「世良修蔵暗殺事件の周辺」
-奥羽鎮撫総督府の結成から世良暗殺まで-


(2)奥羽列藩同盟のこと
 世良修蔵の暗殺事件にも深く関与してくると思いますので、ここからは東北の戊辰戦争が起こった原因についても、少し簡単に考察していきたいと思います。

 奥羽鎮撫総督府が京を出発して仙台に入って後、奥羽諸藩の意見が容易にまとまらず、結局は下参謀の世良が暗殺され、その後「奥羽列藩同盟」が締結され、そして最終的に戊辰戦争へと突入せざるを得ない状況になったのは、大きく分けて三つの理由があると私は考えています。

一、奥羽諸藩には、心情的に会津藩を攻めたくない、また攻める理由もないという気持ちが強かったため。

二、奥羽諸藩には、薩長を中心とした新政府に対する一種の拒否反応があったため。

三、奥羽諸藩には、会津藩の処置は、会津一藩だけのことに留まらず、奥羽諸藩全体の処置に波及する恐れがあるという危機感があったため。


 これら三つの大きな理由から、東北地方の情勢は非常に複雑化し、戊辰戦争が起らざるを得ない状況になったのだと私は考えています。
 特に、三番目の理由は、「奥羽列藩同盟締結」にも繋がる大きな理由であると思いますので、後に詳しく書いていきたいと思います。

 よく東北の戊辰戦争は、「会津藩を救済するために起ったものである」と結論付けているものも多々見受けられますが、実際はそういった単純な性格のものではないと私は考えています。

「会津藩を救済する=奥羽列藩同盟の結成 → 東北戊辰戦争勃発」

 という図式で語れば、確かにすんなりと東北の戊辰戦争が理解されやすく、またあらゆる面において、会津藩を助けようという「義」の図式が出来上がり、東北地方では受け入れやすいものになるでしょうが、実情はそんなに簡単に解釈出来るものではありません。
 東北の戊辰戦争は、非常に複雑な要素を含んでおり、奥羽列藩同盟の結成に関して言うならば、加盟した各藩毎にその思惑は大きく異なっていたと言えましょう。奥羽列藩同盟に加盟した各藩とも、その列藩同盟に対する考え方は千差万別で、ただ単に「会津藩を救済しよう」という「義」を重んじた感情的な理由から、奥羽列藩同盟が結成されたという性格のものではないと私は考えています。

 ただ、確かに奥羽諸藩には会津藩に対する大きな同情はありました。

「攻められる理由も存在しないのに、なぜ『朝敵』として会津藩が攻撃されなければならないのか?」

 ということについての会津藩に対する同情という意味においてです。
 しかし、同時に奥羽諸藩はその同情心だけで、自らを犠牲にしてまで会津藩を守らなければならない義理もなかったと言って良いでしょう。
 現実に、奥羽列藩同盟が締結され、新政府軍との戦闘が始まり、日増しに戦況が著しく不利になってくると、奥羽諸藩は堰を切ったかのように、同盟から離反し始め、会津藩は最終的に孤立する結果となります。
 これらの事実から考えても、「奥羽列藩同盟」を簡単に一言で言うならば、「会津藩を救済しよう」という理由よりも、やはり加盟した各藩共に「自衛のための攻守同盟」を結んだという性格が一番強いのではないでしょうか。

