(画像)坂本龍馬銅像
坂本龍馬銅像(高知県高知市)




(第23回「私見・龍馬暗殺における薩摩藩黒幕説について」)
  慶応3(1867)年11月15日、京都三条河原町の近江屋にて生じた「坂本龍馬暗殺事件」については、諸種様々な黒幕説が存在しますが、その中でも「薩摩藩黒幕説」については、非常に根強いものがあります。
 薩摩藩が龍馬暗殺の黒幕とされる一番の原因は、テレビや雑誌がロクに調べもせず、それを意図的にか、あるいは面白がってしているのかは分かりませんが、大々的に特集することにあると思いますが、今回はその薩摩藩黒幕説がいかに根拠の無いものかを簡単に書いてみたいと思います。

 以前にも同じテーマで薩摩藩黒幕説について書いたことがありますが(我が愛すべき幕末・第16回「坂本龍馬暗殺事件について@ -続・薩摩藩黒幕説への疑問-」、第17回「坂本龍馬暗殺事件についてA -坂本龍馬と大政奉還-」)、薩摩藩が龍馬暗殺の黒幕とされる一番の原因や根拠(根拠と呼べる代物かどうか、甚だ疑問ですが……)は、

「武力倒幕を目指す薩摩藩にとって、大政奉還を推進した龍馬の存在が邪魔になったから」

 というものです。
 まず、この根拠の前提自体に大きな誤りがあると言えます。

 武力倒幕を目指したとされる薩摩藩のいわゆる「倒幕運動」と土佐藩の「大政奉還運動」は、実はそれほど極端な対立構図にあるものではありません。
 確かに、慶応3(1867)年9〜10月当時の西郷と大久保は、「討幕の密勅」の降下を朝廷に対して画策し、武力での倒幕に向け、その準備を進めていました。
 おそらくこの「討幕の密勅」なるものが、西郷や大久保、ひいては薩摩藩の動向や方針を誤解させる一番の原因になっていると感じますが、それは一先ず置き、西郷や大久保は、土佐藩の後藤象二郎や坂本龍馬が推進した大政奉還運動については、その運動自体を容認(同意)する立場で居たことを忘れてはなりません。
 なぜならば、大政奉還とは「幕府が政権を返上するもの」、逆に言えば、「将軍慶喜から政権を奪い取るもの」であり、それが現実に実行されれば、薩摩藩にとっては損失どころか、非常に大きな「利益」を生んだものだったからです。

 ただ、少し補足するならば、これには大きな裏がありました。
 当時の薩摩藩は、西郷や大久保が考えるような武力倒幕に向けての藩論統一が、実は完全になされていなかったと言うことです。
 当時の西郷と大久保ら関係者の書簡を読むと、国許薩摩からの京都出兵について、二人が非常に苦心していることが分かります。
 後の「王政復古」に関してもそうですが、この当時、政権交代など政治的変革を成し遂げる場合、武力の背景が必要となることは明白であり、兵力の存在は無くてはならない絶対条件であったと言えます。
 そのため、西郷と大久保は、国許薩摩から京都への出兵を成し遂げたかったのです。兵力を兼ね備えるということは、幕府に対して無言の政治的圧力をかけることにも繋がりますので、西郷と大久保はその背景となる武力を欲したと言えます。

 しかしながら、実際にはそのように簡単に事は運びませんでした。西郷や大久保の考えとは裏腹に、国許薩摩の藩論は倒幕に向けて一本化されていない状況だったからです。
 大政奉還のすぐ後、西郷と大久保が家老の小松帯刀を伴って、三人同時に薩摩に帰国したのは、国許の藩論統一と薩摩藩兵の京都出兵を成し遂げる目的があったからに他なりません。
 当時の薩摩藩内は、いわゆる保守派と呼ばれるお家大事派が大きな勢力を依然として維持していました。逆に西郷や大久保の倒幕派の方が少数であったと言っても過言ではありません。
 また、西郷と大久保の同志である伊地知正治のように、将軍慶喜の処置について温情的な考えを持つ人も出てくるなど(これは大政奉還後の話ですが)、京都の薩摩藩首脳部内も完全な一枚岩とは言えないような状態にありました。
 これらの理由から、慶応3(1867)年10月当時、西郷や大久保は、強引に武力を背景にした倒幕に持っていけるような状況にはなかったと言えます。

