竜口隊隊長・中津大四郎碑(熊本県熊本市)




(第3回「中津大四郎と竜口隊A −西南戦争外伝−」)
 九品寺で隊を結成し、薩軍の到着を待っていた中津大四郎でしたが、当時は彼の率いる部隊は「竜口隊」とは呼ばれていませんでした。竜口隊は後に呼ばれるようになった隊の名称であり、当時は薩軍の食糧基地を守るための「護衛隊」と呼ばれていたのです。
 大四郎ら隊の面々は、熊本の大江地方に熊本城に籠城している熊本鎮台の食糧が集積されているのを知り、ここを襲撃して米や味噌、醤油といった食糧物資を手に入れ、ようやく熊本城下に到着した薩軍に対し、それを提供して従軍することを志願しました。
 これ以後、大四郎以下の護衛隊は薩軍の兵站部を統括する立場となって、一切の食糧援助物資について任されることになり、熊本城下の明牛橋の橋畔、養徳寺、三間町の三ヵ所に食糧基地を設け、食糧物資を護衛する任務にあたりました。
 しかしながら、熊本城を包囲し、攻撃を開始した薩軍は、熊本城からの激しい抵抗にあい、結局は城を攻め落とすことが出来ず、戦況は次第に不利な状況へと変わっていくことになります。
 当初は食糧物資を護衛する任務を任されていた護衛隊も、戦況の悪化に伴い、大四郎は隊の名称を「竜口隊」と改めて、以後は戦闘にも参加することになるのです。竜口隊の「竜口」とは、おそらく当初本営を置いていた九品寺が、龍田口という場所にあったからであろうことは容易に想像が出来るのではないかと思います。

 このような形で竜口隊も戦闘に参加することになったのですが、そのことで戦局が大きく変わることは当然なく、兵力・物資共に充実している政府軍の猛攻にあい、次第に薩軍は窮地に陥ることになります。


「雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ 田原坂(たばるざか)」


 この俗謡に象徴されるように、薩軍の頑強な抵抗のため、なかなか突破することが出来なかった熊本北方の要所「田原坂」も、最終的には政府軍の手に落ちたため、薩軍は熊本城の包囲を解き、熊本と鹿児島の境にある城下町・人吉で再起を計るべく、一路南方に退却を始めました。
 熊本から人吉に向かうためには進路が二つあり、「胡麻山越」か「那須越(霧立越)」と呼ばれている非常に険しい山道を進まなければならなかったのですが、中津大四郎率いる竜口隊の一行は、那須越に進路を取り、一路人吉を目指しました。
 大四郎は薩軍に従軍した時から、二頭の愛馬を片時も離さず、常に携えて行動していました。大四郎は元肥後熊本藩の馬術師範を務めていた人物です。彼にとっては、馬は何よりも変え難いパートナーであり、とても愛着があったのでしょう。
 しかし、人吉に退却するにあたり、険しい山岳地域を抜けていく那須越の道が控えています。
 周囲の者は口を揃えて、

「那須越は、指折りの峻険な山道であり、周囲には断崖絶壁が迫り、鵯越(ひよどりごえ)に優るような山道である。いかに君が馬術を得意としていると言えども、この道を馬で行く事は不可能である」

 と大四郎に言いました。
 しかし、大四郎はそんな言葉を意に介せず、悠然と馬に跨って、あたかも平地を行くかの如く、険しい山道を越えていったのです。この様子を見た人々は、大四郎の類稀なる馬術に只々感嘆するばかりであったと伝えられています。

 人吉に入り、再起を計ろうとした薩軍でしたが、戦局は次第に悪化の一途を辿り、今度は日向地方に転戦を強いられることになります。竜口隊の一行もまた、薩軍に付き従い、日向宮崎の地に入ることになりました。
 日向に入ってからも薩軍は、都城、宮崎、佐土原、高鍋、美々津、延岡と敗戦が続き、明治10(1877)年8月15日、延岡の北方「和田越(わだごえ)」において、政府軍との決戦が繰り広げられることになります。

