(写真)山梔窩
山梔(福岡県久留米市)




(第19回「恋歌 −平野国臣とお棹−」)

「一日(ひとひ)だに 妹を恋ふれば 千歳川 つひの逢瀬を 待つぞ久しき」


 この恋歌の作者は、筑前の勤王志士として名を馳せた平野次郎国臣である。
 平野は歌人としても有名な人物だが、彼が「妹」と詠い恋した女性とは、久留米水天宮の宮司の家に生まれ、幕末に尊攘の志士として名を残した真木和泉の愛娘、お棹(さお)のことである。

 平野とお棹の出会いは、文久元(1861)年10月のことであったと伝えられている。
 この年の10月23日、平野は自らが立てた倒幕論策『尊攘英断録』を真木和泉に披露して意見を求めるため、当時久留米南郊の水田村に蟄居していた真木の幽居「山梔窩(さんしか)」を訪れ、そこで五日間逗留している。
 おそらくこの時初めて平野はお棹と出会ったのだろう。
 当時の平野は三十三歳、お棹は二十歳、つまり二人は十三も歳が離れていた。
 その以前、平野には妻と三人の子供もいたが、安政4(1857)年の春に離縁している。ただ、この離縁は平野が家族を疎ましく思ったことが原因ではなく、彼の意図的なものであったように思われる。この年の5月、平野は藩主へ直訴を決行して罪に問われているのだが、おそらく平野が妻子と離縁したのは、その罪の影響を家族に及ぼさないようにするための配慮が含まれていたのだろう。
 このような形で平野は妻子と離縁せざるを得なくなったのだが、それから四年後、彼は真木の娘のお棹と運命的に出会った。
 『平野國臣傳』は、お棹のことを「敏慧(びんけい)にして才思あり」と表現しており、彼女は非常な才女であったことがうかがわれる。年若いながらも父譲りの学問がしっかりと身に備わったお棹の聡明なところに、平野は心惹かれたのかもしれない。
 ただ、この二人がその後どのような過程を経て、恋に落ちていったのかは記録上はよく分からない。
 しかしながら、平野は真木の幽居を訪ねる度毎にお棹との逢瀬を心待ちにし、やがて二人が深い愛情で結ばれていくことになったのは確かなことである。
 平野自身がお棹との深い関係を詠った一つの歌がある。

「妹と我 ふかき契りは 千歳川 かはる淵瀬に ならはさらなん」

 この歌を見る限り、二人は非常に強く、そして深い絆で結ばれていたのだろう。
 しかし、そんな二人の恋は、その後「時勢」という大きな潮流に翻弄され、飲み込まれていくことになる。

 文久2(1862)年3月、薩摩藩の島津久光が兵を率いて上京することになったため、平野はそれを機に倒幕の兵を挙げようと試み、自らも上京を計画した。
 その際、お棹は平野に対し、次のような和歌を詠んで、彼を京に送り出している。

「梓弓 春は来にけり ますらをの 花のさかりと 世はなりにけり」

 このお棹の和歌に対し、平野は次の二つの返歌を彼女に贈り返した。

「ますらをの 花咲く世とし 成りぬれば この春ばかり 楽しきはなし」
「数ならぬ 深山桜も 九重の 花のさかりに 咲きは後れじ」


 この二人の歌のやり取りを見ると、死を決して旅立つ平野の覚悟と、そして旅立つ彼の背中をいつまでも見送るお棹の姿が、まさに目に浮かぶようである。
 しかし、お棹に見送られて意気揚揚と京に入った平野であったが、倒幕計画に失敗して捕われの身となり、その後約一年間、福岡の牢獄で過ごすことになるのである。

 投獄中の平野は、牢獄内への紙と筆の持ち込みを禁じられたため、支給されるちり紙を使って「紙縒り(こより)」を作り、それを折り曲げるなどして文字の形に仕上げ、その紙縒り文字をご飯粒などを使って、また広げたちり紙に一文字ずつ貼り付けて文章を作成した。恐ろしく気の遠くなるような作業だが、平野はこの方法で数篇の著述を行ったのである。

 これが有名な『平野国臣紙撚文書』と言われるものである。

 この平野が紙縒りで作成した文書の中に、『囹圄消光(れいごしょうこう)』という和歌集があるが、ここには生き別れになったお棹のことを想う恋歌がいくつも収められている。

「逢うことを 妹も千とせの 川の瀬の 下にこがれて 待ち渡るらん」
「恋わたる 妹が門辺の 川の名の 千歳の契り 交わすもかな」
「かかる身と なりぬと聞きて 契りてし 妹もや我を うとみはつらん」
「妻とたに 契りおかすは かくばかり 逢わざる妹は 偲びさらまし」


 平野は、お棹のいる久留米の筑後川(別名「千歳川」)の情景を思い出しながら、一つ一つ丁寧に紙縒りで文字を作り、獄中でこれらの恋歌を詠んだのである。
 このことからも、平野のお棹に対する愛情の深さと大きさが読み取れるのではないだろうか。

 その後、平野が投獄生活から解放された後も、お棹との恋愛は進行し、平野の友人であった筑前の女流歌人・野村望東尼(のむらもとに)は、二人の結婚を取り持とうと考え、色々と手を尽くしたのだが、文久3(1863)年6月、福岡藩から平野に対し新たに上京命令が下ったため、結局はその婚礼話も立ち消えとなってしまった。
 そして、その平野の上京が、愛するお棹との永遠の別れになってしまったのである。
 上京した平野は、その年の10月に起こった「生野の変」に加わって敗走し、翌年の元治元(1864)年7月20日、京の六角獄で刑死することになる。

 平野が京の六角獄に投獄されている時、一輪の百合の花が密かに差し入れられたことがあった。
 平野はこの百合の花を見て、次のような和歌を詠んでいる。

「名にめでて いと懐かしく 見ゆるかな やさしく咲ける 姫百合の花」

 平野は獄中に差し入れられた可憐に咲く一輪の百合の花を見て、久留米に残してきた最愛の恋人お棹の姿を懐かしく思い出していたのではないだろうか。




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