「世良修蔵暗殺事件の周辺」
-奥羽鎮撫総督府の結成から世良暗殺まで-


(画像)白石城
白石城(宮城県白石市)



(15)白石を訪ねて−世良修蔵の墓所を訪ねて−
 福島の世良修蔵関係史跡を訪ねてから約三ヶ月経った平成15年11月27日(木)。私は宮城県の南方にある白石市にいました。
 今回の(テーマ随筆)「世良修蔵暗殺事件の周辺」を完全なものとするためには、どうしても後一つだけ見ておかなければならない場所があったからです。

 それは、「世良修蔵の墓所」です。

 世良が福島の阿武隈川の川辺で処刑され、その首は白石にあった仙台藩本営に送られたことは本文中にも書きましたし、仙台藩の但木土佐が「そんな首など川に捨て置け」と発言したこともその際に書きました。
 結局その世良の首は、仙台藩の軍制係を務めていた今村鷲之助と真田喜平太が相談し、白石にある片倉家菩提寺の「傑山寺」に埋葬しようと二人は考えました。白石という場所は、仙台藩伊達家の重臣を務めていた名家「片倉家」の城下町であり、傑山寺はその片倉家の菩提寺として、非常に由緒正しい寺院だったからです。

 しかし、傑山寺は世良の首の埋葬を断りました。
 おそらく傑山寺側は、奥羽諸藩の恨みを一身に買って斬られた世良の首を埋葬などすれば、自らの寺にも何らかの被害を蒙るのではないかと考えたからではないでしょうか。
 このように傑山寺が世良の首の埋葬を断ったため、世良の首は、傑山寺の末寺であった城下の外れ、太平村森合にある真田幸村の菩提寺「月心院」に埋葬されることになりました。

 東北の白石に「大坂夏の陣」で戦死した真田幸村の菩提寺があることを不思議に思われる方も多いのではないかと思いますが、伊達政宗の片腕として働き、天下にその名を轟かせた知将・片倉小十郎景綱の嫡男である片倉小十郎重長は、真田幸村の娘である阿梅(おうめ)を後妻に娶っています。
 伊達家とは敵将として戦った真田幸村の娘が、その家臣である白石の片倉家に嫁いだのは、大坂夏の陣において、真田幸村が娘の命を敵であった伊達政宗に託し、それを政宗が白石の片倉家に預けたことに由来しています。
 こういった経緯により、片倉小十郎重長の妻となった阿梅は、後に白石の郊外に父・真田幸村の菩提寺を建立しました。
 そして時は流れた後年、この「月心院」に世良の首が埋葬されることになったのです。

 ただ、この真田幸村の菩提寺「月心院」は現在では廃寺となり、その跡地には当時の面影を見ることは出来ません。
 私はこの日、世良の首が埋められた月心院跡も訪ねたのですが、現在その場所は地元の方々の共同墓地となっており、世良の首が埋められた場所も、以前はその場所を示す案内板等もあったらしいのですが、現在はその地が道路となり、その場所を特定することが出来なくなっています。

 少し話がそれましたが、このように世良の首は月心院に埋められることになったのですが、その後世良の墓は改葬されることになります。
 明治9(1876)年6月、明治天皇が東北巡幸に出発し、参議の木戸孝允がその従者として福島を訪れたことは(14)において書きましたが、明治天皇の東北巡幸のコースに白石が入っていたため、急遽世良の墓を改葬する必要性が生じ、明治9(1876)年4月20日、世良の首の遺骸は、白石の郊外にある陣場山に移されることになったのです。

 少し書き忘れていましたが、これまで書いてきたように世良の首は白石に葬られているのですが、世良の胴体部分については、彼の死後、非常にずさんな取り扱いをされました。
 世良の処刑後、首は白石へと運ばれましたが、首を斬られた後の胴体部分は、そのまま阿武隈川の川辺に埋められ、その年の5月に起こった洪水で遺骸は跡形もなく流されてしまい、現在においても、彼の胴体部分の遺骨は行方不明となっています。
 このような事情を考えると、おそらくもう世良の胴体部分の遺骨が見つかることなどあり得ないでしょう。何とも言えない残酷な話だと思います。


 平成15年11月27日(木)、前日の夜から白石に宿泊していた私は、早朝世良修蔵の墓所を目指し、まずはJR白石駅を出発して歩き始めました。
 駅前には白石の象徴である「大きな釣鐘」が飾られており、そこには「鐘響都 白石」という大きな文字が書かれていました。「鐘響都」とは、なかなか素敵なネーミングですね。

