中野竹子石像(福島県会津若松市)




(第4回「会津に散った白い花」)
 福島県会津若松市の中心部から少し離れた神指町(こうざしまち)を流れる湯川のほとりに、薙刀を手に持った一人の女性の白い石像がひっそりと建っています。かって、この湯川にかかる柳橋の付近は、戊辰戦争で激しい戦いが行なわれた場所でした。
 会津城下で激戦が行われる中、猛々しい武士達に交じり、ある女性達の集団が薙刀を手に持ち、激しい戦いを繰り広げました。

 「会津婦女薙刀隊」、通称「娘子隊(じょうしたい)」と言われる一隊です。

 その娘子隊の中に、中野竹子(なかのたけこ)という一人の女性がいました。

 弘化3(1846)年3月、中野竹子は会津藩士・中野平内の長女として江戸和田倉の会津藩邸内で生まれました。
 竹子は幼少の頃より、藩主・松平容保の義姉である照姫に武道の指南をしていた赤岡大助に薙刀を、藩内の書の大家であった佐藤得所に書道を習い、薙刀の腕前は道場の師範代を勤めるほどで、書道もまた、備中庭瀬藩主・板倉侯夫人の祐筆を勤めるまでに成長しました。
 また、竹子はその他にも和歌をたしなむなど、幼少の頃から文武両道に秀でた女性を目指し、自身の才能を磨くことに明け暮れる日々を送っていたのですが、そんな彼女の平穏な日々も長く続くことはありませんでした。

 慶応4(1868)年1月、「鳥羽・伏見の戦い」において、幕府軍は薩長連合軍に敗れたため、幕府軍の一員として参戦していた会津藩も京を去り、江戸に退却せざるを得なくなりました。
 前将軍・徳川慶喜は江戸で謹慎生活に入ることとなったため、藩主・容保以下の会津藩士達は、故郷会津へと引き上げることになりました。
 その頃、竹子は薙刀を習っていた赤岡大助の養女となり、会津城下郊外の坂下(ばんげ)にあった赤岡家の道場に寄宿し、師範代として武道に鍛錬する生活を続けていました。
 竹子の才能を大きく買っていた養父・赤岡大助は、兄の息子を養子にして、竹子と縁組させようと考えましたが、当人の竹子自身が、

「藩が危急存亡の秋を迎えているというのに、縁組どころではありません!」

 と、怒りを露にし、結局赤岡家と離縁して、実家へと戻ることとなったのです。
 その間、会津藩を取り巻く空気は、さらに風雲急を告げていました。
 会津藩は京都守護職を勤めていた関係から、新政府の討伐の対象に挙げられることになり、新政府は会津に向けて多数の兵を発してきたのです。

 慶応4(1868)年8月23日。会津城下に大きな鐘の音が鳴り響きました。

「間もなく西軍が攻めてくるぞ〜」

 会津藩の要衝の地であった十六橋を突破した新政府軍は、続々と会津城下になだれ込んで来たのです。城下は大混乱に陥りました。
 町々の鐘が鳴り響く中、中野家では竹子とその母の孝子、妹の優子の三人が、それぞれ長い黒髪を切り落とし、定紋付きの袷に袴をはき、白布の鉢巻をしめ、たすきを十字にかけて、まさに家を出ようとしていました。

「ここで自害して果てるより、照姫様をお守りするために戦いましょう!」

 竹子が発したこの言葉に、中野家の三人の女性達は各々薙刀を手に持って武装し、照姫のいる鶴ヶ城へと向かったのです。
 しかし、城に向かう途中で「照姫様は坂下へ避難された」という話を一行は耳にしました。そのため、竹子達は途中数名の女性達と合流し、一路坂下へと向かったのですが、不運にも照姫は坂下にはおらず、既に鶴ヶ城内に入城していることを知りました。
 照姫の護衛を目的としていた三人は、そのことを知り愕然となったのですが、

「こうなれば、藩士達に混じって戦い、城内に入城させて下さい」

 竹子は越後から退却してきた家老の萱野権兵衛にそう頼み込みました。
 そんな竹子の熱意に打たれた萱野は、藩兵の一隊に加わることを許可し、竹子達は来たるべき戦いの日に備えていたのです。

 そして、迎えた運命の8月25日。
 鶴ヶ城に入城するために兵を城下に向けて進めた会津藩兵は、湯川にかかる柳橋のたもとで、城下から攻め進んできた長州と大垣藩の兵と激突しました。
 竹子は幼少の頃から鍛え上げた薙刀の腕を存分に発揮し、男達に混じって奮戦を繰り広げましたが、その時、一発の銃弾が竹子の胸を貫いたのです。
 竹子はその場に崩れ去るように倒れました。
 中野竹子、22歳の若すぎる死でした……。

 今年(2002年)の7月末、私は会津へと出かけ、竹子が奮戦した柳橋へと向かいました。
 現在の柳橋付近は非常にのどかな田舎町で、134年前にここで激しい戦いが繰り広げられたとは、想像すらすることが出来ません。
 幕末当時、柳橋は付近に藩の刑場があり、家族がこの橋のたもとにあった井戸水で別れの水杯をかわしたことから、柳橋は涙橋とも呼ばれていました。この涙橋から少し歩いた湯川のほとりに、薙刀を持った一人の女性の白い石像がひっそりと建っています。
 この石像の女性が涙橋で奮戦した中野竹子その人です。
 私は竹子の石像の前に立つと、自然と一つの句を思い浮かべました。


「もののふの 猛き心に くらぶれば 数にも入らぬ 我が身ながらも」


 竹子が銃弾を受け、倒れた際に握られていた薙刀に結ばれていた辞世の句です。
 涙橋からの帰路、橋のたもとにある民家の庭先に、珍しい白いアサガオの花が咲いているのを私は見つけました。

 白いアサガオの花と竹子の白い石像。

 私にはその二つが重なって見え、何とも言えない感慨が心に沸いてきたことを今でも忘れることが出来ません。




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