![]() |
河野主一郎誕生地(鹿児島県鹿児島市) |
(第4回「河野主一郎と西南戦争(前編)−分かれた運命−」)
突然ですが、河野主一郎(こうのしゅいちろう)という人物をご存知でしょうか?
「敬天愛人」にお越しの皆さんの中には、知っておられる方もおられるとは思いますが、本題に入る前に、ごく簡単に河野の人物像について書いてみることにします。
『西南記伝』(黒竜会編)所収の「河野主一郎伝」によると、河野主一郎は弘化3(1846)年10月、鹿児島城下の高麗町に生まれました。戊辰戦争においては東北にまで出征し、明治後は近衛陸軍大尉の職に就いた人物です。
明治6(1873)年10月、西郷隆盛がいわゆる「征韓論争」に敗れて鹿児島に帰郷すると、河野も自らの職を辞し、鹿児島へと帰りました。
また、明治10(1877)年1月に勃発した西南戦争においては、河野は薩軍五番大隊の一番小隊長として従軍しています。
西南戦争時、西郷隆盛率いる薩軍は七つの大隊で編成されており、それぞれの大隊には一から十の小隊が置かれていました。(六、七番大隊は除く)
それら大隊に付属する一番小隊の小隊長に任命された人物は、当時の薩軍の編成に深く関わった、つまり幹部級の人物であり、西郷に目をかけられていた人物と言える人達です。
数人その例を挙げると、西郷の末弟である西郷小兵衛は一番大隊の一番小隊長、「赤鬼」と呼ばれ、政府軍に恐れられた若武者・辺見十郎太は三番大隊の一番小隊長に就いています。
このように薩軍幹部でも特に目をかけられた人物が各大隊の一番小隊長に任命されていることから、河野が五番大隊の一番小隊長に任命されたのは、彼にかける期待が大きかったことが推察されます。
西南戦争において、河野は熊本や宮崎の各地を転戦していますが、戦況が次第に悪化し、宮崎日向北方の長井村(現在の宮崎県東臼杵郡北川町大字長井)において薩軍が解散された後は、河野は西郷ら残った薩軍将兵らと共に鹿児島へ戻ることを決意しました。
西郷以下薩軍の生き残り達は、故郷の鹿児島で最後の決戦に挑もうと考えたからです。
道なき道を行く、困難の伴う山越えの末、ようやく生まれ故郷の鹿児島に戻った薩軍一行は、旧鹿児島城(鶴丸城)の裏山である「城山」を占拠し、そこに本営を置いて立て篭もりました。薩軍は最後の決戦に向けて政府軍と相対したのですが、ここにきて河野は非常に重要な役目を任されることになります。
西南戦争を扱った小説などでもよく描かれている場面ですが、城山に立て篭もっていた薩軍幹部の間で、
「西郷先生をこんまま死なすわけにはいきもはん。政府軍に対し、西郷先生の助命をば嘆願しようではごわはんか」
というような意見が出たため、西郷助命嘆願の使者を政府軍に対して送り出すことを決定したのです。
そして、その政府軍への交渉役を任されたのが河野主一郎その人でした。
政府軍の総攻撃を3日後に控えた明治10(1877)年9月21日。
河野は同じ薩摩人の山野田一輔(やまのだいっぽ)と共に城山を密かに下山し、当時政府軍の責任者の一人であった川村純義海軍中将に面会を求め、西郷の助命嘆願を交渉しようと試みました。川村の妻は西郷の母方のいとこにあたるところから、川村なら西郷助命の力になってくれるはずだと考えたからです。
しかしながら、結局その交渉は上手くいきませんでした……。
政府軍は河野と山野田の二人に対し、「西郷を助命したいのならば、その本人である西郷自身が城山を下山し、政府軍本営に出頭することが条件だ」と言い放ち、彼らの嘆願を拒否したばかりか、二人をそのまま拘束してしまったのです。
翌22日、政府軍は西郷助命嘆願の交渉が決裂したことを薩軍幹部らに伝えさせるため、山野田一人だけを解放し、再び城山の薩軍本営に戻しました。
しかし、もう一人の使者であった河野は、そのまま人質として政府軍に抑留されることになったのです。
そして、迎えた運命の明治10(1877)年9月24日。