 最初に書くのを忘れていましたが、「釣鐘」が白石の象徴となっているのは、白石を治めていた片倉家の軍旗に「大きな釣鐘」が描かれていたためです。
 NHK大河ドラマとして放映された『独眼竜政宗』において、片倉小十郎役の西郷輝彦が、姉の喜多役の竹下景子から、「大きな釣鐘を描いた馬印」を手渡されるシーンがあったのを覚えておられる方も多いのではないでしょうか。
 この大きな釣鐘を描いた馬印は、片倉小十郎の姉・喜多が考案したものと伝えられ、その後、片倉家の馬印となったことから、現代においても、釣鐘は白石市の一つのシンボルとなっているのです。

 JR白石駅から徒歩で約20分。
 白石川にかかる白石大橋を渡って、すぐ西側に小高い丘陵地が見えてきます。ここが世良修蔵の遺骨が埋葬されている陣場山です。
 この陣場山は、古くは「関ヶ原の合戦」の東北における前哨戦として、慶長5(1600)年7月24日、伊達政宗が上杉家の甘糟備後守清長の守る白石城を攻め落とした際に本陣とした場所でした。現在は、山と呼ぶには余りに小さい丘陵地となっていますが、陣場山の入り口には、「奥羽鎮撫故世良修蔵墓道」という石碑と世良修蔵の墓の由来について記す大きな看板が立てられています。
 その石碑と看板に挟まれるようにして、陣場山に登る石段があり、それを登っていくと、正面に世良修蔵の墓が見えてきます。


  
世良の墓所がある陣場山 陣場山上の世良修蔵墓所


 前述しましたが、この墓は明治9(1876)年4月20日に改葬され、この地に移されたもので、その墓石には次のように刻まれていました。

「明治元戊辰年閏四月二十日於奥州信夫郡福島駅□□所殺年三十四」
「奥羽鎮撫総督参謀長州藩士世良修蔵之墓」


 現代語訳するまでもありませんが、一応簡単に書きますと、

「明治戊辰元年閏4月20日、奥州信夫郡福島駅において、□□□□殺される。年齢三十四」

 となります。
 □の部分は欠字で、現在は削り取られていてどんな文字が刻まれていたかを判別することが出来ないのですが、一般にはそこに
「為賊(賊のため)」という文字が刻まれていたと伝えられています。
 この「為賊」と刻まれた墓碑が削り取られていることについては、よく世良を恨んでいた地元の東北地方の人々や旧奥羽諸藩関係者が、自分達が「賊」呼ばわりされるのに憤りを感じ、その恥辱を晴らさんがために削り取ったものと解釈されています。
 しかしながら、私が推測するに、これは地元の人々や旧奥羽諸藩関係者が削り取ったものではなさそうです。
 実はこの日、私は白石の世良の墓を見終えた後、約三ヶ月ぶりに福島市に行き、世良関係の史跡と史料をもう一度調べ直してきました。
 その際、本当に偶然に、福島市で世良暗殺事件を調べておられ、世良暗殺事件に関する本を自費製本されたこともあるEさん(名前は伏せさせて頂きます)と、「福島市資料展示室」において、お会いすることが出来ました。
 Eさんからは、福島城下の形成に始まり、世良暗殺事件に関しても非常に貴重なお話を聞かせて頂き、私自身もとても勉強になりました。
 この場を借りまして、お礼を申し上げます。Eさん、ほんとうにありがとうございました。

 さて、実はこのEさんと世良暗殺について話していた時、白石の世良の墓碑のことに話が及びました。その時Eさんは、世良の墓碑の「為賊」が削られていることについて、非常に興味深い指摘をされました。
 Eさんは私に向かって、

「白石の削られている世良の墓碑は、どうも素人が削ったものではなさそうだ。これは何度も何度も現場に足を運んで気付いたことであるが、あれは職人が削った跡のように思える」

 というお話をされました。
 このEさんの発言を聞いた際、私は一つの確信を持ちました。
 実は事前に調べていたことなのですが、私が白石の世良の墓に行く際、どうしても確認しておきたいことがありました。
 それは、世良の削られた墓碑の部分が、現在どのような状態であるかについてです。
 前述したとおり、一般の解釈では、世良の墓碑の「為賊」の部分が削られているのは、賊呼ばわりされたことに憤りを感じた東北の人々が、その恥辱を晴らさんがために削り取ったと言われています。
 しかしながら、山田野理夫著『東北戦争』の中の一文に、次のような興味深い記述があります。


「ここで世良修蔵の墓碑に触れる。「奥州信夫郡福島駅□□所殺年三十四」の欠字は「為賊」であるが、これを欠いたのは仙台藩士の心情と解する書もあるが、事実は同じ大赦に依り白石町庁で削除したのである」
(山田野理夫著『東北戦争』より抜粋)



