山県有朋誕生地(山口県萩市)




(第18回「明治の汚職事件あれこれ」)
 江戸幕府を倒し発足した明治新政府が、そのスタート直後から腐敗したと言われるのは、その当時官僚が絡んだ汚職事件が多発していたからと言えましょう。
 今回の「我が愛すべき幕末」では、それら明治の汚職事件について、簡単に紹介してみたいと思います。

 まず、明治の汚職事件を代表する非常に有名な事件ですが、「山城屋和助事件(やましろやわすけじけん)」というものがあります。これは当時明治新政府の陸軍卿の職に就いていた長州藩出身の山県有朋(やまがたありとも)が関連した汚職事件です。
 事件の名前にもなっている山城屋和助ですが、維新前は長州藩の奇兵隊に所属していた野村三千三(のむらみちぞう)という人物のことであり、維新後の野村は山城屋和助と名乗って兵部省の御用商人となりました。これは当時兵部大輔であった山県が野村と同じく長州藩の奇兵隊出身であったため、その縁故からと言えましょう。
(付記:兵部大輔(ひょうぶだゆう)とは、兵部省のトップである兵部卿の次の地位。兵部卿は公家出身者が就任していたので、兵部大輔は実質的な実権を握った官僚)

 山県の引き立てで御用商人となった山城屋は、軍需品の納入を一手に引き受け、莫大な利益を得て一気に豪商へとのし上がりました。また、そのような関係から、山県はその見返りとして、山城屋から多額の献金を受けていたのです。(いわゆる賄賂ですね)
 このことに味をしめた山県は、自らの職権を私的に利用して、その後山城屋に対し、陸軍の公金であった15万ドルを勝手に貸し付け、山城屋はその金を元手にして生糸相場に投資しました。
 しかし、この生糸相場が当時勃発した「普仏戦争」の影響で大暴落を起こし、山城屋は投資に大穴をあけてしまったのです。
 山県はその補填のとして、更に再度山城屋に公金を貸し付けたのですが、山城屋は投資の失敗の穴埋めに努力するどころか、あろうことか商売そっちのけで、この公金を持ってフランスに渡り、パリで豪遊したのです。今から考えれば、まったくふざけた話です。
 この山城屋の豪遊が当時パリにあった日本公使館の耳に入り、陸軍省が内部調査を始めたのが、この汚職事件が明るみに出たきっかけとなりました。

 陸軍省が調査を始めたことにより、このままでは自らの不正が明るみに出てしまうことを恐れた山県は当然慌てました。山県は山城屋をすぐにパリから呼び寄せ、自分が貸し付けた公金の即時返済を迫りました。このあたりの山県の行動も身勝手極まりないですね。今まで山城屋を通じて美味しい汁を吸っておきながら、立場が悪くなると一気に態度を豹変したわけですから。
 しかし、当時の山城屋には多額の公金を返すだけの返済能力がありませんでした。山県が山城屋に貸しつけた公金の総額は当時の64万円、当時の陸軍省の予算の一割弱にも及ぶ巨大な金額だったからです。
 山県に公金の返済を迫られて窮した山城屋は、山県に罪が及ぶのを恐れ、証拠書類を一切焼き捨てて、明治5(1872)年11月29日、陸軍省の一室で割腹自殺をして果てたのです。(一説には山県が山城屋に自決を迫ったとも言われています)
 山城屋の自殺により、事件の真相は闇に葬られた形となってしまい、山県は罪に問われることはありませんでした。結局、処分としては、当時陸軍省会計監督長であった芸州藩出身の船越衛(ふなこしまもる)が、山城屋への公金貸付の責任を一身に受けて辞職するに留まったのです。
 これが悪名高い「山城屋和助事件」の概要です。
 また、その他にも山県は、「三谷三九郎事件」と呼ばれるこれに似た汚職事件を起こしています。(これも不正に陸軍省の公金を貸し付けた事件)
 明治維新後の新政府を見れば分かるのですが、長州藩出身者の汚職事件が異常に目立っています。幕末の頃から長州藩は、と言うより長州藩士には、公のお金と私のお金の区別がつかない、いやつけようとしなかったのかもしれませんが(笑)、そういう人物が多かったのは事実です。後述します井上馨もそうですし。
 明治に入ってからは、「金にうるさい長州人。女にうるさい薩摩人」などと薩長出身者は揶揄されたそうですが、当時の長州人のお金に関するモラルは少し足りなかったと言わざるを得ません。

