「世良修蔵暗殺事件の周辺」
-奥羽鎮撫総督府の結成から世良暗殺まで-


(画像)世良修蔵屋敷跡
世良修蔵屋敷跡(山口県柳井市)



(1)世良修蔵と仙台藩のこと
 慶応4(1868)年閏4月20日の未明、福島の妓楼「金沢屋」において、東北全土を揺るがす大事件が起こりました。

「世良修蔵暗殺事件」です。

 奥羽鎮撫総督府下参謀として東北の地を訪れた世良は、会津討伐のために仙台藩や米沢藩と折衝を繰り返していたのですが、彼の傲慢な態度と奥羽諸藩を侮蔑するような方針に対し、それを憤った仙台藩士らが世良を暗殺したのです。
 この暗殺事件により、奥羽諸藩は「奥羽列藩同盟」という攻守同盟を結ぶ結果となり、その後、東北の地は戦乱状態へと入っていくことになります。

 このように、世良修蔵の暗殺は戊辰戦争が勃発する大きなきっかけとなったことから、現代においても、東北の戊辰戦争を語る際には、世良には必ず「悪人」というイメージが先行し、彼の実像やその生涯については、余り詳しく語られることがありません。
 まず、本題に入る前に、世良自身の人となりの概略について、簡単に書いていきたいと思います。


 世良修蔵は、天保6(1835)年7月4日、周防国大島郡椋野村に生まれています。
 世良は、その生涯の内でいくつもの改姓を行なっています。彼の最初の姓は「中司」と言い、その後、重富、大野、木谷と次々に名を変え、最終的に慶応2(1866)年に「世良」という苗字を名乗っています。
 世良の実父である中司八郎右衛門徳熹は、後に椋野村の庄屋になっているので、彼の実家は生活的には比較的に恵まれた家であったと言って良いでしょう。
 また、世良が最後に名乗った「世良」という苗字は、山口県柳井市立図書館長を務められて、世良の伝記である『世良修蔵』を著わした谷林博氏によると、世良の主筋であった長州藩家老の浦靭負(うらゆきえ)が、断絶していた家臣筋の世良家を再興させるために、彼に改姓させたということです。

 椋野村に生まれた少年時代の世良が、どのように育ったのかについては、多くの話は残っていないのですが、彼が19歳となった安政元(1854)年には、私塾「清狂草堂」を主催していた周防の海防僧として有名な月性の元において学問を学んでいます。
 また、世良は安政4(1857)年の春には江戸に遊学し、日向飫肥の出身で昌平黌にも学んだ秀才、安井息軒が主催していた「三計塾」でも学び、そしてその塾頭を務めるほどの学問を身に付けています。
 よく世良は「学問が無かった成り上がり者」的な見方をされる場合が多いのですが、それは事実とは少し反していて、これまで書いてきたように、その青年時代にはしっかりとした学問を身に付けているのです。
 これらから考えると、幕末当時の世良は、一般的にイメージされている武人という一面よりも、一種学者的な文人の一面の方が強かった人物と言えるかもしれません。
 世良は、その後長州において結成された奇兵隊で書記を務め、また後に結成された第二奇兵隊においては軍監を務めるなど、その地位は長州藩内においてどんどん重要視されていきます。
 幕末期、長州藩は内訌を繰り返した末、明治維新時には人材不足に陥り、世良のような小才な人物を東北に送り込まざるを得なかった、というようなことが言われる傾向にありますが、それは少し事実とは異なっています。世良自身の経歴から判断しても、彼は藩内では期待をかけられていた有望な若者の一人であったと言えるのではないでしょうか。

 それでは、そのような学問の素地をしっかりと身に付けていたはずの世良自身が、なぜ東北において傍若無人な振る舞いを行ない、奥羽諸藩の人々の大きな恨みを買う結果となってしまったのでしょうか?
 その主な原因は、当時の奥羽鎮撫総督府の構成と新政府の奥羽諸藩の措置に対する方針が、世良自身に大きな影響を与えているものと私は考えています。


 慶応4(1868)年3月2日、世良が奥羽鎮撫総督府下参謀を任命され、京を一路仙台に向けて出発した時の兵力は、奥羽鎮撫総督府総勢でも約570名程度という少数兵力でした。
 会津藩を筆頭に、仙台、米沢、秋田、南部などの大藩がひしめく東北の地を、わずか570名程度の兵力で鎮撫しに行こうとしたことには、当初から大きな無理があったと考えられます。
 では、なぜ奥羽鎮撫総督府はそのような少数兵力で構成されたのでしょうか?
 それには、次のような新政府の苦心と思惑があると考えられます。