 山田氏によると、世良の墓碑の「為賊」が削り取られているのは、それを恥辱に思った人々の仕業ではなく、明治22年2月、大日本帝国憲法発布を記念して行なわれた大赦により、東北の戊辰戦争の責任を受けて賊名を蒙った人達の賊名が取り除かれたため、その結果を受けて、白石の役所で削り取ったということなのです。
 世良の墓碑が削られているのは、それだけ東北の人々に恨まれている証拠だとするものが多いのですが、山田氏の話が事実だとすると、これは非常に大きな間違いであると言えましょう。
 そのため、私は世良の墓碑がどのような状態で削られているかを確認しようと、大阪を出発する前から事前にそう考えていたのです。

 そして実際に、世良の削られた墓碑を見た時の感想ですが、その部分はうっすらと上辺だけをなぞるようにして削られてあり、余りにもキレイに削り取られていることに気が付きました。
 もし、世良を恨みに思ったり、また「賊」と呼ばれることに憤慨した人々が世良の墓碑を削ったとしたならば、こうはキレイに削り取らないでしょう。ノミや金づちで穴が開くような感じで、汚く削り取るのではないでしょうか。墓碑を削りとろうとまで考える人々の心情を考えれば、そうなってしかるべきだと思います。
 しかし、墓碑の削られた部分は、非常にキレイな状態で削り取られていたのです。それも滑らかに何かの道具で削り取られたかのように。
 私はそれを実際に目で見ていたので、福島市でEさんが、「削られている世良の墓碑は、どうも素人が削ったものではなさそうだ。これは何度も何度も現場に足を運んで気付いたことであるが、あれは職人が削った跡のように思える」とおっしゃられたことに同感し、そして大きな確信を抱いたのです。

 やはり、世良の墓碑は、白石町庁が職人に命じて削り取らせたものだということを。

 ただ、白石町庁が明治22(1889)年2月の大赦を受けて、世良の墓碑を削り取ったという史料的な証拠が無いため、いつかまたこの件に関しては、史料的な裏付けを取りたいと私は考えています。


(画像)世良修蔵墓碑    (画像)木戸孝允石灯籠
削り取られた世良の墓碑 木戸孝允が献じた石灯篭


 さて、白石の陣場山上にある世良修蔵の墓所には、明治政府の参議を務めた木戸孝允と当時磐前県令であった村上光雄の二人が、それぞれ一基ずつ寄進した石灯籠が建てられています。世良の墓の正面に向って、右側に木戸、左側に村上の石灯籠が建てられていました。
 私が木戸の石灯籠に刻まれている文字を読むと、そこには次のように刻まれていました。

「明治九年六月二十三日扈従龍駕過此地以吊世良氏之霊 従三位木戸孝允」

 少し分かりやすく現代語に直して書くと、

「明治9年6月23日、明治天皇の従者としてこの地に赴いたので、世良氏の霊を弔うためにこれを建立した。従三位木戸孝允」

 という感じになるでしょうか。
 谷林博氏の『世良修蔵』のように、「以吊世良氏之霊」の「吊」の文字を「弔」と書いてある本も多々見受けられますが、私が見た限りでは、石灯籠には「吊」という文字が刻まれていました。
 しかしながら、元来「吊」という文字は、「弔」という文字と同じ意味を持っているので、書き方はどちらでも間違いではないでしょう。
 ただ、ここでは完全を期すために「吊」の文字を使いたいと思います。

 この木戸の石灯籠に刻まれている「明治九年六月二十三日」という日は、明治天皇に付き従っていた木戸孝允が世良の墓に詣でた日です。
 木戸の日記の6月23日の項には次のように書かれています。


「行在所へ出其より御先へ出世良修蔵の墓へ参詣す白石の宿はつれ小高き山上にあり戊辰の春奥羽諸藩速に着手方向を定めしめんことを謀り京都瓦町旅寓において世良へ談し不日世良総督の参謀を蒙り出発せり而して終に斃難追想往時不堪惨歎なり」
(日本史籍協会編『木戸孝允日記三』より抜粋)

(現代語訳 by tsubu)
「行在所から出て、そこから世良修蔵の墓に参詣した。宿所のはずれにある小高い山上に世良の墓はあった。戊辰(慶応4年)の春、奥羽諸藩を速やかに鎮撫し、その方向を定めようと謀って、京都の河原町の旅宿において、世良と談じたことがあったが、そのすぐ後に、世良は奥羽鎮撫総督府の参謀の任を受けて奥羽に出発した。そして、そこで難にあって、ついに斃れたのである。私はその当時のことを思い出す度、嘆き悲しまずにはいられない」



 明治天皇の行列が白石に滞在中、木戸は亡き同志である世良の墓に詣でたことが、この日記の記述によってよく分かります。
 また、木戸はこの五日後の6月28日の日記の中に、

「磐前県令村上光雄より世良修蔵へ寄附の石燈篭頼置しに付為其一書及び図書を送れり」
(日本史籍協会編『木戸孝允日記三』より抜粋)


