私学校跡(鹿児島県鹿児島市)




(第5回「河野主一郎と西南戦争(後編)−河野翁十年戦役追想談−」)
 鹿児島県立図書館に『河野翁十年戦役追想談』(以下『追想談』と略す)という貴重な史料が残されています。
 この史料は、河野主一郎が西南戦争勃発から西郷助命嘆願のために城山を下山するまでの西南戦争の一部始終について、大正5(1916)年8月9日から14日にかけて講話したものを速記した貴重な記録です。
 河野の『追想談』については、鹿児島の西郷南洲顕彰会発行の『敬天愛人誌第18号』にも所載されていますが、この史料を読んでいると、当時の薩軍内部の様子がリアルに伝わってきて非常に興味深いです。
 今回はこの『追想談』の中から、興味深い記述を二つ紹介したいと思います。
 まず、最初に紹介するのは、河野の率いた五番大隊の一番小隊から、初めて戦死者が出た時の話です。
 河野はその時の様子を次のように語り遺しています。


「私が前に述へた所に兵を配して闘ひ始むるや、兵走り来たりて、兵一人戦死せりとの報知せり、依て河尻に病院在るが故、彼地に運べよと命じ、私もそこに行くに、始めての戦死者なる故、運搬法はもとより取り扱ひもわからず、只戦死者を囲みて皆呑然(恬然歟)たるのみ故に、私は「かく一処に集ると敵より撃たるる故、戸板をはずして来て四人にて持ち、河尻の病院に運べ」と命ず、依て戸板に乗せしと、刀は腰に又ドーランを下げて居るが取りはずしも難しとのことなりしかば、「それ等は切り放せ」と命じたり、始めてのことにて皆狼敗(狼狽歟)せり」
(『河野翁十年戦役追想談』(塩満郁夫)『敬天愛人誌第18号』所載)


(現代語訳by tsubu)
「私(河野のこと)が前に述べた場所へ兵隊を配置して、いよいよ戦いが始まると、部下が私の所にやって来て、「一人戦死者が出ました」と報告してきた。そのため、「川尻(現在の熊本市南方)に病院があるから、そこへ運べ!」と命じてから、私が現場へ行ってみると、この戦いで初めての戦死者であったためか、兵士達は死体の運搬法や取り扱い方が分からず、戦死者を囲んでただ呆然としているばかりであった。私は「こんな一箇所に皆が集まっていたら、敵からの集中射撃に合うぞ! 戸板を外してきて、四人で死体を担ぎ、すぐに川尻の病院に運べ!」と指示した。しかし、兵士達は死体を戸板に乗せようとしたが、刀は腰に差されたままだし、胴乱(カバンのこと)は肩に下げられたままで取り外しが困難であったので、私は「それらは切り放せ!」と命じた。戦死者が出たのが初めてのことだったので、兵士達は皆狼狽していた。」
(付記:途中で「恬然歟」という風に書いてあるが、後の文章から考えても、ここは呆然という意味が相応しいと思います)



 この河野の談話からは、西南戦争当時の非常にリアルな戦いの状況が伝わってきます。
 特に、隊内で初めての戦死者が出たことに対する兵士達の動揺が、非常に大きなものであり、初めての戦死者を前にして、皆どうして良いのか分からず、立ちすくむように呆然としていた様子が、非常にリアルに描写されているのではないでしょうか。
 現代に生きる我々は、「武士」と言う言葉を聞くと、「勇猛果敢で、死を恐れない」というイメージをついつい持ってしまいがちですが、河野の『追想談』を読んでいると、当時の兵士達も、目の前に「死」という非現実的な状況を見て、非常に驚き、そして動揺・狼狽している様子が伝わってきます。
 最も勇猛果敢と言われた薩摩隼人でさえ、戦いにおいて初めて死者を見た時の衝撃がいかに大きく凄まじいものだったのかがよく分かります。
 当時の武士達も、そして現代に生きる我々も、共に同じ人間なのですから、武士道的な精神論はさて置き、「死」というものに対する悲壮感や恐怖感は同じものだったと言えるのではないでしょうか。
 しかしながら、戦争というものは、そんな「死」に対する人間の恐怖心という感情を次第に麻痺させてしまうものです。
 文明が発達した現代になっても、世界各地で戦争が収まらず、また凶悪犯罪が増えつつあるこの状況は、「死」というものへの概念が戦争の時と同じく麻痺しているからであると言えるかもしれません。