 それでは、なぜ「奥羽列藩同盟」が締結されることになったのか?
 これについては、先程挙げた三番目の理由である

「会津藩の処置は、会津藩一藩だけのことに留まらず、奥羽諸藩全体の処置に波及する恐れがあるという危機感」

 が、奥羽諸藩にあったことが大きな原因となっていると思います。

「罪も無い会津藩がこうなるようでは、このままでは自分達まで征伐されかねない……」

 という一種の大きな不安感が、奥羽鎮撫総督府の派遣により、奥羽諸藩の中に生じ、そして先程あげた二番目の理由である「新政府に対する拒否反応」とが入り混じり、奥羽諸藩で団結して、外敵から身を守ろうとした反応の末に出来上がったものが、「奥羽列藩同盟」ではなかったかと私はそう考えています。
 特に、奥羽諸藩の中心的な存在であった仙台藩と米沢藩にとっては、突然やって来た奥羽鎮撫総督府から、いきなり「会津藩を討て!」と命令されて、藩内が非常に動揺・困惑しました。会津藩を攻める理由も、そしてその謂われも無い自分達が使われ、「なぜ会津藩を攻めなければならないのか?」という、新政府に対する大きな不信感が根本的に生じ、それが大きな拒否反応へと変わっていったからです。
 奥羽鎮撫総督府の下参謀として赴任した世良が、有無も言わさず、そして厳しく奥羽諸藩に会津攻めの督戦を行なったことも、奥羽諸藩の間で生じた新政府に対する不信感に大きな拍車をかけたとも言えましょう。

 新政府側が仙台藩を筆頭にした奥羽諸藩に対し、会津藩を攻めるように命令した背景には、新政府の圧倒的な兵力不足に原因があったことは、前回の(1)でも書きました。
 世良が頑なまでに奥羽諸藩に対し、会津攻めの督戦を行ったのは、奥羽鎮撫総督府としてはそうせざるを得ない事情にあったと言えますし、また、新政府側の方針がそうであったためであるとも言えるでしょう。
 現代では、世良は「悪人」扱いされる存在ですが、少し大胆に言えば、世良は新政府の方針を忠実に守り過ぎたがゆえに、逆に奥羽諸藩の恨みを一身に背負い込むことになったとも言えるのです。
 しかしながら、私は世良が東北地方で取った手法を正しいものであったとは思いません。新政府の方針を守るにしても、世良はその手段や手法を誤ったと感じているからです。
 ただ、この「新政府の方針」に関して言えば、それが世良の大きな重荷や縛りとなり、世良自身が精神的に追い込まれる事態となったことが、彼が非常に傲慢な態度を取るようになった根本的な原因であったとも私は推測しています。

 このように、心情的には会津藩を攻めたくはない仙台と米沢の両藩は、会津藩から提出された嘆願書を仲介して、奥羽鎮撫総督府に対し、会津藩の嘆願活動を行ないました。
 しかしながら、それは「会津藩を救済しよう」という理由から嘆願活動を行なったというのではなく、「会津藩を攻めたくない、また攻める理由もない」というものと、「突然やって来て、無茶な命令を下す新政府軍に対する拒否反応」という部分、そして、「会津藩の嘆願を通すことは、自らの奥羽諸藩の自衛にも繋がる」という考え方を元にして行なわれていたものと見て良いのではないかと思います。
 また、もっと大胆に表現するならば、仙台や米沢といった奥羽諸藩は、「自分達が手を汚してまで会津藩を攻めたくはなかった」とも言えるのではないでしょうか。
 最終的に、仙台藩や米沢藩が奥羽列藩同盟結成へと動いたのは、世良を暗殺してしまったことで一つの態度を決めざるを得なくなり、その時点で、ただ単に会津藩やその他奥羽諸藩との利害関係が一致したからに過ぎないと私は考えています。
 このような根底的に弱い理由と突発的に生じた世良の暗殺事件により、奥羽列藩同盟は形成されることとなったため、その崩壊も非常に早かったと言えるのではないかと思います。

 さて、前述した「会津藩の処置が奥羽諸藩全体に大きな影響を与える」という、奥羽諸藩の危機認識は、仙台藩主・伊達慶邦(だてよしくに)と米沢藩主・上杉斉憲(うえすぎなりのり)の両名が、会津藩から出された嘆願書と共に提出した「奥羽諸藩の重臣が連名で記した嘆願書」の中の文面にも色濃くあらわれています。
 その部分を少し抜き出してみることにします。