 当時の新政府の首脳には、

「奥羽諸藩の鎮撫に関しては、奥羽諸藩の兵力を使って処置する」

 という方針がありました。
 世良が奥羽鎮撫総督府下参謀を任命され、奥羽鎮撫総督府のメンバーが構成された当時、徳川家の居城であった江戸城はまだ開城されておらず、幕府軍はそのままの状態で江戸に存在していたため、当時の新政府は、東北地方に大きな兵力を割ける状態ではありませんでした。
 当時の新政府自体の基盤はまだ確かなものではなく、今まで付き従ってきた諸藩が、いつ寝返って形勢が逆転するかもしれないという危険な状況にあったので、大多数の兵力を東北に派遣すること自体、事実上不可能であったのです。
 このような事情から、新政府としては、「奥羽諸藩の鎮撫に関しては、奥羽諸藩の兵力をもって当たらせる」という方針を取らざるを得なくなり、奥羽鎮撫総督府はわずか570名程度での出陣となったわけです。

 また、新政府が「奥羽諸藩の鎮撫に関しては、奥羽諸藩の兵力をもって当たらせる」という方針を採るにあたって目をつけたのは、今回の「テーマ随筆」で詳しく検証していくことになる仙台藩の存在です。
 仙台藩は62万石という大封を有する東北一の雄藩であり、奥羽諸藩の盟主的な存在でありました。
 当時の新政府は、この仙台藩の存在を非常に重く見て、奥羽鎮撫の主要な目的である「会津藩討伐」を仙台藩を中心にした奥羽諸藩で行なわせようと考えていたのです。
 このことは、新政府が慶応4(1868)年1月17日付けで仙台藩に下した勅命を見ても明らかです。
 その勅命の全文は下記の通りです。


「會津容保今度徳川慶喜ノ反謀ニ與シ錦旗ニ砲發シ大逆無道可被發征伐軍候間其ノ藩一手ヲ以テ本城ヲ襲撃スベキノ趣出願不失武道憤發ノ條神妙之至御満足ニ被思召候依之願之通被仰付候間速ニ可奏追討之功之旨御沙汰事 戊辰正月」
(日本史籍協会編『仙臺戊辰史二』より抜粋)

(現代語訳 by tsubu)
「会津藩松平容保は、この度徳川慶喜の反謀に与して、錦旗に発砲し、大逆無道の行ないであったので、征伐軍を発することになった。そのため、貴藩一藩の力をもって会津本城を襲撃したいとの趣旨の出願をしたこと、武士道を失わない奮発の心がけ、誠に神妙の至りで、主上(天皇)もご満足の思し召しである。よって、貴藩の願い出の通り、会津征伐を仰せ付けるので、速やかに追討して功をあげるよう御沙汰する。戊辰正月」



 この沙汰書の中の非常に重要な部分は、

「其ノ藩一手ヲ以テ本城ヲ襲撃スベキノ趣出願(仙台藩一藩で会津藩を攻めるという願い出を出した)」

 と書かれてあるところです。
 つまり、新政府は「仙台藩から会津藩を攻めたいという願い出があったので、それを許可する」という名目の元にこの勅命を下したわけですが、これが仙台藩にとっては、まさに青天の霹靂というべきものでした。なぜなら、仙台藩側には「我が藩一藩をもって会津藩を攻めたい」という正式な願い出を行なった事実がなかったからです。
 にもかかわらず、「仙台藩の願い出により」と新政府が会津攻めの勅命を仙台藩に下したことは、当時京に居た仙台藩首脳にとって、まさに寝耳に水のことでありました。そのため、仙台藩側は新政府に対し、「このような願い出を行なった事実はありません。何かの誤解ではないでしょうか」と申し出たところ、この仙台藩の主張が通ったためか、1月20日に改めて下された勅命からは、「其ノ藩一手ヲ以テ」という言葉が削除されることになりました。

 一応ここまで事実の経過を簡単に書きましたが、新政府側がこのような「仙台藩一藩に会津攻めを命令する」という勅命を下したのは、やはり、兵力不足から東北地方に多数の兵力を送り込むことが出来なかったため、仙台藩を中心にした奥羽諸藩に会津攻めを任せようと考えた末でのことであったと思われます。
 つまり、最初に書いた