 さて、次の話は趣を変えて、『追想談』の中にある、少し面白い話を紹介してみたいと思います。
 明治10(1877)年1月31日、鹿児島の私学校生徒が陸軍の火薬庫を襲撃したことにより、西南戦争が勃発することになるのは周知の事実ですが、この私学校生徒暴発後、当時の明治政府は、西郷に対してその経緯や事の真意を確かめるため、海軍中将の川村純義を海路鹿児島へと派遣しました。
 このことは、司馬遼太郎氏の小説『翔ぶが如く』を始め、色々な文学作品でも描かれているので、とても有名な話だと思います。
 最後の紹介する話は、この川村の鹿児島訪問の際に起こった話です。(河野の『追想談』を元に、私が全文を分かりやすく、少しアレンジして書くことにします)

 前編「河野主一郎と西南戦争−分かれた運命−」において少し触れましたが、川村の妻は西郷の母方のいとこにあたることから、川村は何とか西郷との面会を果たし、戦争を回避するべく事態の収束をはかろうと考えていました。
 川村を乗せた政府軍の軍艦「高雄丸」が鹿児島の錦江湾に姿を現すと、西郷を中心とした私学校側では、その対応策について協議しました。
 当初、西郷は自ら直接川村と会うことを望んでいたのですが、私学校の幹部の一人である篠原国幹は、それは危険であると考え、

「まず、誰(だい)か他っんもんを遣わし、川村どんに来航の目的を聞くこっが良かち思いもすが、どげんじゃろかい?」

 と、発言しました。
 この一件については、私学校幹部の間でも色々ともめることになったのですが、最終的には西郷も篠原の提案を承諾したため、河野と辺見十郎太の二人がその役目に選ばれて、川村の元に派遣されることになりました。
 大役を任された河野と辺見は、もしもの場合に備えて、短刀を懐に忍ばせ、川村の軍艦に乗船するべく、急遽二人して海岸へと向かいました。
 しかし、しばらく経つと、西郷の実弟である西郷小兵衛が二人の後を追いかけて来て、

「ちょっと待ったもんせ! 桐野さあと篠原さあが、陸軍少将の軍服を着て、川村さあに面会するっち、決まいもした!」

 と、言ったのです。
 河野と辺見は使者の大役を任され、大いに気負い立っていたのですが、私学校幹部達の命令とあっては致し方ありません。やむなく二人は一先ず私学校に引き返すことにしました。
 しかし、再び私学校に戻った河野は、桐野と篠原の二人に対し、

「おいも一緒に連れて行ってたもんせ!」

 と、頼みました。
 すると先程同行した辺見に加えて、永山弥一郎、高城七之丞、西郷小兵衛の四人も一緒に同行することになり、結局総勢七名が川村の元に向かうことになったのです。

