薩摩藩で言う「稚児頭(ちごがしら)」に相当すると言えます。
 薩摩藩の郷中教育でも、前述した会津藩の「什の掟」と同じように、「負けるな」、「ウソをつくな」、「弱いものをいじめるな」と言ったような同様の訓戒事項がありました。
 「負けるな」というのは、いかにも薩摩隼人らしい独特の言葉ですが、他の二つについて言えば、会津藩の「什の掟」と内容は同じです。このあたりにも、薩摩藩と会津藩の教育制度が非常に似通っている点があるのではないかと思います。
 また、薩摩藩の少年達も、「造士館」という藩の藩校に入学する前には、毎日のように年長者の家に集まっては、そこで手習いをしたり、剣術を学んだりと、年長者が年下の者を教え・訓戒するという教育方法をとっていました。このあたりにも、年長者がリーダーシップを取る会津藩の教育制度と非常に似通っていると思います。そしてまた、会津藩の「辺」と同じで、薩摩藩の「方限」毎の競争意識は非常に激しく、別の方限の者と道端で話すだけで、大きな罰則まで設けられていたほどでした。

 これまで少し簡単でしたが、会津と薩摩の教育制度について比較してみましたが、両藩の教育制度が非常に似通っていることが理解して頂けたのではないでしょうか。
 会津藩の「辺教育」と薩摩藩の「郷中教育」はまさに類似していると言って良いのではないでしょうか。
 幕末期において、会津、薩摩の両藩士達は、他藩を圧倒するほどの武士としての存在感を発揮しましたが、やはりその源は「人造り」、つまり「人材教育」、「教育制度」にあったと言えるのではないかと思います。




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