「奥羽諸藩の鎮撫に関しては、奥羽諸藩の兵力を使って処置する」

 という方針の元での考えであったと言えましょう。
 ただ、それでは新政府側が、「仙台藩から会津攻めの願い出をしていないにもかかわらず、嘘をついて仙台藩に会津攻めを強要したのか?」ということになってしまいますが、実は私自身、この仙台藩の願い出があったのか否かについては、やはりそれらしきものは仙台藩側からあったものと推測しています。
 『近世日本国民史』を著した徳富蘇峰も根拠の一つに挙げていますが、当時の新政府の要人の一人であった大久保一蔵(後の利通)が、仙台藩に勅命が下る一日前の1月16日付けで、当時薩摩に居た島津久光の側近を務めていた蓑田伝兵衛に宛てた手紙の中で、次のように書いています。


「仙臺も近々上京と申事候處重役上京會津征伐一手ニ被仰付度願出申候關以西ハ大概不日ニ一定可致と見込候得共關以東甚六ケ舗事候處仙臺より右様願出官軍ニ属し候得は別而大幸之次第巣穴ヲ碎候儀も安かるべく候何分一體御治定之上征東之儀ニも及可申候」
(日本史籍協会編『大久保利通文書二』より抜粋。原文「変体かな」は筆者が修正)

(現代語訳 by tsubu)
「仙台藩主(伊達慶邦)も近々上京するとのことであり、また仙台藩の重役が上京し、会津藩征伐を一手に仰せつかりたいとの願い出がありました。関東より西は近いうちには治定する見込みが立っておりますが、関東より東は甚だ難しいと思っておりましたところ、仙台藩よりこのような願い出があり、官軍に属すということは非常に喜ばしい次第で、これで巣窟(つまり会津藩など新政府に反抗しているところを指す)を砕くことも安易なことになりました。これで何事も全て治定した上で征東することになろうかと思っております」



 この大久保の書簡からは、仙台藩から会津討伐の願い出が実際に出されたことになっており、それを知った大久保の喜びが非常に滲み出ているのではないかと思います。「別而大幸之次第(別して大幸の次第)」と大久保が書いていることからも、仙台藩が新政府側に付くということへの喜びが、非常によく分かるのではないかと思います。
 また、仙台藩が新政府側に加わったことで、「関東よりも東のことは定まった」と大久保が書いていることからも、当時の新政府の首脳がいかに仙台藩の動向に注目していたのかがよく分かるのではないでしょうか。
 もし、先程書いたように新政府側が仙台藩の願い出がないものをあたかもあったかのように事実を捏造していたとすれば、大久保は国許の蓑田、そして実質的な主君である久光に対し、そんな嘘をわざわざ書く送る必要もありませんし、このような報告書は書かないでしょう。
 この大久保の記述から考えると、やはり仙台藩からは正式な願い出ではないながらも、口頭か非公式の申し出かは分からないですが、会津藩攻めを仰せつかりたいとの何らかのアクションが仙台藩関係者からあったことは間違いないと考えられます。

 ただ、仙台藩関係者からのアクションには、「一藩のみで会津攻めを行ないたい」という意向や記述は無かったかもしれません。「伝言ゲーム」などでも分かるように、人づてに伝わっていくと、知らぬ間にそれが事実より大げさになっていたり、事が大きくなっていたりすることは、人間社会においてはよくある傾向だと思います。
 仙台藩側からの「会津藩を攻めても良い」という簡単な口頭や書面での意向が、人づてに伝わっていく毎に段々と大きくなっていき、最終的には「仙台藩一藩のみで」というものに変わってしまったというのが、私は実情のような気がします。そう考えれば、後に仙台藩側が新政府に対し、「そのような出願をした覚えはない」と一種抗議したことへの辻褄もあうと思いますので。
 そうなると、「このような願い出を仙台藩の誰が行なったのか?」という一つの疑問が生じてきます。
 『仙臺戊辰史』には色々な説の記述がありますが、よく言われるのは、この当時仙台藩の代表として京に滞在していた但木土佐(ただきとさ)が、個人的にこのような願い出を行なおうとしたのではないかということです。
 確かに、『仙臺戊辰史』には、