 
これが有名な「和田越の決戦」と呼ばれている戦いです。

 この和田越の決戦においては、西郷隆盛が初めて陣頭で指揮を執り、薩軍も大いに士気が上がって奮戦したのですが、いかんせん兵力と物資の差を埋めることが出来ず、政府軍の圧倒的な兵力・火力の前に、薩軍は最後の一大決戦でも敗れることになるのです。
 大四郎が率いる竜口隊もまた、和田越の決戦においては熊本隊と共に防戦に努めましたが、雪崩を打って迫り来る政府軍の猛撃を防ぐことが出来ず、結局薩軍の本営があった長井村(現在の宮崎県東臼杵郡北川町大字長井)に退却することになりました。
 長井村に退いた薩軍及び九州各地から従軍した諸隊は、四方八方を敵に取り囲まれ、また、食糧や弾薬などの物資も底を尽き、まさに疲労困憊の極みにありました。竜口隊の一行もまた、戦う闘志すら失うほど、疲れ果てている状態であったのです。
 その隊の様子を見た大四郎は、和田越の決戦が行なわれた翌日の8月16日、竜口隊の隊士を集めて、次のように言いました。


「我が軍の敗亡の運命はもう決まったも同然である……。諸君、よく聞いてくれたまえ。決戦をもって屍を原野にさらすことよりも、むしろ諸君達には一時の屈辱を忍んでも、生き残ってもらいたい。そして、裁判などで我々の挙兵の素志を公の場で堂々と論じ、そして下される処分を受けるのが良いだろう。しかし・・・、私はそうはいかない。隊の総裁として、私は責任を一身に背負い、自決することに決した。諸君、私の決心を止めないでくれたまえ」


 大四郎の決心を聞いた竜口隊士らは、全ての隊士が大四郎に従って死を共にすることを請い願ったのですが、大四郎はそんな彼らをゆっくりと優しく諭して、永遠の別れを告げました。
 想像でしかありませんが、おそらく竜口隊の全ての隊士達は、泣きながら大四郎の自決を止めたのではないでしょうか。ほんとうに胸が詰まる話です……。

 苦難を共にしてきた竜口隊士らと別れた大四郎は、自ら携えてきた家重代(代々家に伝わってきた家宝)の狸狸緋(しょうじょうひ)の陣羽織を着て正装し、日頃から愛してやまなかった愛馬に跨り、薩軍の本営を訪れ、西郷隆盛に日常の交誼の礼と別れを告げに行きました。その後、彼は同郷の士である熊本隊、協同隊の陣営を訪れ、決別の意を伝えに行ったのです。ここにも、非常に礼儀正しかった中津大四郎の人となりがよく表れているのではないかと思います。
 大四郎は、世話になった人々との別れを済ませた後、一先ず陣営に戻って、竜口隊の副隊長格であった小隊長の野口勝三と共に、長井神社の山林に入り、野口勝三を介錯人として、自決しました。
中津大四郎、享年33歳の若さでした。
大四郎の辞世の句は次のようなものです。


「義乎立志 身波此山爾捨天名乎 末野世爾萬天 乃古須宇禮志佐」
(義を立てし 身はこの山に捨てて名を すえの世にまで 遺す嬉しさ)
(黒龍会編『西南記伝』より抜粋 <上段の原文は万葉仮名>)



 この大四郎の辞世の句は、今もなお長井の山中に建てられている中津大四郎の墓碑の台石に刻まれています。
 そして、大四郎の死骸は、後に長井村の村民が手厚く葬り、その終焉の地に祠を立てて祀り、村に吉凶がある毎にその祠に祈りを捧げる習慣があったのだそうです。

 時は流れて……、明治15(1882)年。
 中津大四郎の門弟の一人であった高田露が、中津大四郎の自刃の地を訪れ、その遺骨を引き取って帰ろうとしたところ、地元の村民達はその高田に対して、


