鶴ヶ城(福島県会津若松市)




(第5回「波濤を越えて −海を渡った二人の会津藩士−」)
 慶応3(1867)年というこの年は、フランスのパリにおいて「パリ万国博覧会」が開催された年です。
 当時のフランス皇帝・ナポレオン三世は、友好関係を結んでいた日本の幕府に対して、パリ万国博覧会への参加を求めました。それを受けて幕府は、パリ万国博への参列のために、第15代将軍・徳川慶喜の弟である当時14歳の徳川昭武を将軍名代としてフランスへ派遣することに決定しました。
 慶応3(1867)年1月11日、昭武率いる総勢33名の使節団は、横浜を出航し、一路フランスへと旅立ちました。
 このフランスへの使節団の中に、二人の若き会津藩士が加わっていたのです。

 二人の名は、横山常守(よこやまつねもり)と海老名季昌(えびなすえまさ)です。

 横山常守は、弘化4(1847)年、会津藩士・山川常道の子として、江戸の会津藩邸内で生まれました。
 父の常道は、藩内で代々家老職を務めていた名門・横山家の養嗣子となる予定だったのですが、若くして早世したため、その遺児である常守が代わって横山家の養子となりました。当時の横山家の当主は、名家老と呼ばれた横山常徳で、常守はその養父の厚い薫陶を受けて育ち、藩校の日新館でも次第に頭角を現し、抜群の成績を挙げて、藩内でも注目を浴びる存在となります。
 元治元(1864)年、養父・常徳が病死した後は、常守は17歳にして家督を継ぎ、当時京都守護職を務めていた藩主・松平容保の側に仕え、次第にその信任を得るようになったのです。

 変わって、もう一人の留学生である海老名季昌は、天保14(1843)年、会津藩士・海老名季久の長男として、会津若松城下の天寧寺町に生まれました。
 幼少の頃の季昌は、一歳の時に患った天然痘の後遺症で歩行が困難になるなど、常に病気がちの生活を送っていたのですが、そんな病弱な体のハンデを乗り越えようと、日々学問に、そして武道に精進し、藩校の日新館でも次第に彼の存在は注目を浴びるようになりました。
 文久3(1863)年に父の季久が隠居した後、季昌は20歳の若さで家督を継ぎ、京都に赴任して藩主松平容保の側に仕えることになります。また、季昌は、元治元(1864)年7月に起こった「蛤御門の変」においても武功を立て、若くして御使番を務めるなど、藩内における季昌の地位もまた、非常に重いものとなっていったのです。

 このように、横山・海老名の両名は、若くして藩内に認められる存在になっていたのですが、そんな彼らに対し、ある大きな使命が下されることになります。
 慶応2(1866)年11月、会津藩主・松平容保は、横山と海老名の二人に対して、パリ万国博覧会参列のため、フランスに渡航する徳川昭武の使節団に、伝習生つまり今で言う留学生として、随行するように命じたのです。容保が二人に海外留学を命じたのは、藩内でも一番目をかけ、将来を嘱望していたからであったと思います。
 慶応3(1867)年1月11日、横山と海老名の二人は、徳川昭武率いる使節団と共にフランス客船「アルフェト号」に乗船し、遥か遠い海の向こうの地・フランスへ向けて出航しました。
 当時、横山は20歳、海老名は24歳という若さでした。
 二人は、まず横浜から中国の上海に渡ると、その後、

香港 → サイゴン(ベトナム) → シンガポール → セイロン(スリランカ) → アデン(イエメン)

 と旅をし、そしてスエズ(エジプト)に到着しました。
 当時、スエズ運河はまだ開港されていなかったため、ここから二人は汽車に乗り換え、エジプトのカイロを通ってアレキサンドリアへと向かい、ここでフランス船「サイド号」に乗り換え、メッシナ(イタリア)を経由して、ようやく2月29日の朝、フランスのマルセイユに上陸しました。
 二人が最終目的地のパリに着いたのは、慶応3(1867)年3月7日のことです。横浜港を出航して以来、56日間にも及ぶ長い航海の旅でした。
 パリに到着した海老名は、その日の日記の中で次のように書いています。


「パリスに着く。その広大奇麗、盛賑は各国各都の冠たり」
(フランスのパリに着きました。その広大で、街の綺麗なこと、盛んに賑わっている様子は、全世界のどの国のどの都市の中でも一番ではないかと思えるほどです)



 パリに到着した横山・海老名の二人は、ここから徳川昭武一行と分かれ、見聞を広めるために、ヨーロッパ諸国への巡歴の旅へと出かけます。
 スイス、イタリア、バビール国(ギリシャ)、エジプト、オーストリア、ロシア、プロシア(ドイツ)、オランダ、ヘルジム(ベルギー)、イギリスと二人は数多くの国々を訪れました。
 二人はこの旅の中で、発達した西洋文明を目の当たりにし、そして様々な人々と交わりを持ち、国際感覚を身につけて、人間的にも大きく成長することになるのです。
 そして、慶応3(1867)年12月、二人はたくさんの西洋知識という土産を持ち帰り、横浜港に帰国しました。

 西洋の新知識を習得した二人には、これからその知識を発揮する大きな活躍の場が与えられると思いきや、幕末という時代は、そんな彼らを大きな騒乱の渦に巻き込もうとします。
 彼らを待ち受けていたのは、西洋知識を使う場ではなく、銃弾が飛び交う戊辰戦争という大きな戦場の場であったのです。
 二人が帰国した翌月の慶応4(1868)年1月3日、幕府軍と薩摩・長州藩の連合軍との間で「鳥羽・伏見の戦い」が勃発しました。会津藩は幕府軍としてこの戦いに参戦し、帰国した直後の海老名は、会津兵を指揮して戦いますが、右足に砲弾を受けて負傷し、大坂から江戸へと送られることになります。
 また、横山も藩主・容保に付き従い、江戸から会津へと戻り、奥羽の要衝の地であった白河口の防衛軍副総督として出陣することになりました。
 しかし……、慶応4(1868)年5月1日、横山は全軍を指揮中に敵の銃弾を体に受けて、21歳の若さで戦死することになるのです。海外留学で得た知識を何も生かせぬまま、横山は敵の銃弾の前に斃れたのです。

 一方、負傷した海老名は会津に戻ると、慶応4(1868)年8月、会津藩最後の家老に任命され、一ヶ月にも及ぶ長い篭城戦を藩士達と共に戦い抜くことになります。
 しかしながら、そんな奮戦も虚しく、元号が変わった明治元(1868)年9月22日、会津藩は新政府軍に対し、開城・降伏することになるのです。
 その後の海老名は、家老として戦争の責任を負わされ、東京に送還されて幽閉されることになりますが、後年は若松町長に就任し、戦後の会津の復興に力を注ぐことになります。

 横山常守と海老名季昌。
 二人は共に海外留学を経験し、西洋文明に触れながらも、時代はそんな彼らに対し、その知識を生かすための活躍の場を与えませんでした。
 運命と言ってしまえば、それまでですが、二人にとっては、それは余りにも悲し過ぎる定運(さだめ)であったに違いありません。




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