「但木土佐ガ一手襲撃ヲ出願シタレド大童ガ不承知ニテ彼ノ如キ始末トナレリ」

 と書かれており、但木が一藩で会津攻めを行ないたいとの願い出を出そうとしたのを仙台藩士の大童信太夫が承知しなかったため、このような始末となったという説があげられいます。
 また、このことは後に但木が失脚することの要因になったとも言われています。

 しかしながら、私はこの「但木土佐内願説」には一つの疑問を感じています。
 その理由は、前述した大久保の書簡の中に、

「重役上京會津征伐一手ニ被仰付度願出申候(仙台藩の重役が上京し、会津藩征伐を一手に仰せつかりたいとの願い出があった)」

 と書かれているからです。
 大久保の書簡のこの記述によると、仙台藩の重役が上京した上で会津征伐を一手に仰せつかりたいとの願い出があったことになっていますが、この上京した仙台藩の重役を但木とするには非常に無理があります。
 但木が京に入ったのは、慶応3(1867)年11月29日のことであり、当然まだ「鳥羽・伏見の戦い」も起こっていない状況ですので、大久保が「仙台藩の重役が上京し」とわざわざ書簡の中に書いた人物を但木とするのには、余りにも日が経ち過ぎており、やはり無理があると考えられます。
 私自身は、大久保が書いた「重役」とは但木のことを指すのではなく、慶応4(1868)年1月12日に仙台藩の藩論と藩主・慶邦の主命を奉じて京に入った、仙台藩士・坂本大炊(さかもとおおい)と一条十郎の二人のことを指すものと考えた方が、事実がすんなり理解出来るのではないかと考えています。

 先に結論から書きますが、私は新政府側に内々のアクションを起こした人物は、仙台藩士・坂本大炊ではないかとの見当をつけています。
 坂本大炊は仙台藩内でも勤王派と目された人物で、後に本文にも登場してきますが、仙台藩士が世良を暗殺しようとする動きを始めた際に、何とかその動きを阻止しようとして動いた人物でもあります。つまり、坂本は仙台藩内では世良の擁護者として動いた人物であったのです。

 この坂本が上京したのは1月12日。
 大久保が「仙台藩の重役が上京し」と書いたのは1月16日。
 そして、「其ノ藩一手ヲ以テ」の勅命が仙台藩に下されたのが1月17日。

 日づけと経過、そして坂本の後の行動だけを考えるなら、仙台藩から内々にアクションを起こした人物とは、坂本であったと見当をつけても、非常に無理なく事実と符合するように思います。
 ただ、これはあくまでも私自身の推測であって、その裏付けとする史料はありません。これは今後の課題にしたいと思っています。

 さて、話が少し仙台藩のことの方に大きく移行してしまいましたが、これまで書いてきたように、新政府側は仙台藩の動向を非常に重要視しており、また東北地方を鎮定するためには、仙台藩の力が何よりも必要であると考えていたことがお分かり頂けたのではないかと思います。
 そして更に、冒頭にも書きましたが、当時の新政府は、東北地方に大きな兵力を派遣することが出来ない状況にあったので、仙台藩から会津藩を攻めたいとの内々の願い出があったことを非常に喜ばしく、そして頼もしく思ったことでしょう。
 また、先程書きそびれましたが、新政府は1月17日に仙台藩に会津征討の勅命を下すと同時に、仙台藩と同じく、もう一つの東北の雄藩である米沢藩に対しても、「仙台藩と共に協力して、ことにあたるように」との勅命を下しています。
 これらのことから考えても、当時の新政府の首脳には、

「奥羽諸藩の鎮撫に関しては、奥羽諸藩の兵力を使って処置する」

 という方針があったことは明らかだと思います。
 また、少し補完するならば、例えば、大橋慎三、この人は岩倉の指示で公卿の鷲尾侍従を率いて慶応3(1867)年12月12日に高野山に挙兵したメンバーの一人ですが、この大橋が慶応4(1868)年1月4日付けで岩倉具視に提出した建言書の中には、次のように書かれています。


「征東速に成功奏せらるべきの策は唯海軍を進めて彼の巣窟を屠るに在る而已と奉存候同時に仙臺佐竹上杉等をして會城を屠らしめて可也」
(日本史籍協会編『岩倉具視関係文書三』より抜粋)

(現代語訳 by tsubu)
「征東を速やかに成功させるための策は、ただ海軍を進めて彼らの巣窟を壊すことのみであると思っております。また、同時に仙台・佐竹(秋田)・上杉(米沢)等をして会津を攻めさせるべきであります」



