中津大四郎自刃の地(宮崎県東臼杵郡北川町)




(第2回「中津大四郎と竜口隊@ −西南戦争外伝−」)
 明治10(1877)年に起こった西南の役、いわゆる西南戦争は、鹿児島、熊本を始め、大分、宮崎といった九州の広範囲が戦場となりました。
 当時、日本全国には明治新政府の政策に対する不満が噴出していたため、挙兵した西郷隆盛率いる薩軍に従軍を志願する者が数多く存在していました。板垣退助を中心とした旧土佐藩関係者、はたまた遠く離れた庄内藩の城下町・鶴岡の地でも、挙兵した薩軍に呼応しようとする動きが見られましたが、特に直接の戦場となった九州では、各地の有志者が私隊を結成し、数多く薩軍に身を投じました。
 それら九州各地で結成された数多くの諸隊の中でも代表的なものとして知られるのは、明治のジャーナリストとして名を馳せた池辺三山の父である池辺吉十郎が率いた「熊本隊」、ルソーの『民約論』に傾倒し、自由民権を唱える植木学校を創立した民権論者・宮崎八郎が率いた「協同隊」などが有名ですが、その他にも、人吉隊、飫肥隊、佐土原隊、延岡隊、高鍋隊など、九州各地で結成された諸隊が多数薩軍に従軍し、西南戦争に参戦したのです。
 そして今回の物語の主人公となる中津大四郎(なかつだいしろう)もまた、「竜口隊」という隊を率いて薩軍に身を投じた人物の一人です。

 中津大四郎は、弘化元(1844)年、肥後熊本藩士・福田五左衛門の次男として、熊本城下の京町で生まれました。
 大四郎がまだ幼い頃、肥後熊本藩の乗馬(馬術)師範役を務めていた中津八角の養嗣子となり、以後中津姓を名乗ることになります。
 『西南記伝』には、この中津大四郎の容姿について、次のように書き記されています。


「大四郎、人となり、眉目秀麗、挙止端厳。維新後、依然として結髪し、その外に出づるや、必ず太刀作の刀を嚢にして之を携ふ。その態度沈重、古武士の風あり。」
(黒龍会編『西南記伝』より抜粋 <旧字は読みやすく新字に改めました>)



 「眉目秀麗」と書かれてありますので、大四郎は目鼻立ちがはっきりと整っていて、しかも「挙止端厳」、つまり立ち居振る舞いが非常に正しく厳(おごそ)かな人物であったことがうかがわれます。
 また、維新後もまげを切らず(おそらく総髪だったのでしょう)、太刀作の復古刀を腰に差し、古武士のような重厚さがにじみ出ていたとも書かれてありますので、これらの記述から総じて考えると、中津大四郎という人物は、顔立ちは綺麗に整い、非常に礼儀正しく、そして重厚な雰囲気を醸し出していた人であったと言えましょう。
 また、前述した通り、大四郎は肥後熊本藩の馬術師範役を務めていたため、「解龍流馬術」という有名な馬術の名手であったようです。旧藩政時代には、大四郎は常に遠乗りを行い、また馬の水練を行なうなど、連日馬の調練に精を出し、また、時代が明治に入った廃藩置県後も、常に良馬を養って、その訓育を怠らなかったとも伝えられています。
 しかし、大四郎が愛馬と共にこのような平穏な生活を続ける最中、時代は風雲急を告げようとする局面を迎えようとしていました。

 明治10(1877)年1月29日の夜。
 鹿児島城下の草牟田という場所にあった陸軍火薬庫に保管されていた武器弾薬の類を、明治政府が夜陰にまぎれて大阪に向けて運び出そうとしたため、その動きに憤慨した少数の私学校生徒達が暴発し、草牟田の火薬庫を襲撃しました。
 一旦暴発した私学校生徒の勢いはその後も止まることを知らず、その翌日以降も鹿児島各地で陸軍火薬庫が襲撃される大きな騒動に発展したのです。
 この私学校生徒らによる陸軍火薬庫襲撃事件がきっかけで、いよいよ西南戦争という一大戦争の火ぶたが切られることになるのですが、中津大四郎の運命もまた、その戦争によって大きく変わることになるのです。