「尤當時王政御一新之御場合ニモ被為在候ヘバ何分不被為動干戈人心之向背ヲモ深ク可被為有御汲量御時節ト奉存候勿論春夏之間ハ農時之甚急務ニナル所ニ有之自然民命ノ大ニ所關ニ御座候間是等之儀共篤ト御諒察被成下今日之事ハ只ニ會津孤國而已之御所置ト不被為思召寛大之御沙汰被成下候ハバ實以奥羽御鎮撫之道赫然被為立候」
(日本史籍協会編『仙臺戊辰史二』より抜粋)

(現代語訳 by tsubu)
「もっとも現在は王政御一新の際でございますから、何分にも戦争を起こされることの無いように、人心の動静を深くお汲み取り頂く時節ではないかと思っております。また、この春夏の季節は、農事に関して非常に重要な時期でございますし、そのことは民の命にも大きく関係するところでございますので、これらの事情をどうぞよくご諒察下さいますようお願いいたします。今日の事はただ会津藩一藩のみの処置となされず、寛大な思召しをもって御沙汰下されれば、奥羽地方の鎮撫の道が大きく開け立つことであると思っております」



 この嘆願書の中に、

「今日之事ハ只ニ會津孤國而已之御所置ト不被為(今日の事はただ会津藩一藩のみの処置となされず)」

 と書かれている部分からは、奥羽諸藩の間では、この会津藩討伐に関しては、会津一藩だけのことではなく、東北全体の処置に関わってくるとの危機認識があったことが暗にうかがえると思います。
 また、農事云々のことを嘆願書にまで記しているのは、新政府軍の東北進攻自体が、奥羽諸藩にとっては、迷惑以外の何物でもなかったことを感じさせる部分だとも思います。奥羽諸藩にとっては、農繁期に入り、藩の財政的にも非常に重要なこの時期に、やみくもに戦争を起こそうとしている新政府側に、当初から大きな不信感を持っていたものと思われます。

 そして、最後に、

「奥羽御鎮撫之道赫然被為立候(奥羽地方の鎮撫の道が大きく開け立つことであると思っております)」

 と書いている部分は、これは裏を解せば、一種の奥羽諸藩の圧力とも言える部分ではないかと思います。
 前回から書いていますが、当時の奥羽鎮撫総督府の兵力は非常に少なく、奥羽諸藩の兵力を利用しなければ「会津藩討伐」は実行出来ない状況にありました。そのため、奥羽諸藩はその新政府の窮状に目を付け、自らの持つ圧倒的な兵力を背景に、

「会津藩の処置がこじれると、東北地方の鎮撫もおぼつかないことになるぞ」

 と暗に無言の圧力をかけているのです。
 文面は非常に穏やかですが、こういった奥羽諸藩の圧力行動については、後にも同様のことが出てきますので、その際に詳しく書くことにします。

 さて、このような事情の元で、仙台・米沢藩を中心にした会津嘆願運動が起るわけなのですが、実はこの段階では、その会津藩自体の態度が、全面恭順かそれとも徹底抗戦か、非常に曖昧ではっきりしておらず、そのことがこの嘆願運動を複雑化し、また戊辰戦争勃発のきっかけに繋がっていく原因ともなってきます。

 後世、会津藩は全藩全て恭順態勢にありながらも、新政府軍の攻撃にさらされ、藩は滅亡の一途を辿ったと言われる傾向にありますが、それは半分は合っていて、半分は事実とは少し違うのではないかと思います。
 仙台藩や米沢藩が、「会津の処置は東北全土に影響を与える」という危機感を持ちながら嘆願運動を続けていたのとは反対に、会津藩では新政府軍を迎えるべく、着々と戦闘準備を整えています。
 つまり、当事者の会津藩自体が戦闘準備を着々と整え、会津とは関係の無い周囲の藩が嘆願運動を続けているという、非常に奇妙な現象が起こっていることに注目するべきではないでしょうか。


(3)に続く




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(3)仙台藩と米沢藩の会津嘆願運動について



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