 当時の大橋慎三は新政府の重要人物とまではいきませんが、岩倉の元で働いている人物ですので、この大橋の考え方は、同時に新政府の要人であった岩倉の考え方に通じるものでもあったと思われます。
 このように、「奥羽諸藩の鎮撫に関しては、奥羽諸藩の兵力を使って処置する」という方針は、当時の新政府の基本方針であったことは間違いないと言えましょう。


 これまで非常に長々と書いてきましたが、東北地方に大きな兵力を割くことが出来なかったこと、新政府の東北諸藩鎮撫に関する基本方針が奥羽諸藩同士で決着させるということであったこと、そして新政府の仙台藩に対する大きな期待、大きく分けてこのような三つの理由から、新政府は奥羽鎮撫総督府にわずか570名程度の兵しか付けず、東北の地に送り込むことにしたのです。
 しかし、結果論から考えると、この新政府の考え方や方針は実に甘いものであったと言えましょう。奥羽鎮撫総督府が仙台に入って後も、奥羽諸藩の動向や方針は定まらず、結局は事態が複雑化し、参謀の世良が暗殺されて、事態は最悪の戦争へと突入していくことになるからです。
 ただ、当初からこの奥羽鎮撫総督府に課せられた課題、つまり奥羽諸藩をして会津討伐を成し遂げるということが、そう簡単にはいかない難しい課題だと考えていた人物も新政府内にはいました。
 例えば、それは薩摩藩士・黒田了介(後の清隆)や長州藩士・品川弥二郎といった面々です。

 彼ら二人は当初、慶応4(1868)年2月9日に奥羽鎮撫総督府の参謀に任命されていたのですが、彼らはその後その役目を辞退し、変わって2月26日に世良修蔵と薩摩藩士の大山格之助(後の綱良)が参謀に任命されることになりました。
 非常に異常なことですが、2月9日に発表された奥羽鎮撫総督府のメンバー、つまり、総督、副総督、参謀二人の計四人は、その約二週間後の2月26日には、全て変更になっているのです。このように、総督以下の全てのメンバーが総入れ替えになっているのは、奥羽鎮撫総督府だけのことです。
 このような異例の事態を考えても、「奥羽鎮撫」という役目が非常に難しい側面を持っており、また、メンバーの選考も非常に難航していたことを暗にうかがい知れるものになっているのではないでしょうか。
 特に黒田らは、「東北の措置は、奥羽諸藩同士で決着させる」という使命が、いかに困難を要する難しい方針であったのかを認識しており、その役目を辞退したのではないかと推測されます。

 黒田の辞任に関しては、先程登場した大橋慎三が、慶応4(1868)年2月6日、つまり黒田が奥羽鎮撫総督府参謀を任命されることになる三日前、岩倉具視に宛てて提出した建言書の中で、非常に注目するべきことを書いています。
 大橋は「黒田了介代りも指し置きなされ候」と書き、黒田が自分の代わりになる人物を既に指名しているみたいだが、黒田と品川の二人のどちらが欠けてもよくないと主張し、二人には必ず任務を遂行させるようにしてもらいたいと岩倉に建言しているのです。
 つまり、黒田が参謀に任命される三日前にも関わらず、黒田自身は既にその任を辞退しようとしていた事実が書かれているわけです。
 おそらく黒田は、この奥羽鎮撫総督府参謀の使命がいかに重いものであるかを既に理解しており、当初から辞退しようと考えていたのだと思います。そして黒田が辞任したことにより、品川も自分だけが貧乏くじを引くのは嫌になったのでしょうか、その後、品川自身もまた参謀を辞任することになるのです。
 このような黒田と品川のやり方は、後に書くことになる世良ゆかりの史跡を訪ねるエッセイの中でも関連して出てきますので、頭の片隅にでも留めて置いて頂ければと思っています。

 このように参謀の人選は非常に難航していたのですが、奥羽鎮撫総督府の構成については、黒田が参謀に任命される約二週間前の慶応4(1868)年1月23日に、当時、新政府の重要人物の一人であった薩摩藩士の西郷吉之助(後の隆盛)が、同じく新政府の要人であった大久保一蔵に宛てた書簡の中で、次のように書き送っています。


「綾小路様にても誰様にても御差し向け相成る儀に御座候わば、参謀の者御撰び在らせられ候議肝要に存じ奉り候」
(大和書房『西郷隆盛全集第二巻』より抜粋)

