高杉東行療養之地
高杉東行療養之地(山口県下関市)




(第21回「高杉晋作の苦悩」)
 高杉晋作と言えば、詩を愛し、酒を愛し、三味線を愛し、そして女性を愛した幕末における風流人の一人ですが、彼の作った漢詩の中に次のようなものがあります。


戯 作
妻児将到我閑居(妻児まさにわが閑居に到らんとす)
妾婦胸間患余有(妾婦胸間患い余りあり)
従是両花争開落(これより両花開落を争う)
主人拱手莫如何(主人手をこまねいて如何ともするなし)

(『高杉晋作史料第二巻』より抜粋)



 この漢詩は、高杉の正妻であった「雅子」と愛人の「おうの」とが、下関で鉢合わせした時の感慨を高杉流に洒落っ気を込めて詠んだものです。
 一応現代語風に訳すと、次のような感じでしょうか。


「妻の雅子と息子が下関の自分の住まいにやってきた」
「我が愛人のおうのは、そのことに驚き、そして大いに胸を痛めている」
「二つの美しい花である二人の女性は、共にどちらが咲き落ちるかを競い合っている」
「こんな光景を見て、僕は手をこまねいて見ているしかなかった」



 高杉の正妻であった高杉雅子は、れっきとした長州藩士の家の出でしたが、おうのはと言うと、下関の花街で芸妓をしていたのを高杉が見染めた女性です。
 現代から考えれば、高杉とおうのの関係は不倫にあたりますが、当時は妻子を持つ男性が愛人を作ることをさほどうるさく言わない時代でしたので、世間一般的にはそれを罪として罰するというようなことはありませんでした。
 だからと言って、倫理上からみれば、高杉の行動は表立って誇れるものではなく、むしろ何かしらの後ろめたさが残るものではあったと思います。ましてや、この時はその正妻と愛人が同じ場所で鉢合わせしたのですから。

 ところが高杉自身はこの漢詩の中で、「両花」つまり正妻と愛人を共に花に例えたり、「主人は手をこまねいてどうすることもできなかった」というような表現を使い、この修羅場のような状況をまるで茶化すかのような感じです。
 これらの表現を見て、「高杉という男は無責任な奴だなあ……」とか「さすが高杉! 豪快!」なんていう感想をお持ちになられる方も多いのではないかと思われますが、私はこの漢詩には高杉の本当の気持ちは表れていないように思います。
 実は高杉自身も、この二人の関係や確執に対し、相当真剣にそしてかなり苦悩していたようです。その証拠として、慶応2(1866)年2月20日に高杉が木戸貫治(桂小五郎、木戸孝允のこと)宛に出した書簡には、次のように書かれています。


「弟も此節ハ妻子引越、愚妾一件彼是金ニハつかへ、胸間雑沓困窮罷在候、死に遅れ、人には悪く被言、難渋事日ニ多く、内心痛哭、黄泉人を羨み候事ニ御座候、御憐察可被下候」
(『高杉晋作史料第一巻』より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
「私事ですが、この節は妻子が下関に引っ越して参り、妾のおうののことでも金にはつかえ、胸中誠に複雑な心境で、甚だ困り果てている次第です。死に遅れ、人からは悪く言われ、難渋なことが日々多く、内心は心を痛め、亡くなった人達を羨ましく思っているほどです。どうぞ憐れんでご推察願います」



 前述の漢詩の調子とは打って変わり、この書簡の抜粋した部分からは、高杉の大きな苦悩がにじみ出ているような感じがします。そこからは「両花開落を争う」と漢詩に賦した調子は見る影も無く、自分の妻子が下関に押しかけてきて、愛人のこともあり、大いに心を痛めている高杉の苦悩が読み取れるのではないでしょうか。
 高杉晋作という人物は、その人生が波乱万丈で、かつ派手な奇をてらった豪快な行動が目立つため、性格も豪放磊落な人物だと誤解されやすいのですが、その実はどちらかと言うと、性格的にも穏やかで、非常に繊細な人物だったと思います。
 表向きは豪快に振舞っていながらも、実際の心の内は、どこにでも居る一人の普通の若者らしく、悩みに揺れ動いている部分を持つ彼の姿は、現代人にも共感が持てる部分が多いのではないでしょうか。
 私が高杉晋作という人物に惹かれるのは、高杉の豪快な生涯の中に潜む、こういったガラスのような繊細さに、現代人にも通じた感情を読み取れる部分にあるような気がしています。




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