(西郷隆盛の生涯)彰義隊討伐から西郷の帰国まで


戊辰戦争の激戦地・会津鶴ヶ城(福島県会津若松市)


【彰義隊討伐】
 西郷と勝の会談により、江戸の無血開城は成し遂げられ、前将軍・徳川慶喜は郷里の水戸藩で謹慎することになりました。
しかし、そのことに不満を持つ旧幕臣を中心に結成された彰義隊は、勝の統制に服さず、江戸の各地において、新政府軍と衝突を繰り返しました。西郷はその事態を憂慮し、勝や山岡を通じて、彰義隊に軽挙な行動を慎むよう、諭告や説得を続けましたが、彰義隊は一向に耳を傾けようとはしませんでした。
 このような状況が続く中、西郷のやり方を生ぬるいものとして非難する者も出てきたのです。
 慶応四(一八六八)年閏四月二十七日、京都の朝廷から軍務局判事として派遣されてきた長州藩士の大村益次郎が江戸に着任すると、大村は彰義隊の武力討伐を唱え、遂にそれが決定されました。
 同年五月十五日、上野に結集した彰義隊約三千人に対して新政府軍の総攻撃が開始されました。全軍の指揮を執ったのは大村で、西郷は最も激戦地となった黒門口の攻撃を薩摩兵の隊長として担当しました。新政府軍と彰義隊との戦いは、大村の作戦が功を奏し、新政府軍の完全勝利に終わりました。
 このように江戸において彰義隊が討伐されたとは言え、奥州や北越地方では、新政府に反抗の意を唱える会津藩を始めとする奥羽越諸藩の勢いが盛んであったことから、西郷は後事を大村に任せ、一路京都に引き返しました。目的は兵力の増援を藩主・忠義に願い出るためです。
 新政府軍とは言え、所詮は時の勢いになびいた諸藩の寄せ集めに過ぎません。戦況が変われば、いつ何時新政府に対し反旗を翻す藩が出ないとも限らない状況であったことから、西郷は一番信頼のおける薩摩藩兵を増強することを考えたのです。
 西郷は藩主・忠義と共に鹿児島へ向けて帰国の途につくと、急ぎ出兵準備を整え、薩摩藩兵を率いて海路、新潟へと向かいました。北越方面では越後長岡藩が家老の河井継之助の巧妙な指揮により、新政府軍に対して果敢に戦い、戦況は一進一退であったからです。
 ただ、西郷が新潟の柏崎港に到着した頃には、長岡城は新政府軍の手により陥落していました。


【西郷の帰国】
 新潟に入った西郷は、その後、米沢、会津を経て、出羽庄内藩の城下町である鶴岡に入りました。
 庄内藩といえば、鳥羽・伏見の戦いのきっかけともなった、江戸薩摩藩邸の焼き討ちを行った主力藩であり、江戸無血開城後も執拗果敢に新政府軍に対して戦いを挑んでいました。庄内藩兵は統率が取れ、かつ強かったため、出羽方面の戦局はこう着状態に陥り、新政府軍はややもすれば押し返されるような状況が続いていました。
 ただ、いかに庄内藩一藩が頑張ろうとも多勢に無勢、周囲の奥羽諸藩が次々と新政府軍に降伏する中、次第に庄内藩は孤立していきました。
 庄内藩主・酒井忠篤(さかいただずみ)は、重臣たちと協議した結果、新政府軍に対し降伏恭順することを決定しました。忠篤にとって苦渋の選択ではありましたが、もはや他藩からの援軍を望めない以上、庄内藩としては降伏するより他に手立てはなかったのです。
 庄内藩の人々は、新政府に対して恭順する際、過酷な降伏条件を突き付けられることを覚悟していました。これまでの経緯から考えると、庄内藩は薩摩藩や長州藩から恨みを買っているであろうと考えられ、重い処分が下ると予想できたからです。
 しかし、新政府軍の参謀で薩摩藩士の黒田了介(後の清隆)は、庄内藩に対して、敗者を慮った非常に寛大な処置を取りました。実はこれら黒田の処置は、その陰に居た西郷が黒田に対し、指示して行なわせていたことでした。黒田は西郷のことを尊敬し、西郷の忠実な弟子を自任しているような人物だったので、西郷の指示に従い、庄内藩に対して寛大な措置をとったのです。
 後日、このことを知った忠篤以下、庄内藩士たちは、西郷の人徳に感激し、西郷をとても慕うようになりました。この庄内処分をきっかけに、西郷と庄内藩士との交流はその後長く続いていくことになります。『南洲翁遺訓(なんしゅうおういくん)』という、西郷が語った講話や教訓、そして国家観などがまとめられた一冊の書籍が現代に遺されていますが、これは西郷に心服していた旧庄内藩士たちが編纂し、後に刊行したものなのです。
 庄内藩の処分を済ませ、明治元(一八六八)年十一月に鹿児島に帰国した西郷は、新政府への出仕を辞退し、日当山温泉(現在の鹿児島県霧島市)に湯治に出かけました。西郷が奄美大島の得藤長に宛てた手紙には、「隠居のつもりにて」という言葉があり、西郷が本気で隠居(引退)することを考えていたことが推察されます。
 ただ、当時の鹿児島は西郷の隠居を許容できるような状態にありませんでした。戊辰戦争が終わり、鹿児島に帰還した薩摩藩の凱旋兵たちは、門閥の打破と新たな人材の登用を声高に訴えました。凱旋兵の諸隊長は、自分たちが大功を立てたにも関わらず、藩政は依然として門閥武士(上級武士)の手に握られていることを憤り、藩政府の人事の刷新を求めたのです。
 これら凱旋兵の威圧的な要求に対し、久光及び藩主・忠義、薩摩藩政府の要路にあった者たちは対応に苦慮した結果、凱旋兵の要求を飲むことになりましたが、藩政府は藩政改革において西郷の力を借りるため、忠義自らがわざわざ西郷の元に出向き、西郷の藩政への復帰を依頼しました。
 このような経緯があったことから、西郷は隠居することが出来なくなり、薩摩藩の参政に任命され、その後は薩摩藩の藩政改革に力を尽くすことになるのです。






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