天璋院篤姫は島津斉彬の実子?
-「篤姫斉彬実子説」の検証A-


(天璋院篤姫の出自について)
 将軍継嗣問題の話はここで一先ず終わりにして、ここからはその家定に輿入れした天璋院篤姫自身について書いていきたいと思います。
 冒頭にも書きましたが、篤姫は、小説類や一般書籍に書かれている通説によると、島津家の一門である今和泉領主・島津安芸忠剛の娘であったのを、島津斉彬が養女として迎え、そして後に近衛家の養女にしてから将軍家定に縁付けた、という風になっています。

 しかし、この篤姫が「実は斉彬の実子であった」という説があるのをご存知でしょうか?
 この「篤姫斉彬実子説」は昔からあったようですが、最近それを著作の中で書いておられるのは、鹿児島の郷土史家で、西郷隆盛研究家としても有名な鮫島志芽太(さめじましめた)氏です。
 鮫島氏はその著書『国にも金にも嵌らず−西郷隆盛新伝−』の中で、「篤姫斉彬実子説」をお書きになられているのですが、この鮫島氏の説の紹介と篤姫が本当は誰の子供であったのか? の検証を行なう前に、まずは篤姫自身の出自の概略から始めたいと思います。

 篤姫の実父である島津忠剛は、斉彬の父である島津斉興(しまづなりおき)の弟、つまり斉彬の祖父の薩摩藩第26代藩主・島津斉宣(しまづなりのぶ)の子供なので、斉彬にとっては叔父にあたる人物です。
 島津忠剛の名は、薩摩藩関係の本でも篤姫絡みしか登場しない人物なので、ここで彼の出自の概略だけを付記しておきます。
 『鹿児島県史料 旧記雑録追録七』という史料集に収められている「島津斉宣子女系譜抄」には、次のように書かれています。


忠剛
初久彰 啓之助 安藝
文化三年丙寅二月八日生。母同籌姫(実母荒田八右衛門常秋女)
為島津安藝忠皎養子、
安政元年甲寅二月二十七日卒、法名賢阿良雄
(『鹿児島県史料 旧記雑録追録七』より抜粋)



 この「系譜抄」によると、忠剛が亡くなったのは安政元(1854)年2月27日ということなので、篤姫と家定が婚礼の式を挙げた安政3(1856)年12月18日には、忠剛は既にこの世にいなかったことになります。
 次に、今度はその娘である篤姫についてですが、『鹿児島県史料 旧記雑録追録八』に収められている「篤姫斉彬女系譜抄」には、彼女の出自について、次のように書き記されています。


篤姫 篤君 篤姫君 天璋院 従三位
大樹家定公御臺所
天保六年乙未十二月十九日生、母徳川宰相齊敦卿女
篤姫實島津安芸忠剛女而、母島津助之丞久丙女也、斉彬為己子、
以伊集院中二兼珍女為實母、然告於 大家以徳川氏為生母者奉台命也
安政三年丙辰七月七日為近衛忠煕公養養女、賜諱敬子、称篤君、
十一月従渋谷邸入本丸、
明治十六年十一月二十日逝去、法名天璋院殿敬順貞静大姉
(『鹿児島県史料 旧記雑録追録八』より抜粋)


(現代語訳by tsubu)
篤姫 篤君 篤姫君 天璋院 従三位
将軍家定公御台所
天保6(1835)年12月19日生まれ、母は徳川宰相齊敦卿の娘。
篤姫は、実は島津安芸忠剛の娘にて、母は島津助之丞久丙の娘である。
斉彬公が自らの養女としたことによって、実母が伊集院兼珍の娘となった。
しかるに、徳川氏が生母となったのは台命(藩命)によるものである。
安政3(1856)年7月7日、近衛忠煕公の養女となり、「敬子(すみこ)」という諱を賜り、篤君と称し、十一月、渋谷の薩摩藩邸を出て江戸城本丸に入った。
明治16(1883)年11月20日逝去。法名は「天璋院殿敬順貞静大姉」。



 この「系譜抄」の最初の部分には、「将軍家定公の御台所である篤姫は、天保6(1835)年12月19日に生まれ、母は徳川宰相齊敦卿の娘である」と書かれています。徳川宰相齊敦卿の娘と言うのは、斉彬の正室であった英姫(ふさひめ。後に恒姫と改名)のことで、御三卿の一つである一橋家から島津家に輿入れした女性です。その記録上、その英姫が篤姫の母とされているのは、後に篤姫が斉彬の養女となったからです。
 次にその補足として書かれてあるのが、原文中にある「篤姫實島津安芸忠剛女而、母島津助之丞久丙女也〜」から始まる二行分の記述です。ここには、現代語訳でも書いたとおり、「篤姫は、実は斉彬の実子ではなくて、斉彬の叔父である島津安芸忠剛の娘として生まれ、斉彬が後に養女とした」ということが書かれています。

