(画像)上野彦馬邸宅跡
上野彦馬邸宅跡(長崎県長崎市)




(第2回「上野彦馬 −写真に込めた情熱−」)

「幕末に活躍したヒーロー達は、一体どんな顔をしていたのか?」

 我々歴史ファンにとって、非常に興味の尽きないこのテーマを唯一満足させてくれるものが「写真」です。
 遠い後世に生きる我々が、幕末のヒーロー達の姿や幕末当時の風景などをすぐに頭に思い浮かべることが出来るのも、当時の風景や人物を写した貴重な写真の存在のお陰であると言えるでしょう。

 幕末という時代は、写真術が西欧諸国から初めて日本に入ってきた時期で、写真草創の時代でもありました。
 そして、日本でその写真術の草分け的存在となったのが、長崎で写真館を開業し、後年、日本最初のプロカメラマン(職業写真師)と呼ばれた上野彦馬(うえのひこま)です。

 写真という技術が発明されたのは、今から遡ること180年以上も前の1816年、フランス人発明家のジョセフ・ニセフォール・ニエプスという人物によってです。ニエプスは塩化銀を塗った紙に初めて画像を写し出すことに成功し、その六年後の1822年、部屋の窓から見える外の風景を撮影することに成功しました。
 これが世界最古の風景写真と言われる『グラの窓からの眺め』という作品です。
 しかしながら、このニエプスの撮影方法は撮影に八時間というとてつもなく長い時間がかかり、実際には実用に耐えないものでした。そのため、それを改良し、写真術というものを実用化した人物が、フランス人画家のルイ・ジャック・マンデ・ダゲールです。
 1839年、ダゲールは世界で初めて銀版上に画像を定着させる実用的な写真術を発明しました。
 これが後に彼の名を冠して「ダゲレオタイプ」(銀版写真法)と呼ばれるものです。
 このダゲールの発明から九年後の嘉永元(1848)年、このダゲレオタイプ仕様のカメラが、ある日本人の手によって初めて日本の長崎へと輸入されました。その人物が、上野彦馬の父である上野俊之丞です。
 上野家は先祖代々肖像画を描く画家の家系でしたが、俊之丞は非常に多才な人物で、長崎奉行所の御用時計師を勤めるかたわら、硝石の製造を行なう化学者でもあり、またオランダ人のシーボルトに蘭学を学んだこともある蘭学者でもありました。
 後年、彦馬が写真研究に没頭するようになった背景には、この父の進取気鋭の性格が彦馬に大きな影響を与えたものであるとも言えるでしょう。

 天保9(1838)年8月27日、彦馬は上野家の本邸があった長崎の銀屋町(現古川町)に生まれました。
 彦馬の名の由来は、長崎の東方に聳え立つ彦山から取ったものと伝えられています。彦山は月の名所としても知られ、幕臣でありながら、狂歌や洒落本などを手掛けた文人の大田南畝(蜀山人)は、長崎奉行所の勘定役として長崎に赴任した際、彦山について次のような歌を残しています。


「彦山の上から出ずる月はよか こげん月はえっとなかばい」


 「えっとなかばい」とは、長崎弁で「なかなか無い」という意味です。

「彦山からのぼる月の眺めは最高である。こんな月はなかなかお目にはかかれない」

 と大田南畝は詠んだというわけです。
 俊之丞がこの壮麗な彦山の一字を彦馬の名に付けたのも、彼に対する期待の大きさからかもしれません。

 さて、俊之丞が日本で初めてダゲレオタイプのカメラを輸入した嘉永元(1848)年、彦馬はまだ10歳の少年であったため、カメラに対して何の興味を覚えることもなかったことでしょう。
 余談ですが、後にそのカメラは薩摩藩に献上され、薩摩において、日本人による日本で最初の銀版写真撮影が行なわれることになるのです。
 彦馬が初めて写真に心惹かれたのは、オランダ人医師のポンペ・ファン・メールデルフォールトとの出会いからです。当時、ポンペは長崎において西洋医学を講じる医学伝習所を創設し、日本人に対し、医学や化学を教えていました。彦馬もまた、父の跡を継ぐべく、伝習所においてポンペから舎密学(化学)を学んでいたのです。
 彦馬が20歳となったある日のこと、たまたまオランダ語の本の中に、

