(画像)周布政之助旧宅地
周布政之助旧宅地(山口県萩市)




(第7回「鴻門の会(こうもんのかい)−薩長両藩士の余興対決−」)
 文久2(1862)年6月12日、当時江戸の柳橋にあった川長楼という有名な料理屋で薩長両藩士の会合が催されました。
 この会合の主催者は、長州藩の周布政之助という人物です。
 周布は薩長両藩士の親睦と融和を目的としてこの会合を催し、薩摩藩の重臣である大久保一蔵(後の利通)と堀小太郎(後の伊地知貞馨)の両名を川長楼へと招きました。
 長州藩側の出席者は、周布に加えて、小幡彦七、宍戸九郎兵衛、来島又兵衛など、当時の長州藩を代表する面々でした。
 酒席が始まるや、この会合の主催者である周布は、これまでの長州藩の政治活動に関して説明し、

「長州藩の運動は、決して私心から出ているものではござらん。もし、この言葉に間違いがあれば、拙者はすぐに切腹して果てましょうぞ」

 と、大久保と堀に対して言いました。
 すると、その周布の話を聞いていた堀小太郎が、

「おはん、そいならここで切腹してみやんせ。おいが見届けてやりもんそ!」

 と周布に対して暴言を吐いたのです。
 当時の堀は、薩摩藩主の実父・島津久光の寵愛を受けて、権力の絶頂期にありました。また、堀は長州藩士・長井雅楽が提唱した公武合体政策「航海遠略策」から百八十度政策転換しようとしている長州藩を快く思っていなかったのでしょう。このような暴言を周布に浴びせかけたのです。
 この堀の言葉を聞いて、大久保は驚きました。
 大久保は「堀どん! やめんか!」と一喝し、何とかその場を治めたのですが、暴言を吐かれた側の周布にとっては、これ以上の屈辱はありません。

(この男め……)

 周布の心の中には、堀に対する怒りがジリジリと込み上げてきました。

 その後、酒席はなおも続きましたが、堀の一言から発した険悪な空気は元に戻る事はなく、また、堀の態度は改まるどころか、どんどん増長していき傲慢な態度を繰り返します。
 周布は宴席の主催者でしたから、我慢に我慢を重ねていましたが、元々は彼も非常に激しい気性の持ち主です。堀の傲慢な態度に、ついに堪忍袋の尾が切れて、

(こやつ、斬り捨ててやる……)

 とばかりに思い、「余興として剣舞をお見せしましょう」と言うと、怒りに震えた周布は、自らの刀を抜いて剣舞を舞い始めたのです。
 周布は剣舞を舞いながら堀に近づいて行きました。彼は舞いの最中に、堀を斬ろうとしたのです。
 それを見て驚いたのが、同じ長州藩の小幡彦七でした。

(こりゃ、まずい……。周布さんは本気じゃ……)

 こんな場所で、長州藩士の薩摩藩士殺傷事件などが起こっては天下の一大事です。小幡は周布の行動を制止するべく、自らも刀を抜いて剣舞を舞い、周布と堀の間に入って、身を挺して周布の行動を遮りました。
 また、その様子をじっと見つめていた来島又兵衛も非常に荒々しい性格の持ち主です。来島も、万が一斬り合いになった場合は、自らも踊り出て堀を斬るつもりで刀を引き寄せ、座を睥睨し始めました。
 このように座中はまさに一触即発の様相を呈してきたのです。

 そんな殺風景な様子を見ていた薩摩藩の大久保一蔵は、その緊急事態を非常に案じていました。

(こいはまずか事になった……。何とかせんにゃ、いけもはんな……)

 場が一層殺気を帯びていく中、大久保は少し考えた末に、ある驚くべき行動を見せたのです!
 大久保は急にスッと立ちあがると、座敷の畳を一枚めくって、それを引っくり返して持ち上げ、手のひらの上に乗せて畳をグルグルと回し始めました。

 大久保の隠し芸「畳み回し」です。

 殺気立ちながら剣舞を舞っていた周布達は、その大久保の突然の行動にあっけに取られ、先程までの殺気立った場は収まりました。
 このようにして、薩長両藩士による刃傷沙汰は回避されたのですが、大久保はこの日の日記に、次のように短く書き留めました。


「頗ル及暴論候(頗る暴論に及び候)」


 この暴論という文字の中に、大久保の「畳み回し」が含まれているかと思うと、何だか笑いが込み上げてきそうになりますね。
 後世この薩長両藩士の会合は、司馬遷が記した「史記」の中の故事、漢の高祖が楚の項羽と咸陽近くの「鴻門」で会見した様子と非常に似ていたことから、幕末版「鴻門の会」と称されて、現代に伝わっているのです。



参考:妻木忠太『偉人周布政之助翁伝』




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