 また、原文中には「以伊集院中二兼珍女為實母(伊集院中二兼珍の娘をもって實母となす)」と書かれています。この伊集院中二兼珍という人物は、斉彬が側室の中で一番愛した女性と伝えられる側室の「寿満(すま)の方」の養父です。寿満の方と言えば、平成2年に放映されたNHK大河ドラマ『翔ぶが如く』では、元キャンディーズの田中好子さんが好演されていたことで、記憶に残っておられる方も多いのではないでしょうか。
 この側室・寿満の方は、斉彬の寵愛を一身に浴びた女性で、斉彬の子供を通算五人も産み、島津久光の子供で、後の29代薩摩藩主となる島津忠義の夫人・てる姫は、この寿満の方の実娘にあたります。
<注>てる姫の「てる」は漢字変換出来ませんでしたので、かな標記にします。
 この辺りの人物関係は非常に複雑で、すぐには理解出来ないと思いますので、少しそれをまとめた「登場人物関係系図」をご覧になって下さい。

天璋院篤姫関係系図

 原文中に篤姫を「以伊集院中二兼珍女為實母(伊集院中二兼珍の娘をもって實母となす)」となっているのは、斉彬は幕府などへの表向き、つまり対外的には、篤姫を「側室の寿満の方から生まれた娘で、それを正室英姫の養女とした」としていたので、記録上はこのような形で残っているというわけです。このことは、後に書く「篤姫斉彬実子説」とも深く関連してきますから、頭の片隅に留めておいて頂ければと思います。
 また、この「系譜抄」には書かれていませんが、篤姫の最初の名前は「一子(かつこ)」と言いました。ドラマや小説などでは、篤姫となる前に「敬子(すみこ)」という名前が旧名のように使われている場合が多いのですがこれは間違いです。
 先程抜粋した『鹿児島県史料 旧記雑録追録八』の「篤姫斉彬女系譜抄」の中に、

「安政三年丙辰七月七日為近衛忠煕公養養女、賜諱敬子、称篤君」

 と書かれているように、「敬子」という名は、篤姫が近衛家の養女となってから付けられた名前なのです。

 さて、家定の正室を島津家から迎えるという要望は、最初は将軍家からの発案であったという芳氏の論証を前稿で書きましたが、当初島津家には将軍の正室候補となるような女性がおらず、今和泉家出身の一子がその候補と決まったのは、芳氏の著書『島津斉彬』によると、嘉永4(1851)年中のことであったそうです。
 斉彬は将軍御台所候補を一子と決めると、嘉永6(1853)年3月1日、一子を実子とし、その後、名前を「篤姫(あつひめ)」と改名させました。
 いわゆる「天璋院篤姫」の「篤姫」とは、この時からの名前なのです。
 ただ、この篤姫が正式に家定の正室となるまでには、非常に長い年月がかかりました。家定と篤姫の婚儀が行なわれたのは、安政3(1856)年12月18日のことで(篤姫が江戸城内に入ったのは、同年11月11日)、つまり三年以上もの月日が流れた後、ようやく二人の婚儀が成り立ったことになります。

 それでは、なぜそれほど篤姫と家定の婚儀が遅れたのかと言うと、嘉永6(1853)年と言えば、6月には浦賀にペリーが来航し、日本国中が「開国するか、それとも鎖国を続けるか」の問題で大騒ぎとなった年です。この年は、幕府は元より、薩摩藩もその対策に追われる慌ただしい時期であったので、両者とも縁組みどころの騒ぎではなかったことが、篤姫と家定の婚儀が遅れる大きな原因であったと思います。
 また、安政2(1855)年10月2日に江戸を襲った「安政の大地震」も、篤姫の輿入れが遅れた原因の一つであったと言えましょう。

 その篤姫が、実際に家定の正室として決まり、幕府からようやくその内示が下ったのは、安政3(1855)年2月に入ってからのことです。
 前稿「篤姫と将軍継嗣問題との関係」のところでも書きましたが、この当時から将軍継嗣問題が表面化しようとしており、斉彬は以前から要望されていた将軍家との縁組みを、この継嗣問題と絡めて考えるようになってきます。
 つまり、ここで初めて当初の縁組みの目的とは違う性質の政治的な要素が、この篤姫の縁組みに組み込まれてきたと言えましょう。
 篤姫は「篤姫斉彬女系譜抄」に書かれているように、安政3(1855)年7月7日の七夕の日、公家の近衛忠煕の養女となり、篤君と称し、名を敬子と改めました。将軍家に輿入れする前に、篤姫を近衛家の養女にしたのは、島津家と将軍家との格式の違いを考えてのことです。
 そして最終的に、安政3(1856)年12月18日、篤姫と家定との婚儀が成立することになりますが、その家定自身は、安政5(1858)年7月6日にこの世を去ることになります。
 このように、家定と篤姫の結婚生活は約一年半の短いものとなったのです。

 さて、ここまで篤姫自身のことについてその概略を書いてきましたが、いよいよこれから本題の「篤姫斉彬実子説」の検証に入っていきたいと思います。




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(-「篤姫斉彬実子説」の検証- 問題提起編)



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(天璋院篤姫と将軍継嗣問題について)



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