 以上のように薩摩藩内での藩論統一が成されていなかった裏事情も重なり、西郷と大久保は武力での倒幕を念頭には置きながらも、後藤象二郎や坂本龍馬が推進していた大政奉還運動について、それを容認せざるを得ない状況にありました。
 西郷と大久保的に言えば、

「薩摩は薩摩の考える方向性で行く。土佐は土佐でやりたいようにやってくれ。邪魔はしないから」

 と言った感じでしょうか。
 最初に書きましたが、土佐藩の大政奉還への動きは、薩摩藩に損失どころか大きな利益を生ずることでしたから、方針に違いはあれども、薩摩は土佐の動きを否定するまでの考えはなく、容認する立場であったと言えます。
 この点から言うと、薩摩藩の倒幕運動と土佐藩の大政奉還運動は、それほど極端な対立構図にあるものではなかったと考えられるのです。

 また、西郷と大久保が考える武力を用いての倒幕とは、あくまでも最終的な手段と言うべきものでした。将軍慶喜が政権返上を拒否した場合や会津藩や桑名藩などの幕府を擁護する勢力が武力を背景にした形で巻き返しを図り、政権返上の実効がなされない場合などに備えての最終手段であったということです。
 つまり、西郷と大久保にとっても、大きな兵力を動かさない形で、幕府が政権を返上し、自然と瓦解してくれるに越したことはなかったのです。
 この点から考えると、薩摩藩は土佐藩の大政奉還への動きに対し、特段の文句をつける必要性も無かったと言えます。

 また、もう一点、西郷と大久保が一番懸念していたのは、大政奉還そのものではなく、その次の「王政復古」についてでした。
 西郷と大久保にとって、大政奉還はあくまでも過程の一つに過ぎず、その次に控えている王政復古こそが一番重要な課題であり、もしそれにつまづくようなことがあれば、これまでの努力は全て水泡に帰す形になりかねませんでしたので、そこに移行する過程を非常に重要視しています。
 もし王政復古の実現につまづけば、これまで日和見していた諸藩は、一気に幕府方に傾くことも十分に考えられましたし、そのことで逆に薩摩藩が不利な立場に追い込まれかねない危うい状況にあったと言えます。
 つまり、大政奉還が成されたとしても、王政復古が実現出来なければ、真の政権交代、いわゆる「革命」は成就しないという認識です。
 そのため、大政奉還後、西郷や大久保は京都への出兵を成し遂げるために、藩内の実力者である門閥家老の小松を伴い、三人同時に薩摩に帰国したのです。

 龍馬暗殺から少し話がそれましたが、結局のところ、薩摩藩にとっては、大政奉還に動く後藤や龍馬の存在自体、それほどの嫌悪感も持っていなかったということです。
 また、これまでも書いてきたとおり、当時の西郷や大久保にとっては、外の問題よりも内の問題、つまり藩内の問題の方が非常に重要な課題であり、当時、龍馬を暗殺しようなどということを考える余地も全く無かったと思います。
 ましてや大政奉還がなされた後に龍馬を暗殺しても全く意味がありません。それどころか龍馬を暗殺することによって生まれるデメリットの方が遥かに大きかったと言えましょう。

 また、その龍馬自身も、王政復古に至る際に倒幕戦が起こることを念頭に置いていたと考えられ、薩摩にとっては、武器の運搬に始まり、土佐藩との重要なパイプ役ともなってくれるであろう龍馬を暗殺すること自体、非常にナンセンスなことで、薩摩藩の利益どころか損失にもなりかねません。
 薩摩藩としては、幕府と武力で衝突した場合、少しでも多くの味方が必要な状況でしたので、その味方となる可能性があった有力藩の一つである土佐藩を敵に回すようなことを元来するはずがないのです。ましてや、龍馬暗殺については、その実行犯は見廻組説が定説化されていますが、薩摩藩と見廻組が共同で何かを行うことなど、当時としてはあり得ない、まさにナンセンス以外の何物でも無いと思います。

 これまで述べてきたとおり、坂本龍馬の暗殺は、当時の薩摩藩にとって一つの利益も生まないどころか、大きな損失を生むことに繋がる状況だったと言えます。その点から考えれば、西郷や大久保が龍馬暗殺を指示することなどあり得るはずがないのです。
 冷静に順序立てて考えれば自明のことであるのですが、いかんせんテレビや雑誌が面白がって「薩摩藩黒幕説」なるものを喧伝するものですから、全くの夢物語がいかにも事実のこととして語られることが、私は残念で仕方ありません。




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