天璋院篤姫は島津斉彬の実子?
-「篤姫斉彬実子説」の検証@-

(写真)今和泉島津家屋敷跡
今和泉島津家屋敷跡(鹿児島県指宿市)


(序章 −はじめに−)
 現在(2003年6月現在)、フジテレビ系列で『大奥』というTVドラマが放映されていますが、このドラマの主人公となっているのが、薩摩藩島津家から第13代将軍・徳川家定の元へ輿入れした「天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)」です。
 天璋院篤姫のことについては、作家・宮尾登美子氏の小説『天璋院篤姫』で、その名を知られた方も多いのではないでしょうか。
 今回はこの天璋院篤姫について、「天璋院篤姫と将軍継嗣問題」、「天璋院篤姫の出自」の二つの序論を書いた上で、本題のテーマ「天璋院篤姫斉彬実子説」について、詳しく検証していきたいと思います。


(天璋院篤姫と将軍継嗣問題について)
 天璋院篤姫と言えば、島津家28代当主の薩摩藩主・島津斉彬が、「将軍継嗣問題(13代将軍家定の跡目相続を巡る問題)」に関して、自らの推す一橋慶喜(後の徳川慶喜)を将軍の跡継ぎにするために、将軍家定との縁組みを発案し、島津家の一門である今和泉領主・島津安芸忠剛(しまづあきただたけ)の娘であった篤姫を自らの養女とした後、近衛家の養女とし、最終的に将軍家定の正室として輿入れさせたと伝えられています。
 つまり、斉彬は「政略結婚」のために、篤姫と家定の縁組みを発案したと通説では言われているのですが、これについては、幕末薩摩藩史研究の第一人者であられる芳即正氏が、その著書や論文の中で強く疑問を投げかけられ、そして否定されています。

 芳氏の著書『島津斉彬』(吉川弘文館)によると、将軍家から島津家に対して、家定の正室を迎えたいとの要望があったのは、嘉永3(1850)年6月、家定の二番目の妻である公家の一条家から輿入れした秀子(澄心院)が亡くなった時期にまでさかのぼります。
 余り知られてはいませんが、家定は篤姫を妻にする以前、実は二人の女性と既に結婚していました。一人目は公家の鷹司家から輿入れした任子(天親院)、二人目は先程書いた一条家の秀子です。
 家定は最終的には篤姫とも結婚することになりますから、彼は通算で三人もの正室を持ったことになります。三人もの正室を持った将軍は、15代にわたる歴代の徳川将軍の中でも、家定ただ一人だけです。

 しかし、家定は円満な結婚生活には恵まれませんでした。
 篤姫が輿入れする以前に結婚した公家出身の二人の女性は、共に早くに亡くなってしまったのです。このように、公家から輿入れした二人の女性が早逝したことで、将軍家は公家出身の女性を将軍家定の正室にすることに関して、一種の拒否反応のようなものが出来たと考えられます。
 非常に異例なことではありながら、将軍家が陪臣である武家の島津家に対して、縁談の申し入れを行なったのには、このような事情と理由があったのです。
 また、なぜ将軍家は武家の中でも島津家をその縁談相手として選んだのでしょうか。それには次のような理由があります。
 先代11代将軍・徳川家斉の正室であった茂姫(後の廣大院)は、25代薩摩藩主・島津重豪(しげひで。斉彬の曽祖父)の二女であり、当時この茂姫の血筋を引く者達が、大名家の藩主や正室などに数多く存在し、その血筋が非常に繁栄していたからです。
 芳氏の著書『島津斉彬』によると、茂姫の血筋を引いた者で、当時藩主になっていた者が五人、また、藩主の正室になっていた女性が当時十人も居り、いずれの人々も存命で、かつ健康的な人物でした。
 つまり、徳川将軍家は、家定が二度も妻と死に別れるような異例の事態となったため、虚弱体質な公家出身の娘ではなく、健康面で優れた血筋を持つ武家の娘を縁談の相手として考え、当時血筋が非常に繁栄していた廣大院茂姫の出身である島津家に注目したというわけです。

 このような理由と経緯があり、将軍家から島津家に縁談話が持ち込まれたのですが、嘉永3(1850)年6月当時と言うと、家定の父である第12代将軍・徳川家慶はまだ存命で、家定はまだ将軍世子であった時代です。また、島津斉彬もまだ藩主にはなっていません。斉彬が藩主に就任するのは、翌嘉永4(1851)年2月2日になってからのことです。
 つまり、将軍家から島津家へ縁談が持ち込まれた時期には、家定はまだ将軍では無かったため、当然「将軍継嗣問題」も生じているわけもなく、また、「将軍継嗣問題」を機に政略結婚を考えついたとされている斉彬自身も、未だ藩主には就任していないような状況であったのです。
 このような状況から考え合わせると、通説に言われるように、斉彬が将軍継嗣問題のために、篤姫を将軍家に輿入れさせることを発案したのではないと言えましょう。
 つまり、斉彬は、将軍継嗣問題が生じてから、篤姫を家定の正室に送り込もうと考えたのではなく、元々将軍家から島津家に縁談話があったことを前提に、後に将軍継嗣問題が問題化してくると、その縁談話と継嗣問題を絡めて考えるようになり、将軍家との縁組みを逆に利用しようとしたということが、本当のところのようです。




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(天璋院篤姫の出自について)


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