「Fotografie(写真)」

 という文字を彦馬は目にしました。
 この文字を見つけた時の彦馬の衝撃は、後年彼が写真にかけた情熱を考えれば、体に電流が流れるほどの大きなものであったに違いありません。そしてそれを機に、彦馬は急激に写真というものに惹かれていくことになるのです。「Fotografie」という、たった10文字の言葉の中に、彦馬は自分が今まで触れたことの無い、大きな感動や未知の世界を見出したからではないでしょうか。
 そして、その日から、彦馬の写真研究の長い格闘の日々が始まりました。
 当時の彦馬には、写真を撮影するカメラも無ければ、それを現像する薬品類など、写真撮影に必要な道具一式が何もかもありません。そのため、彼は自力で撮影道具と薬品を製造しなければならなかったのです。
 彦馬は手当たり次第に蘭書を読みあさり、木箱と双眼鏡のレンズを使った手製のカメラを製作し始めました。また、写真の感光に必要な青酸カリやアンモニアは、牛の骨や血を精製して作らなければならなかったのですが、その際に強烈な異臭が生じたことから、付近の住民の中には、彦馬を奉行所に訴え出る者もあったと言われています。

「上野の息子が奇妙なことを始めよった」
「彦馬は気がおかしくなったのではないか」

 などと周囲の人々が陰口をたたく中、彦馬はそれでも一心不乱に写真研究に没頭しました。いつしか彼は、写真に自分の生涯をかけようと心に決めていたのです。
 そして、ついに彦馬は手製のカメラと薬品を完成させると、テスト撮影として、長崎興福寺の山門を撮影することに成功しました。
 しかし、彦馬はそれで満足することはありませんでした。

「次は、人を撮影してみたい……」

 彦馬は建物を撮影することに飽き足らず、人物を撮影してみたいと考えるようになったのです。
 ただ、時代は明治に入ってからでさえも、「魂を抜かれる」などと言われ、日本人に忌み嫌われ、敬遠されていた写真です。まったく写真というものが定着していなかった当時、誰も気味悪がって、彦馬のモデルになってくれる人物はいませんでした。そのため、彦馬は医学伝習所の頭取を勤めていた医師・松本良順にそのモデルを依頼しました。西洋医学に理解のある良順ならば、きっと引き受けてくれるであろうと、彦馬が思ったからではないでしょうか。そして、良順は彦馬の依頼を快く承諾したのです。

 最初の人物撮影当日。
 撮影機材一式を持って、良順が宿舎にしていた本蓮寺に到着した彦馬は、撮影にあたり、良順の顔一杯に白い白粉(おしろい)を塗り始めました。良順の顔に白粉を塗ったのは、被写体である人物に少しでも明るく太陽光を当てるためです。当時の写真技術はまだ未成熟で、被写体自体が明るくなければ、綺麗に写真として写し出すことが出来なかったからです。

 準備を全て終え、静かに撮影はスタートしました……。

 顔一杯に白い白粉を塗りたくられ、五分以上もじっと立ち続ける良順。
 そして、自作のカメラを手に、その様子を目を輝かせながら見つめる彦馬。

 当時の長崎の人達から見れば、二人のその姿は誠に滑稽な様子に見えたかもしれませんが、今から想像すると、何と微笑ましくて良い光景ではないでしょうか。私にはその光景が今でも目に浮かぶような気がします。
 これが上野彦馬にとって、初めての人物撮影でした。

 時は移り、文久2(1862)年。24歳となった彦馬は、ようやく念願が叶い、長崎の中島川畔に「上野撮影局」という写真館をオープンしました。そしてこのスタジオで、坂本龍馬、高杉晋作、桂小五郎、伊藤俊輔といった幕末のヒーロー達が、彦馬の手によって撮影されることになるのです。
 彦馬は、自らが撮影した写真の台紙の裏側に、「アーチスト」という文字を印刷したと伝えられています。彦馬にとっては、写真というものは何物にも代えがたい究極の「芸術」であったのです。
 彦馬が写した数々の貴重な写真は、後世、幕末という激動の時代を何よりも物語る「歴史」そのものとなったと言えるのではないでしょうか。




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