「中津先生の霊は、村内の鎮守として、村民が崇仰しているものでありますので、願わくば、このまま遺骨を置いて頂けないでしょうか」


 と請い願ったので、高田はその村民の願いを聞きいれて、遺骨をそのままにして帰ったと、『西南記伝』には書き記されています。

 生まれ育った熊本の城下町が焼け、民衆達が困る姿を見て立ち上がることを決意した中津大四郎。
 最後は隊士達の命を助けるのと引き換えに、自らの命を断った彼の生涯は、まさに慈愛溢れる、彼の優しい性格を裏付けているものであったように感じられてなりません。




(あとがき)
 「中津大四郎と竜口隊 −西南戦争外伝−」、いかがでしたでしょうか?
 今回は「西南戦争外伝」として肥後熊本から薩軍に従軍し、西南戦争を戦った中津大四郎という人物を取り上げましたが、この大四郎だけではなく、九州各地から薩軍に身を寄せた人物は大多数にのぼります。
 そんな薩軍に従軍した人々の参戦理由は、人によってまちまちですが、その中でも中津大四郎という人物が、竜口隊を組織し、薩軍に加わる動機となったのは、民の住む城下町を政府側の熊本鎮台が焼いたことであったことは、彼の人となりやその優しい性格を非常によく表しているのではないかと思います。
 また、大四郎はその最期に、日向の長井村の山中で自らが自決するに際して、隊士達を無駄死にさせないように、生き残って公の裁判を受けるようにと説得する辺りは、何だか胸が熱いものが込み上げ、思わず目頭が熱くなるものがあります。
 隊を率いたトップである大四郎にとっては、隊士の命を預かっているという自覚と、その責任を非常に重く受けとめていたことがこの点にもうかがわれます。人の上に立つ人物とは、こういった責任感や自覚を常に持っている人でなくてはならないし、務まらないのではないでしょうか。

 ただ、とても残念なことは、現在、宮崎県東臼杵郡北川町大字長井の「中津大四郎自刃の地」にある彼の墓を訪れる人は少なく、花も供えられていない、非常に荒れた状態になっていることです。
 本文中の最後にも書きましたが、大四郎の門弟であった高田露が後に大四郎の遺骨を引き取りに来た際に、それをそのままにして欲しいと請い願った村民達の思いというものは、一体今はどうなってしまったのでしょうか……。それを考えると、ほんとうに残念で仕方がありません。

 また、私は2004年5月、中津大四郎が挙兵した熊本の九品寺にも足を運びましたが、本章の最初に写真を掲載しているとおり、中津大四郎の碑は非常に荒れ果てた状態で存在し、その碑を示す木柱も腐り果てているような状態でした。私はその碑の状態を見て、心を痛めたことを今でもよく覚えています。
 熊本の城下町が炎で焼かれ、民衆が喘ぎ悲しむ姿を坐して見ることに忍びず、挙兵を決心した中津大四郎の存在を知る人は、現在熊本に住んでおられる方々の中でも、非常に少ないのではないでしょうか。これはやはり、中津大四郎の伝承を知る方々の年齢が高齢化しており、それらの伝承を現代に生きる若者が継承していないことが大きな原因であろうと思います。

 我々若い世代の人間は、郷土に古くから伝わる伝統や伝承といった無形的な歴史を、現在ご高齢となられている諸先輩方から聞いて覚え、そしてそれらを後の若い世代にまた引き継いでいかなければならない義務があると思います。伝承などの形の無い、いわゆる無形財産は、語り継いで遺していくしか方法がないのです。どこかの世代でその伝承が途切れれば、それはもう復活することさえ出来ないのです。

 特に熊本にお住まいの方々には、中津大四郎という、こういった人物が熊本に生き、そして遠く離れた宮崎の地で亡くなったことを拙文ではありますが、私のこの文章で知って頂ければこんなに嬉しいことはありません。そしてそれらの伝承が、また後の若い世代に受け継がれていくことを切に願う次第です。
 我々若い世代の人間は、もっともっと歴史に関心を持ち、後の若い世代の人達にその知識をバトンタッチしていかなければならないものと感じられてなりません。




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