(画像)河井継之助終焉地
河井継之助終焉之地(福島県南会津郡只見町)




(第3回「死生は私には仕らず候 −河井継之助最後の手紙−」)
 司馬遼太郎の小説『峠』の主人公としても知られる長岡藩の河井継之助が亡くなったのは、慶応4(1868)年8月16日、南会津郡伊北村塩沢の村医・矢沢宗益の邸宅でのことでした。
 現在、継之助が没した矢沢家があった場所は、ダム建設のために水没してしまいましたが、そのすぐ側には「河井継之助記念館」という資料館が建てられ、その内部に矢沢家の継之助終焉の部屋が移設され、現在も大切に保存されています。
 長岡藩の中級藩士の家に生まれた継之助は、第11代藩主の牧野忠恭(まきのただゆき)に愛され、郡奉行に抜擢されたのを機に、異例の出世を遂げ、慶応4(1868)年閏4月には家老上席の地位にまで登りつめ、藩内に様々な政治・兵制改革を断行しました。
 しかし、継之助が家老に就任した当時、長岡藩は危急存亡の秋を迎えようとしていたのです。

 「鳥羽伏見の戦い」で勝利した薩摩藩・長州藩を中心とした新政府軍は、会津藩を中心とした東北諸藩に向けて兵を発し、その兵隊が長岡にも向けられていました。
 旧幕府側に付くか、それとも新政府側に付くかの進退を未だ明らかにしていなかった長岡藩は、継之助独自の「武装中立論」を唱え、新政府軍側と談判に及びますが、交渉は決裂し、長岡藩は開戦に踏み切ることになります。
 長岡藩は七万四千石という小藩ながらも、軍事総督を勤めていた継之助の強いリーダーシップの下に、優秀な兵器と統率された藩兵を使って、一度占領された長岡城を再び奪い返すなど、新政府軍に対し互角以上の戦いを展開しました。
 しかしながら、その戦況が一変したのは、継之助の負傷からでした。

 慶応4(1868)年7月25日、長岡城下の激戦において、継之助は左足の膝に鉄砲の流れ弾を受け、歩くことが出来ないほどの重症を負いました。
 しかし、継之助はその膝の傷を決して医者に見せようとはしませんでした。自分が負傷したことが将兵に知れ渡れば、全軍の士気が落ちるであろうことを懸念し、医者に治療させることを拒み続けたのです。
 しかしながら、この継之助の負傷が長岡藩の運命を決定付けました。指揮官を失った長岡藩は、再度、新政府軍に城を奪還され、城も領土も放棄して、領内から敗走せざるを得なくなったのです。

 継之助が重症を負った一週間後の8月1日、継之助は戸板の上に臥した状態で、左膝の傷の痛みに耐えながら、一通の長文の手紙をしたためています。その手紙は、戦を避け会津若松に避難していた藩主の側に付き従っている義兄の梛野嘉兵衛(なぎのかへい)に宛てたものでした。
 継之助のこの手紙の中には、戦に敗戦したことに対する藩主への謝罪、そして、継之助の現在の心境や死に対する悲壮な決意や思いが綿々と綴られています。
 手紙の後半部分に、次のように書かれています。


「兼ねて一同覚悟の通り、とても免れ難き大乱にて、不義にして汚名を後世に残し候よりは、義理を守り御奉公を仕るべきの所存とは申しながら、畢竟、不行届よりその意を達するあたわざるは残念至極、この段宜敷、両殿様へ仰せあげられ、御申し訳願い奉り候」

(現代語訳by tsubu)
「かねてから家中一同覚悟していました通り、今回の戦はとても免れがたい大乱ですので、不義を犯してまで汚名を後世に残すよりは、義理を守って御奉公するつもりでおりましたが、結局は自らの努力が足りなかったことにより、その目的を達成出来なかったことは、誠に残念で仕方がありません。この旨を両殿様へお伝えして頂きますよう、よろしくお願いいたします」



 継之助の手紙のこの部分からは、自らの責任により開戦に至ったにもかかわらず、結局は城と領土を奪われ、長岡を退却しなければならなくなったことに対する継之助の無念の程が痛いほど伝わってきます。
 そして、継之助は続けて次のように書いています。


「私は最早、御奉公仕り候て、御用を為すべき道も絶え、苦痛の余り、とても嶮山を越え候訳に参らず、脇にてはいろいろ申し候得共、死生は私には仕らず候」

(現代語訳 by tsubu)
「私は最早、殿様にご奉公をして、御用をなすことが出来なくなりました。また、足の傷の痛みが余りにも激しいため、険しい山を越えて退くこともままなりません。周囲の者は色々と私を励ましてくれますが、死ぬか生きるか、それはもう私自身が決めることではなくなっているのです……」



「死生は私には仕らず候(しせいは、わたくしにはつかまつらずそうろう)」

 死ぬか生きるか、それは自分の手でどうにでも出来るものではない。ことここに至っては、死生は自分とは関係の無いものになっている……。
 この手紙を書いた時、継之助はこのまま長岡の地で死ぬことを決意していたのです。
 そして、この手紙が継之助の絶筆となり、遺書となりました。

 城も領土も無くした長岡藩の将兵達は、結局、会津に退くことになりました。
 継之助は「自分はこのまま置いて行くように」と周囲の人々に言いますが、側近達は駕籠を手直しした特製の担架に継之助を乗せて運び、越後と会津を繋ぐ「八十里越え(はちじゅうりごえ)」という険しい峠道を通り、会津へと向かいました。
 八十里越えは、越後から奥会津に通じる八里ほどの距離の街道でしたが、一里の行程が十里に感じてしまうほど、非常に険しい山越えの道であったため、その名が付けられた峠道でした。
 継之助は、この難所の八十里越えを担架で運ばれながら越えた時、視界からだんだんと遠ざかる故郷・越後の山々を見ながら、次のように呟きました。


「八十里 こし抜け武士の 越す峠」


 死を決意していた継之助にとって、それは余りにも無念な峠越えでした……。
 故郷で死ぬことが出来ない自らを恥じる気持ちが、継之助をしてこう言わしめたのかもしれません。
 そして、8月16日、八十里越えを越えた会津塩沢の地で、継之助は静かに42年の生涯を終えました。新しい時代の幕開けが、もう目前に迫ろうとしていた時のことでした。

「死生は私には仕らず候」

 と書き遺し、最後の最後まで武士らしくあり続けようとした継之助の死は、旧時代の終焉を象徴するような出来事であったかもしれません。




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