(現代語訳 by tsubu)
「(東北へ差し向ける鎮撫総督には)綾小路様(綾小路俊実のこと)でも、他の公卿様でも誰でも結構ですが、差し向けることになったとしたら、その参謀の者を誰にするか選ぶことが非常に大事なことであると思っております」



 この西郷の書簡の一文を読むとよく分かりますが、東北に派遣する鎮撫総督府には、

「公卿はどんな人物を差し向けても構わないが、参謀にはしっかりした者を選ぶことが重要である」

 と、西郷は考えており、それについて大久保に対し同意を求めているのです。
 つまり、西郷は奥羽鎮撫総督府の役目や課題がいかに大きく、かつ重要であることを既に認識していたのです。
 この西郷の要望が聞き入れられたためかどうかは分かりませんが、当初は前述したように、参謀として黒田と品川の両名が任命されたのですが、彼らはその責務の重さを感じて辞退し、そしてその後にその役目を世良が引き受けることになるのです。西郷が非常に可愛がっていた黒田が、当初参謀に任命されたことを考えると、やはり黒田の参謀就任は、西郷の要望が聞き入れられた結果であったとも考えることは出来ると思います。
 また、品川という人物も、後年は西郷の庇護を受けて薩摩藩邸に居たことのある人物ですから、二人の参謀就任は、やはり西郷の要望を実現したものと考えた方が良いかもしれません。
 しかしながら、その西郷が2月12日に京を出発して江戸に向けて進撃している最中に、西郷の期待とは裏腹に、黒田と品川が参謀を正式に辞退し、そして世良と大山が代わって参謀に就任することになるのです。

 このような複雑な事情の元で奥羽鎮撫総督府は形成され、そしてその総督府は、奥羽の諸藩の兵力をもって会津藩の討伐を行なうという、非常に重大な使命を背負わされました。
 黒田や品川に代わって下参謀を任命された世良修蔵にとっては、その大きなプレッシャーや重圧が、その背に大きく圧し掛かっていたに違いありません。
 東北の地に入っても、まだ奥羽諸藩の動向がはっきりしない不安定な情勢の中、兵力も非常に乏しかったことから、世良が唯一頼りに出来たのは「朝廷の威光」のみであったのではないでしょうか。兵力を背景に持っていない世良の立場は、まさに「綱渡り状態」とも言うべき非常に危ういものであり、彼が唯一武器に出来る物とは、「朝廷から派遣された軍隊である」という肩書きだけしかなかったと言えると思います。

 世良がことさらに武張って、人を人とも思わないような尊大な態度を取った理由の心底には、奥羽鎮撫総督府下参謀という大役を立派に果たしたいという責任感が、世良自身の異常なまでの気負いとなってしまったことが、その大きな原因となっているのではないかと私は思います。
 それには、これまで書いてきたような新政府軍側の兵力的な弱点が大きな理由になったことは想像に難くないと思いますし、また、重要な使命を課され、大きな重責を背負った人間は、その重圧からくる大きなプレッシャーから、逆に弱みを見せないために大きな態度に出るようになるということは、現代の実社会においても、よくある傾向と言えるのではないでしょうか。
 世良としては、「朝廷から派遣された官軍である」ということを全面的に押し出して、奥羽の諸藩を厳しく督戦することが、自らの弱みを見せないことにも繋がり、また何よりも効果がある手段と考えていたのではないでしょうか。

 しかしながら、実際はその効果が大きく逆に出てしまったと言えるでしょう。
 世良は「朝廷の威光」を大きく見せるために、敢えてこういう厳しい態度で奥羽諸藩の重臣達に接したのでしょうが、そのことが彼ら重臣達にとっては、世良が誠に失礼極まりない人間と映り、逆に奥羽諸藩が新政府に対し、大きな不信感を生むことになるのです。
 そして、その不信感が、やがて大きな抵抗感へと変わり、事態に窮した仙台藩士達が世良を暗殺することにより、奥羽諸藩は自らの生き残りをかけることになります。
 この世良暗殺が戊辰戦争勃発の大きな原因となり、最終的には東北の平和を望んでいたはずの奥羽諸藩が、新政府と敵対せざるを得ないことになるのですから、歴史は複雑な要因の元に、思わぬ結末を生みだすものであると感じられてなりません。


(2)に続く




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(2)奥羽列藩同盟のこと


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