安井息軒旧宅(宮崎県清武町)




(第20回「三計と半九 −安井息軒−」)
 幕末という時代は全国各地にたくさんの私塾が誕生し、隆盛を極めた時代でもあった。
 元々江戸幕府が朱子学を盛んに奨励したことから、儒学を基礎とした私塾が江戸を中心に存在していたが、嘉永6(1853)年6月の「ペリー来航」を契機として、蘭学や洋学、兵学といった多種多様な学問を教授する私塾が数多く誕生した。
 日本に欧米諸国の外圧が迫ったことから、人々の間に大きな危機意識が生まれ、より高度な学問を学ぼうとする風潮が大きく高まったことも、幕末期に数多くの私塾が誕生した原因の一つとも言えるであろう。
 吉田松陰が萩城下郊外の松本村で開いた松下村塾、緒方洪庵が大坂で開いた適々斎塾(適塾)など、幕末期には数多くの私塾が誕生したが、安井息軒(やすいそっけん)が江戸で開いた「三計塾(さんけいじゅく)」もまた、そんな私塾の中の一つである。

 寛政11(1799)年1月1日、息軒は安井滄洲(やすいそうしゅう)の次男として、現在の宮崎県宮崎郡清武町に生まれた。
 息軒の父である滄洲は、飫肥藩の儒者で「清武の孔子」と呼ばれるなど、非常に著名な学者であったことから、息軒も幼少の頃から学問に触れる機会が多かったが、彼の学問を向上させたのは、ある一つの病気が原因であったと言えるかもしれない。
 その病気とは「疱瘡(ほうそう)」である。
 疱瘡とは、現代で言う天然痘のことで、江戸時代当時は死にいたる病として恐れられ、また治癒したとしても醜い痕跡が残ったことから、当時は忌み嫌われた伝染病でもあった。
 息軒は幼少の頃にこの疱瘡にかかり、完治はしたものの、顔には醜い痘痕(あばた)の跡が無数に残り、片目が潰れて見えなくなる重症を負っている。
 息軒の妻である佐代夫人を主人公にした森鴎外の著作『安井夫人』の冒頭の書き出しには、その息軒(仲平)の容貌について、次のように書かれている。

「仲平さんはえらくなりなさるだらう」と云ふ評判と同時に、「仲平さんは不男だ」と云ふ蔭言が、清武一郷に伝へられてゐる。

 同じく鴎外の『安井夫人』によると、息軒の兄の文治は「背が高く、色の白い、目鼻立ちの立派」な容姿であったらしく、息軒はその兄と比べられるのをいつも辛く思っていたと書かれている。
 背が低く、片目が潰れ、顔に痘痕が多数残っていた息軒の容貌は、彼にとって一種のコンプレックスとなり、そのことが学問で身を立てようと志した理由の一つになったであろうことは想像に難くない。
 このように容貌に一種のコンプレックスを持っていたことが、息軒の学問に対する傾倒に更に拍車をかけたと言えるかもしれない。

 息軒21歳の時、彼は大坂に出て、当時有名な儒者であった篠崎小竹の元で学び、その後、江戸にも遊学している。そして32歳の時には、飫肥藩に藩校「振徳堂」が創設されたことから、そこで息軒は教師として、父の滄洲と共に熱心に子弟の教育にあたった。このことが後に開かれることになる「三計塾」への布石となっていくのである。
 振徳堂において、教育の素晴らしさに触れた息軒であったが、天保9(1838)6月、40歳の時、彼は一切の職を辞して再び江戸に向かった。天保9年と言えば、前年には「大塩平八郎の乱」や「モリソン号事件」が起こるなど、幕府政治の根幹を揺るがす大事件が起こり、また、欧米列強諸国の圧迫が表面化してきた年でもあった。
 息軒が全ての職を投げ捨てて江戸行きを決意したのも、

「飫肥の片田舎で人材を育てることも素晴らしいことだが、混乱する世情の中、政治の中心である江戸において、優秀な人材を育て上げたい」

 と考えたからではないだろうか。
 そしてそれを実践するべく、翌年の天保10(1839)年、息軒は江戸麹町二番町に「三計塾」という私塾を創設したのである。

 三計塾の「三計」とは、

「一日の計は朝にあり」
「一年の計は春にあり」
「一生の計は少壮の時にあり」


 という三つの計、つまり全ての始まりのことを指しており、

「何事を志すにしても、まずその初め、最初が肝心である」

 という意味を込め、息軒は三計と名づけた塾を開き、来るべく動乱の時代に向けて、人材を育成しようと考えたのである。

 この後、息軒は明治9(1876)年9月に没するまでの37年間、この三計塾で教鞭をとり、その間に2000人を超える塾生に教育を施し、数多くの逸材を育て上げた。
 それら多くの三計塾門下生の中で、幕末・明治に活躍した者をざっとあげても、谷干城、陸奥宗光、品川弥二郎、時山直八、雲井龍雄、世良修蔵、渡辺昇、小倉処平、荒井常之進、三好退蔵など、数多くの著名な人物が息軒の教えを受けている。
 また、息軒が三計塾で塾生に諭し、自らの座右の銘とした言葉に「半九」というものがある。これは中国の古典である『戦国策』の中の「百里を行く者は九十を半ばとす」という言葉を縮めたものであり、

「何事も最後までやり遂げる時は、その終わりが最も困難であり、苦労するものであるから、九分を通りこしたところをようやく半分まできたと考え、気を抜かずに最後までやり遂げることが必要である」

 という意味が込められている。

「三計」と「半九」

 息軒が大切にしたこの二つの言葉からは、最初から最後まで、何事にも全力で、そして常に努力を怠らないという、彼の信念が表れているような気がしてならない。
 息軒の教えを受けた多くの門下生達は、息軒の教えを忠実に守り、幕末という動乱の時代に活躍することになるのである。




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