 しかし……、ここで思わぬ緊急事態が起こりました。
 明治6(1873)年の西郷の下野に引き続き、政府の官職を辞め、郷里の鹿児島に帰っていた者や当時の私学校の生徒達は、特段仕事も無く、いつも暇を持て余していたため、当時の鹿児島は魚釣りをすることが非常に流行していました。当時の娯楽と言えば、魚釣りくらいしかなかったのでしょう。
 このように鹿児島での魚釣りの流行により、当時の私学校の生徒達は皆釣り舟を操ることが非常に巧みであったらしく、そのことがこの時になって思わぬ影響を生み出したのです。
 川村を乗せた政府の軍艦が突然湾内に現われたことにいきり立った私学校の生徒達は、各々自らの所有する釣り舟を海に浮かべて、勝手に我も我もと、銃を片手に川村の軍艦に向かって漕ぎ出して行ったのです。(当然彼らの目的は軍艦に斬り込みをかけるためです)
 大砲を備えた軍艦に対して、木製の釣り舟で向かおうとするなんて、何と薩摩隼人らしい行動でしょうか。いやそれにしても無茶苦茶な行動です。
 私が以前に書いた「薩摩的幕末雑話」の第七話「スイカ売り決死隊−薩英戦争の一場面−」の中でも紹介していますが、薩摩人はこういった破天荒なやり方が大好きなのです。ですが、そのことを笑ってはいけません。当時の人々は大真面目で釣り舟を使って軍艦に向かって行ったのですから。
 このように海岸べりでは異常な状態になっていたため、河野ら七名の使者が海岸に着いて舟を漕ぎ出した時には、川村を乗せた軍艦は、既に遠い沖へと去ってしまった後でした。

「若か二才(にせ)どん達が釣り舟を使ってまで押し寄せて来る……。こげな危険な状況では、まともな交渉は出来もはん……」

 おそらく川村はそう考え、抜錨して沖へ逃れたのです。
 このように談判の前に川村の軍艦が沖に去るという非常事態となったため、選ばれた七名の使者達は、仕方なく一度私学校本部へと戻らざるを得なくなりました。
 そして、そのことから、またも予期せぬ大きなハプニングが起こったのです。
 私学校本部までの帰路、七名の使者達が休憩していた時、一つの言い争いが起こりました。
 辺見十郎太が永山弥一郎に対し、

「永山さあなんど、要らん人が来やったで、船が出てしまったのじゃ!」

 と、暴言を吐いたのです。
 永山という人物は、明治8(1875)年に官職を辞めて鹿児島に帰った後は、私学校とは一線を引く関係を保っていました。
 永山はいわゆる「征韓論争」の影響で西郷の下野と行動を共にしたわけではなく、明治8(1875)年5月7日に政府がロシアとの間に結んだ「千島樺太交換条約」の締結に憤りを感じ、抗議の意図をもって官職を辞し、鹿児島に帰郷していたのです。
 以上のような経緯があったことから、永山は私学校を運営する幹部達とは一線を画し、距離を置く立場にいました。
 そんないつも非協力的であった永山に対し、辺見は普段から面白からぬ感情を抱いていたのでしょう。
 つまり、「普段は協力もしていなかった、あんたみたいな人間が何故か一緒に来たから、縁起が悪くなって軍艦が逃げてしまったじゃないか!」という、子供みたいな嫌味を辺見は言ったのです。
 辺見は当時28歳。
 西南戦争において、辺見は「雷撃隊」という一隊を組織して、政府軍を相手に奮闘し、薩軍の中でも最も勇猛果敢で鳴らした血気盛んな若者です。日頃の不満により、つい口が滑ってしまったのでしょう。
 しかし、そんな辺見に暴言を吐かれた永山は、烈火の如く怒りました。

「おはんな、そいはどげん意味じゃ!!!」

 永山は当時39歳。
 戊辰戦争で活躍し、陸軍中佐まで登りつめた彼としては、辺見のような若造にこのように言われて怒らないはずがありません。
 永山は持っていた刀に手をかけ、辺見を睨みつけました。永山が刀に手をかけたので、辺見も忍ばせていた短刀を抜こうとし、まさに事態は一触即発の様相を呈したのです。
 しかし、周りの人間が二人を何とかなだめ、二人は斬りあうことはなく、何とかその場は収まったのです。

 後日談となりますが、その後、永山と辺見は、西南戦争では薩軍内の同じ三番大隊のそれぞれ大隊長と一番小隊長に任命されています。
 こういった小さな「いざござ」があったとしても、いざという時には全てのわだかまりを捨て、お互いに協力し合う。いかにも、からっとした爽快な南国気質の薩摩人らしいと思います。私はそんな薩摩人気質が大好きで仕方がありません。




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