 私学校生徒の暴発がきっかけとなり、鹿児島で挙兵した薩軍は、一路熊本城を目指して北上を開始しました。
 薩摩軍が熊本城下に迫りつつあった明治10(1877)年2月19日。
 突然、熊本城内から火の手が上がり、熊本城の天守閣や城内に保管されていた武器弾薬や兵糧、その他の物資などが消失する大火事が起こりました。この火災については、昔から諸説様々あり、薩軍に内応する兵士達が城内に放火した説や熊本鎮台司令長官の谷干城が、薩軍の来襲で動揺している兵士達の士気を引き締めるために自焼させた等の説がありますが、今なおその火災の原因は判明していません。
 折りしもこの日の熊本城下は、風が非常に強い日であったため、城内から燃え上がった炎が飛び火して、熊本の城下町も焼き尽くされるという大きな被害が出ました。
 このような形で熊本の城下町が燃えたことにより、城を攻める薩軍にとっては、城内からの攻撃を防ぐための建物が完全に無くなってしまい、その意味では熊本城籠城軍に非常に利があったことからも、この不審火は熊本城籠城軍の作戦であったと考えられる説も有力です。

 そんな熊本城から燃え上がった炎が城下町を焼き尽くす様子をじっと見つめていた一人の男がいました。

 それが、中津大四郎です。

 大四郎は自らが生まれ育った城下町が燃え上がり、灰塵と化す姿を見て、ある決意を固めました。彼は城下郊外の龍田口にあった九品寺に本営を作り、城下の有志達に次のような激を飛ばしたのです。


「是れ国家危急存亡の秋なり。士を以て自ら任ずるもの、薩軍と共に廟堂の小人を掃蕩し、蒼生を塗炭の中に救はざる可からず」
(黒龍会編『西南記伝』より抜粋 <旧字は読みやすく新字に改めました>)



 この大四郎の呼びかけに参じた者は、総勢で約四十数名ありました。集まった有志者達で隊を組織した大四郎は、目下の急務は来るべき薩軍のために兵糧等物資を準備しておくことであると考え、その日から食糧の調達に奔走しました。
 また、大四郎は隊の結成にあたって、自ら筆を取って隊結成の主意文を書いた手製の軍旗を作り上げ、一首の和歌をその軍旗に記したと伝えられています。
 その軍旗に書かれていた主意文と和歌は次の通りです。


(主意)「濫に放火いたして、人民を妨害し候に付、官賊を討ち、主上奉守護直存念」
(和歌)「諸人のなけきの聲をきき兼ねて 今うち出つるもののふの道」肥後国の住人 中津大四郎藤原有秀
(黒龍会編『西南記伝』より抜粋 <旧字は読みやすく新字に改めました>)

<現代語解説 by tsubu>
(主意)「濫(みだ)りに城下を放火し、人民の生活に支障をきたすようなことをするなど、もっての外の所業である。この度は、そういう悪行を行なうような官賊を討ち、ひたすら主上(天皇)を守護したいという存念で隊を結成するものである。」

(和歌)「熊本城下の出火により、城下に聞こえる住民達の嘆きの声、はたまた日本国中に鳴り響いている明治政府への不満の声、もう私にはそれらを聞き捨てにしておく事は出来ない。今こそ立ち上がって、心の中に宿っている武士の道というものを突き進もうではないか。肥後国の住人 中津大四郎藤原有秀」



 この軍旗に書かれている隊結成の主意文、そして大四郎が詠んだ和歌、これらを見ていると、熊本城の出火が城下町に飛び火し、その火災によって住民達が嘆き苦しんでいる姿を見て、大四郎が出火の原因を作った熊本鎮台兵に対し、大きな怒りを感じていたことがうかがえます。軍旗の主意文の最初に、「濫りに放火いたして、人民を妨害し候」と書かれてあるのは、自らが慣れ親しんだ城下町が焼かれ、住民達が塗炭の苦しみを味わっていることに対する大きな憤りと言えるでしょう。
 大四郎はこの大火事により、こんな住民を苦しめるような非道なことを行なうような熊本鎮台、はたまた政府は打倒してしまわなければならない、と一大決心をすることになるのです。
 これらから考え合わせると、中津大四郎という人物は、公のために憤ることが出来る精神を持った人物であったと言えるのではないでしょうか。


Aに続く




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