蟻の這い出る隙間もないほどに、城山を幾重にも取り囲むように布陣していた政府軍は、そこに立て篭もる薩軍に対し、雨嵐のような砲撃を加え総攻撃に出ました。
その日の政府軍の総攻撃により、西郷隆盛以下、桐野利秋、村田新八といった主だった薩軍将兵らは城山の露と消えたのです……。
また、河野と共に助命嘆願の使者をつとめた山野田もその日の内に城山で戦死しました。
一方、政府軍に抑留されていた河野は、最後まで西郷と共に行動するつもりであったにもかかわらず、山野田のように西郷に殉ずることも出来ず、彼は一人生き残らざるを得なくなりました。同じ西郷助命嘆願の使者役をつとめた人物であったにもかかわらず、河野と山野田の運命は、その日大きく二つに分かれてしまったと言えるでしょう。
西南戦争終結後、河野は懲役10年の刑を宣告され、東北は福島県の福島監獄で服役することになりました。
その後、河野は明治14年に特赦によってその罪を許されると、すぐに鹿児島へと戻り、戦後の鹿児島の復興に力を注ぎました。
鹿児島に帰郷した河野は、明治15年に「三州社(さんしゅうしゃ)」という教育団体を設立しました。三州社の三州とは、薩摩・大隅・日向という九州南部の三つの州、つまり旧薩摩藩の領地であった三つの土地のことを指し、三州社はその三州で生活する子弟達に対して、教育事業を推進するための団体でした。
河野は、西南戦争後の荒れ果てた鹿児島の地において、教育の普及活動が何よりも大切であることを考え、三州社の社長として、戦後の鹿児島の復興に奔走したのです。
また、河野が設立した三州社は、単なる教育活動を行なう団体という性質に留まらず、九州各地に散らばって埋葬されていた、西南戦争における戦死者の遺骨を収拾し、それを鹿児島に改葬するという大きな趣旨も含まれていました。
西南戦争は九州南部のほぼ全域に渡り、激しい戦いが繰り広げられた戦であったため、戦死した者の遺骨の多くは、九州各地の広範囲に渡り、散らばって埋葬されているような状態でした。三州社はその各地に散乱した遺骨を現地を訪れて丁寧に収拾し、鹿児島の地に改葬し、戦死者の霊を弔うことに尽力したのです。
現在の鹿児島市には「南洲神社(なんしゅうじんじゃ)」という、西郷隆盛を祀った神社があり、その隣接する土地に「南洲墓地」と呼ばれる、西郷以下西南戦争で亡くなった多くの人々の遺骨を埋葬した大きな墓地があります。この墓地は、元々は廃仏毀釈で廃寺となっていた浄光明寺という寺の墓地であったのですが、河野ら三州社関係者がそれを改装して、九州各地で集めてきた西南戦争の戦死者の遺骨を改葬し、綺麗な墓所として整備したのです。
現在、我々後世の人間が南洲墓地で多くの戦死者の霊に手を合わすことが出来るのも、ひとえに河野を中心とした三州社の人々が、戦死者の遺骨を懸命に、そして丁寧に収拾し、一箇所に改葬したお陰なのです。
河野主一郎という人物は、一つの大きな運命のいたずらによって、西郷や同志達と共に最後まで一緒に行動することが出来ず、おそらく戦後は生き恥をさらして無念の思いで一杯であったのではないでしょうか……。
戦争で亡くなった人々よりも、生き残った、いや生き残らされた人々の方が、非常に辛い思いをしたことが多かったのではないかと私はそんな気がしてなりません。
河野はそんな辛い思いを背負いながらも、戦後は鹿児島の復興に力を注ぎ、そして戦死者の魂を厚く弔うため、懸命に遺骨を収拾することに奔走しました。
河野にとっては、西南戦争で荒れ果てた鹿児島の大地を一日も早く復興させ、戦死者の霊を弔うことが、西郷や山野田を始めとする戦死した人々に対しての一番の供養であると考えたからに違いありません。
また、河野はそうすることが生かされた自分達に課せられた唯一の使命だと感じていたからではないでしょうか。
後編に続く
後編へ |
![]() |
「西南戦争の十一人」に戻る |