(画像)江藤新平銅像
江藤新平銅像(佐賀県佐賀市)




(第9回「人心これ危し −江藤新平の信念−」)
 高知県安芸郡東洋町大字甲浦。
 この場所は、明治政府の参議兼司法卿の要職を務めた江藤新平が、佐賀の乱後、その身柄を拘束されたところである。
 明治7(1874)年2月16日、佐賀で蜂起した旧佐賀士族は、新政府軍の熊本鎮台兵が守る佐賀城を攻撃し、「佐賀の乱」は勃発した。
 江藤自身は「征韓党」と呼ばれる旧佐賀士族の首領に祭り上げられて、佐賀の乱に加担し、当初は有利に戦局を進めていたのだが、新政府軍の増援部隊が続々と到着して旧佐賀士族に対して攻撃を開始すると、日増しに戦況は著しく悪化した。
 乱勃発から一週間経った2月23日、戦局不利を感じた江藤は、突然佐賀を脱出し、一路鹿児島へと向かった。江藤は当時鹿児島にいた西郷隆盛に対し、援軍を要請するために佐賀を脱出したつもりだったのだが、首領の江藤が突然居なくなったことで旧佐賀士族兵は混乱に陥り、一気に佐賀の乱は終息へと向かったのである。
 また、江藤から援軍を要請された西郷は、江藤が兵士を見捨てて佐賀を脱出してきたことを憤り、その援軍要請を断ったため、ここから江藤の逃避行は始まった。
 鹿児島を出発した江藤は、日向飫肥へ出た後、海路伊予の宇和島に渡り、高知城下へと入ったが、江藤を迎えた高知士族の反応は冷たいものであった。
 失望した江藤は、そこから陸路東へと向かい、阿波(徳島県)との国境にある甲浦(かんのうら)に到着したのだが、ここで身柄を拘束され、捕縛されたのである。
 江藤が佐賀を脱出して、約一ヶ月後の3月28日のことであった。

 江藤の伝記『江藤南白』(的野半介著)によると、当時、高知県沖の海岸を巡回していた新政府軍の軍艦「猶竜」の士官が、江藤が捕縛されたことを知って甲浦港に入港し、その身柄の引き渡しを求めたが、江藤を捕縛した高知県少属の細川是非之助は、江藤を軍隊に引き渡すことによって、新政府の参議まで務めたほどの人物が過酷な待遇を受けることを快しとせず、身柄の引き渡しを拒絶したため、江藤は高知へと送られることになった。
 細川は江藤を高知へ護送中、まるで彼を賓客を遇するかのような寛大な待遇で接し、通常は三日しかかからない高知への行程をゆっくり六日間かけて送り届けた。
 高知へ到着する前夜、最後の宿所となった香美郡岸本村の畠中義明家において、江藤は細川に対して、今までの度重なる厚情と配慮に対する感謝の礼を述べ、記念として一枚の書と和歌を書いて、細川に手渡した。
 それは、次のようなものであった。


人心維危道心維微
(人心これ危く、道心これ微なり)
故聖人戒之曰誠執其中
(故に聖人これを戒めて曰く、「誠にその中をとれ」と)
余毎懐此言未嘗不感歎敬称也
(余、この言を思うごとに、未だかつて、感嘆敬称ならざるなり)
因移得人心維危語以自戒且賦和歌一首歌云
(因って「人心これ危し」の語を移し得て、以て自戒し、かつ和歌一首を賦す。歌に云う)
郭公 聲待ちかねて つひに将 月をも恨む 人心哉
(ほととぎす 声待ちかねて ついにまた 月をも恨む 人心かな)

(大意)
人間の心というものは、欲によって左右されやすく、常に安定しにくいものである。
また、人としての道徳心というものも、欲によって明らかにしにくいものである。
なので、昔の聖人は、このことを戒めてこう言った。
「我が心を常に純粋に保ち、ことの中にある真理を見抜いて、それをとるのだ」と。
私はこの言葉を考えるごとに、感嘆し、そして敬い称えずにはいられない。
この「人心これ危し」という言葉を私は信念にして、そうならぬように自らの戒めとしている。
そこで、歌一首を詠んだ。
その歌とは、

「ほととぎすの鳴き声が聞きたいと待っているのに、なかなか夜は明けない……。月には恨みはないけれども、ほととぎすの声が聞きたいが故に、いつかその月をも恨むようになってしまう。それが人の心というものである。」



 細川に与えたこの書と和歌からは、

「法律というものは、何よりも常に公正・中立の元であらなければならないのに、法を扱う立場の人間の心は、自らの欲望によって動かされて、ややもすれば客観性にかけてしまうことが多い。なので、そうならないためにも、自分自身はあらゆる欲を離れ、心を常に純粋に保ち、ことの中にある本当の真理を導き出すようにしなければならない」