 さて、次に紹介するのが、「尾去沢銅山事件(おさりさわどうざんじけん)」です。
 これは長州藩出身の井上馨(いのうえかおる)が関連した汚職事件、と言うよりも疑獄事件の要素が非常に強い事件です。
 明治維新前、つまり江戸時代に遡りますが、現在の岩手県、当時は南部藩の御用商人であった村井茂兵衛(むらいもへい)という人物が、南部藩に対し多額のお金を貸し付けていました。
 当時日本全国のどの大名も藩の財政状態は悪く、どこも火の車でしたから、通常大名は領内の商人から借金をして藩の財政のバランスを取っていたのです。
 南部藩領内で「鍵屋」の屋号をもって商売を行なっていた村井家もその例外ではなく、困窮する南部藩に対して多額のお金を貸し付けていたのですが、村井家にとっては、この借金が自らの首をしめることになったのです。

 南部藩では、いやこれは南部藩だけではなく、他の藩でも多く例があることなのですが、大名つまり藩が商人からお金を借りる際は、借りているのではなく、逆に藩が商人に対してお金を貸し付けているという文言を借金の証文等に使うことが慣例化していました。
 つまり、身分の高い殿様に対する町人の儀礼として、貸した側が借りているという形の証文を形式上作成していたわけです。
 ところが明治維新後、当時大蔵大輔(おおくらだゆう)であった長州藩出身の井上馨が、各藩の借財について調査を行なった際、南部藩の村井家の証文を発見し、村井家に対し明治政府に借金を返済するように迫りました。
 前述のとおり、村井家の借金の証文は形式上借りた形で書かれていましたが、実際は逆にお金を貸し付けていたのです。しかし、村井家がそのことをいくら陳述しても、井上はその訴えをまったく聞き入れず、即刻返済しなければ、当時村井家が所有していた現在の秋田県鹿角市にあった「尾去沢銅山」を没収すると宣告したのです。
 はっきり言いまして、この井上の要求は非道以外の行為の何物でもありません。井上は借金の証文の実状を知っていたにもかかわらず、無理難題を押し付けたのです。つまり、井上の最初からの目的は、村井家が所有していた豊富な鉱脈を有する「尾去沢銅山」であったのです。まったくもって無茶苦茶な話です。

 村井家が南部藩に貸していたお金は、当時のお金で5万円強という莫大なお金でしたから、当然すぐに返済することが出来ず、尾去沢銅山は没収され、村井家は破産してしまいました。
 これだけを取ってもヒドイ話なのですが、その後あろうことか、村井家から没収した尾去沢銅山を井上は裏から手をまわし、岡田平蔵という自分の家に出入りしている政商に、安い金額で銅山を払い下げ、結局最後に井上はその銅山を私有化しようとしたのです。非常に有名な話ですが、井上が尾去沢銅山に「従四位井上馨所有」という立て札を立てさせたと伝えられています。
 この尾去沢銅山事件は、その後村井家が当時の司法省に提訴し、当時司法卿であった江藤新平(えとうしんぺい)が徹底的に調査を進め、井上の逮捕寸前まで事は進んだのですが、結局、長州藩閥の力で井上の罪はうやむやにされてしまったのです。

 今回、明治政府の汚職事件として代表的な二つの事件を紹介しましたが、その他にもこれに類する汚職事件はたくさん起こっています。
 明治政府には発足当初からこのような汚職事件が蔓延し、庶民達の大きな不満を招きました。江戸幕府が腐敗し、そのことに憤りを持った人々が新しい政府、つまり新しい世の中を作ろうと奔走した末に出来上がった国家が、このように腐敗したものだったわけですから、明治維新を前にして非業にも倒れた多くの人々は、そんな堕落した政府を天上でどのように眺めていたのでしょうか。それを考えると、何だか私自身も胸が痛んで仕方がありません。




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