 と書いており、世良のために石灯籠を建立することを磐前県令の村上光雄に頼んでいたことが分かります。
 世良の墓の前に、木戸と同じく村上の石灯籠が建っているのは、こういった経緯があったからなのです。
 そして、木戸は世良のために、一つの和歌を詠んでいます。
 それは次のようなものです。


「あなあはれ 涙も袖にみちのくの しのぶにたへず君をおもへば」


 木戸は遠い東北の地で亡くなった同志に対し、精一杯の弔いをしたかったのでしょう。

 現在の白石の世良修蔵の墓は、今では余り供養する人はいないのでしょう、かなり荒れている現状にありました。
 本文中にも何度も書きましたが、東北地方における世良の評価は相変わらず低いままです。世良が奥羽諸藩に対して行なったことを考えれば、それらに対し、憎さや恨みをつのらせてしまう東北の人々の気持ちもよく理解は出来ます。
 何度も書くようですが、戊辰戦争が勃発したことに関しては、こちらが「善」でこちらが「悪」であったというように、一概に善悪を区別することは出来ないと思います。
 ただ、歴史には「勝者」と「敗者」という区別はどうしても付いてしまいます。そのことから考えると、「歴史の敗者」として、その後生きざるを得なかった奥羽諸藩に対して、私は大きな同情を感じずにはいられません。
 歴史に「IF」は禁物ですが、もし世良が奥羽諸藩と融合するような手段を講じていたとしたならば……。
 東北の歴史は違った様相を呈していたやもしれません。そう思うと、改めて歴史の非情さを痛感する次第です。
 陣場山に眠る世良は、今何を考えながら東北の山野を見ているのでしょうか……。


(了)




(あとがき)
 全15回という、とてつもなく長い文章をここまでお読み頂きました皆様、本当にありがとうございました。
 私自身、「敬天愛人」という西郷隆盛のWebサイトを管理している者ですが、昔から戊辰戦争や奥羽諸藩の歴史には興味を持っており、いつか本格的に戊辰戦争をテーマに取り上げてみたいと考えておりました。今回はその序章として、「世良修蔵暗殺事件の周辺」を書くことになった次第です。

 先程も書きましたが、この文章はあくまでも序章に過ぎません。私自身、まだまだ書きたいことや書き足らないことは山ほどあります。ですので、いつかはもっと踏み込んだ「戊辰戦争論」を書きたいとそう思っている次第です。
 会津藩、仙台藩、米沢藩といった奥羽諸藩、そして新政府。
 これらを多角的に見た「戊辰戦争論」をいつか本格的に書きたいと思っています。

 今回は「戊辰戦争論」と呼ぶには余りに稚拙な文章となってしまいましたが、これから私自身もっと力を付けた上で、更に詳しく、そして読者の皆様にも分かりやすい「戊辰戦争論」を書くことを目指したいと考えております。
 最後に改めまして、ここまで長い文章を読んで頂きました皆様、本当にありがとうございました。




<参考図書>(本文中に登場した主なもの)
○日本史籍協会編『仙臺戊辰史』全三巻
○日本史籍協会編『会津戊辰戦史』全二巻
○平石弁蔵『会津戊辰戦争』
○末松謙澄『防長回天史』
○(福島市史資料叢書第3輯)『福島沿革誌』
○(福島市史資料叢書第22輯)『板倉家御歴代略記第参』
○(福島市史資料叢書第24輯)『板倉家御歴代略記第弐』
○福島市史編纂委員会編『福島市史 近世編U』
○福島市史編纂委員会編『福島市史 近代編T』
○福島市教育委員会『旧紅葉館(元客自軒)調査報告および元客自軒遺構保存工事報告書』
○大石嘉一郎編『福島県の百年』
○大村三良『ふくしまわが町』
○山田野理夫『東北戦争』
○庄司重男『浅草宇一郎伝』
○平重道『(仙台藩の歴史1)伊達政宗・戊辰戦争』所載『大槻安広履歴』
○谷林博『世良修蔵』
○藤原相之助『奥羽戊辰戦争と仙台藩−世良修蔵事件顛末−』
○高野孤鹿著『福島に於ける世良の遺蹟』
○斉藤友三『長州藩士世良修蔵参謀百年祭にあたって』
○高木寛『奥羽鎮撫使世良修蔵』
○江代正一『世良修蔵事件の顛末』
○徳富蘇峰『近世日本国民史第71巻奥羽和戦編』
○大和書房『西郷隆盛全集』第二巻
○日本史籍協会編『大久保利通文書』第二巻
○日本史籍協会編『岩倉具視関係文書』第三巻
○日本史籍協会編『木戸孝允日記』第三巻
○日本史籍協会編『木戸孝允文書』第七巻
○木戸公伝記編纂所編『松菊木戸公伝』下巻




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