(西郷隆盛の生涯)西郷の上京から西郷内閣まで
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明治後、西郷が移り住んだ武屋敷跡(鹿児島市) |
【西郷の上京】
西郷が鹿児島に帰国していて不在の明治新政府には、次々と困難な問題が生じていました。
明治二(一八六九)年六月、王政復古や戊辰戦争に功績のあった人々に対し、賞典禄(しょうてんろく)や位階(いかい)を与える形で論功行賞が行われましたが、結果それらの恩賞は薩摩藩と長州藩出身者に厚かったため、薩長両藩に対する非難が生じ、また、その薩長両藩の間でも、新政府の人事について派閥争いなどが起こるなど、新政府の体制は決して盤石なものではありませんでした。
さらに新政府の財政的基盤は脆弱なものであったことから、その負担は民衆に被せられることとなり、全国各地では重税に苦しむ農民たちが蜂起し、それが飛び火する形で一揆が続発し、また、新政府に不満を持った者たちが全国各地で反乱や騒動を起こし、政府の転覆を企てる者など出るなど、新政府は発足直後から問題山積の状態にありました。
当時、新政府の中心に居た人物は、公家の三条実美、岩倉具視、長州藩の木戸孝允、そして薩摩藩の大久保利通の四人でしたが、この現状を打開するためには一大改革が必要であると感じていました。そして、そんな彼らが目を付けたのが、鹿児島に居た西郷です。彼らは西郷の徳望と輿望をもってして、大きな政府改革を行おうと考えたのです。
明治三(一八七〇)年十月、ヨーロッパ視察から帰国したばかりの弟の従道が西郷の元を訪ねてきました。従道は大久保の依頼を受け、西郷の上京を促すために鹿児島に帰郷したのです。
従道は西郷に対して、新政府の実情を説明し、大久保ら政府首脳の人々が西郷の上京を待ち望んでいることを告げました。西郷自身、鹿児島には身を置いていましたが、常に新政府のことは気にかけており、混迷を極めつつある政情を憂慮していましたので、実際に従道から新政府の腐敗した状況を聞かされ、大いに嘆き悲しみ、そして憤りました。
そして、西郷はいよいよ東京に行くことを決意したのです。
西郷が新政府を根本的に立て直さなければならないという強い思いを抱き、上京することを決意したとは言え、当時の鹿児島の状況は、西郷の速やかな上京を許しませんでした。
鹿児島には明治維新の立役者の一人、薩摩藩主・島津忠義の実父・久光が居ましたが、久光は新政府の施策に対して、ことごとく不満を漏らし、反対の意見を表明していたため、西郷は容易に鹿児島を出ることが許されない状況にありました。明治新政府が行っている急進的な改革を快く思っていない久光が、西郷を新政府に協力させることに難色を示すものと思われていたからです。
このような事情から、大久保は西郷と久光に対して、上京を命じる勅使を送ることにしました。勅命であれば、久光も許諾せざるを得ないと考えたからです。
こうして明治三(一八七〇)年十二月十八日、勅使として岩倉具視と大久保が鹿児島を訪れ、西郷と久光に対して上京の勅命を伝え、西郷の上京が正式に決定したのです。
【廃藩置県】
西郷ら四人が廃藩置県について協議した開成館跡(高知市)
上京した西郷がまず手を付けたのは兵制改革です。明治維新の原動力となった、薩摩・長州・土佐の三藩から御親兵を出させ、政府が大きな改革を実行するための後ろ盾を作ろうとしました。
そして、当時重要な懸案事項の一つであった「廃藩置県」についても西郷は取り組まなければなりませんでした。
明治二(一八六九)年六月には、全国各地の諸大名から土地と人民を朝廷に返還させる「版籍奉還」が既に実施されていましたが、実際に藩はそのままの形で存続しており、藩主も知藩事と名を変えただけで、領内の運営は全てこれまで通り大名が執り行っていました。
しかし、廃藩置県は、実質的に諸大名から土地と人民を新政府に取り上げる政策です。西郷も大久保も、この廃藩置県を明治維新の総仕上げという風に捉えており、廃藩を実現しないことには、真の改革は成就しないと考えていました。
明治四(一八七一)年七月九日、東京の木戸孝允の邸宅において、西郷ら新政府の首脳が集まり、廃藩置県についての秘密会議が催されました。この日の大久保の日記によると、当日は暴風雨の荒れた天気であったようです。
木戸邸の会議は紛糾しました。廃藩置県の手順や方法を巡り、大久保と木戸の間で議論が起こりました。
その激論をじっと黙って聞いていた西郷は、ついに口を開きました。
「貴殿らの間で廃藩実施についての事務的な手順がついているのなら、その後のことは、おいが引き受けもす。もし、暴動など起これば、おいが全て鎮圧しもす。貴殿らはご心配なくやって下され」
西郷の重く、そして力強い一言でした。
この西郷の一言で議論は決し、最終的に廃藩置県を実施することが決定されたのです。
こうして明治四(一八七一)年七月十四日、新政府から正式に「廃藩置県」が発布されたのです。
全国各地の諸大名は、突然の大きな改革に驚きました。江戸幕府が開かれて以来、保有していた地位と財産を一遍の詔勅により全て奪い去られたのです。特に西郷と大久保の主君にあたる島津久光は、廃藩置県の知らせを受けて烈火の如く怒り、終夜花火を打ち上げさせ、その鬱憤を晴らしたという逸話が残されているほどです。
しかしながら、西郷が創設に尽力した御親兵が睨みを効かせていたため、特に大きな騒動や混乱が起こることもなく、廃藩置県は平和裏に達成されたのです。
【西郷内閣】
明治四(一八七一)年十一月、右大臣の岩倉具視を特命全権大使とし、副使に木戸孝允、大久保利通、以下同行の留学生を合わせて百名を超える大使節団が横浜港を出港しました。
岩倉使節団の主な目的は、江戸幕府が締結した諸外国との間の修好通商条約の条約改正の予備交渉とヨーロッパやアメリカなどの西洋文明諸国の視察でしたが、廃藩置県が実施されてわずか四ヶ月程度であったことから、まだ国内の政情は不安定であり、岩倉使節団の派遣は時期尚早という意見も多数ありました。
こんな状況を一手に任されたのが、日本で留守を預かることになった西郷です。西郷は親友の桂久武に宛てた手紙の中で、「難渋の留守番にて、苦心此の事に御座候」と書いており、課題山積の中、重要な役目を担うこととなりました。
岩倉使節団が出発すると、西郷を中心とした留守政府は、次々と新しい制度を創設し、改革案を打ち出していきました。
西郷の留守内閣が行った主要な政策は、次のとおりです。
・警視庁の前身となる東京府邏卒(ポリス)の採用
・各県に府県裁判所を設置
・田畑永代売買の解禁
・陸軍、海軍省の設置
・東京女学校、東京師範学校の設立
・学制の発布
・人身売買禁止令の発布
・散髪廃刀の自由、切り捨て・仇討ちの禁止
・キリスト教の解禁
・国立銀行条例の制定
・太陽暦の採用
・徴兵令の布告
・華士族と平民の結婚許可
・地租改正の布告
また、この他にも西郷は、これまで女官中心で執り行われていた宮中を刷新し、新たに士族出身の気骨ある人物を天皇の側近に置くなど、宮中改革にも取り組みました。
もちろんこれらの政策全てが西郷の企画・立案によるものでないことは言うまでもありませんが、明治初期の課題であった主要な諸改革が、西郷が政府の首班であった留守政府の手によって成し遂げられたことは特筆すべきことだと思います。
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