 という、司法卿を務め、近代的な法制度や裁判制度の確立に力を尽くした江藤自身の考え方や思いが表現されており、また、捕縛された江藤自身がこれから臨むであろう公の裁判の場において、自らの思うことを正々堂々と論じ、そして公正な判決を受けようと願う気持ちも込められていたのではないだろうか。
 しかし……、そんな江藤の思いや願いは、ついに叶えられることはなかった。
 高知から佐賀に移送された江藤は、公正な裁判とは呼べない、たった二日間だけの簡単な尋問を受けただけで、

「除族ノ上、梟首申シ付ル(士族の身分を剥奪し、さらし首に処す)」

 という、当時としても考えられない極刑を命ぜられたのである。
 判決を聞いた江藤は、

「裁判長、私は!」

 と叫ぼうとしたが、一切の反論は許されなかった。
 それはまさに江藤自身が自らが信念とし、そうならぬように戒めとして深く心に刻み込んでいた「人心これ危し」の言葉を象徴するような、公平性のない私怨から出た不条理な判決であった。
 江藤は処刑されるに臨んで、

「ただ、皇天后土の我が心知るあるのみ」(私の心は天と地のみが知っている)

 と大きな声で三度叫んだという。
 「人心これ危し」を胸に刻んで生きた、江藤新平、最後の言葉であった。





(あとがき)
 今回の「人心これ危し−江藤新平の信念−」の中に登場した江藤の漢詩については、私自身、実は数年前にその現物を高知県のある博物館で見たことがあります。
 今回のエッセイは、その時のことを思い出して書いたものです。
 江藤の書は決して上手い書とは言えませんが、「字は体を表す」と言いますように、江藤の書いた漢詩からは、彼の繊細な性格がにじみ出ているようで、とても興味深かったのを今でもはっきりと覚えています。

 エッセイの本文中にも出てきましたが、「人心これ危うし」という言葉は、江藤自身が作り出した言葉ではありません。
 江藤が「故聖人戒之曰(故に聖人これを戒めて曰く)」と書いているように、実はこの言葉は、中国の古代書である『書経』から来ているものなのです。
 『書経』は、古代中国の虞、夏、殷、周の四代、すなわち堯帝から周の襄帝にいたる間の帝王の政治に関する言行録というもので、孔子が刪定したものと言われています。
 この『書経』の中の大禹謨(虞書)の中に、江藤が揮毫した「人心これ危うし」の言葉があります。それは次のようなものです。

「人心維危、道心維微、惟精惟一、允執厥中」
(人心これ危うく、道心これ微なり、これ精これ一、允(まこと)にその中を執れ)


 この文章の意味は本文中に解説していますから、お分かり頂けたと思いますが、もう一度簡単に書いてみますと、

「人間の心は安定しにくく、道義心というものも明らかにしにくい。なので、心を常に純粋専一にするようにつとめて、ことの中にある誠の真理を取るのである」

 というものです。

 江藤という人物は、「人間の心というものが、自らの欲などで客観性に乏しくなる恐れがある」ということをこの言葉の中から汲み取って、法を制定・執行する上で、それを戒めの言葉として、常に念頭に置き、信念にしていたと思われます。
 これらから考えると、江藤という人物は、まさに法を扱うに相応しい人物であったと言えるでしょう。

 しかしながら、江藤の最期はほんとうに悲惨極まりないものです。
 エッセイ内では詳しく書きませんでしたが、江藤が高知から佐賀に送還されたのは、明治7(1874)年4月7日のことです。
 そして、彼は翌日の4月8日、そして翌々日の9日、この二日間にわたる簡単な二度の審問を受けただけで、4月13日に「梟首(さらし首)」という極刑を命ぜられます。
 「人心これ危し」という言葉を胸に刻み、法の前での中立、そして平等、こういったものを常に大事にしなければならないと考えていた江藤にとって、それらを完全に踏みにじるかのような裁判結果を彼はどのような気持ちで聞いたことでしょうか……。
 それを考えると、江藤のその心中を察せずにはいられません。

 私は、江藤が捕縛された甲浦にも行ったことがあるのですが、とても静かな港町の一角に「江藤新平君遭厄地」と刻まれた大きな石碑がありました。
 江藤の願った「法の中立性」というものは、現代においてはどうなっているのでしょうか。ちゃんと守られているのか、それともなおざりにされているのか、天上の江藤はどのように判断しているのか、とても聞いてみたい気がします。




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