「世良修蔵暗殺事件の周辺」
-奥羽鎮撫総督府の結成から世良暗殺まで-


(画像)金沢屋跡
金沢屋跡(福島県福島市)



(14)「金沢屋」を訪ねて−「世良修蔵暗殺事件」ゆかりの地を行くB−
 長楽寺を後にした私は、いよいよ世良修蔵が仙台藩士らに襲われた旅籠「金沢屋」へと向かいました。
 長楽寺と金沢屋は、徒歩でもわずか五分程度の非常に近い距離に位置しています。私は自転車で金沢屋へと向かったのですが、その道中「この道を瀬上ら仙台藩士達が歩いたのか……」と思うと、何だか非常に感慨深いものがありました。史跡巡りの楽しさは、こういったところにあるのではないでしょうか。
 私は、幕末当時に思いを偲ばせながら、「金沢屋」へと向かったのです。

 しかしながら、非常に残念なことに、金沢屋は、昭和20年7月、太平洋戦争中の建物疎開により、家屋は全て解体されてしまい、現在はその面影を残す建物はまったく存在していませんでした。
 『福島市史 近世編U』に記載されている北南町の金沢屋の付近図と現在の町の状況を見比べてみると、幕末の頃の金沢屋は、現在の国道4号線と旧奥州街道が交差する「北町」という交差点の北西角に建つ自動車販売店(日産)より、やや東側に位置していたのではないかと推定されます。
 (11)において書きましたが、金沢屋があったこの北町周辺(昔の北南町)は、旅籠が17軒も密集する非常に賑やかな地域だったのですが、現在はその面影を全く見ることは出来ません。これも太平洋戦争という、大きな戦争の影響なのでしょう……。

 金沢屋跡に着いた私は、一先ず自転車を降り、金沢屋があった場所の付近を少し歩いて散策してみることにしました。
 金沢屋があったと思われる現在の自動車販売店の裏にまわってみると、東西に走る細い道路があります。当時の金沢屋の付近図を見ると(「金沢屋周辺見取り図」参照)、金沢屋の裏口に面したこの道路は幕末当時からあったものと思われ、世良が金沢屋の二階から飛び降りて重傷を負い、仙台藩士らに捕縛された後、客自軒に連れて行かれた際に通ったのは、この道ではないかと思われます。
 また、金沢屋があった場所のほんのすぐ近く、距離にして15mほどの場所に、現在「もみじガレージ」という駐車場があります。
 ここが瀬上主膳が定宿としていた「客自軒」の跡です。
 客自軒跡が現在「もみじガレージ」という名前の駐車場になっているのは、(12)で書いたように、客自軒が後に紅葉館という名前になったことから、その名が付いたのではないかとの想像がつきました。
 また、その「もみじガレージ」から西へ25mほど行った場所に、「明治病院」という病院があるのですが、ここが浅草宇一郎が営んでいた旅籠「浅草屋」の跡です。
 私は、「金沢屋」、「客自軒」、「浅草屋」という世良暗殺事件に非常に縁が深い三つの建物が、こんなに近くに位置していたことに、現地を訪れてみて改めて驚きを感じました。
 文献上ではこの三軒の建物が近い位置に建っていたことは分かっていましたが、やはり実際に現地を訪れてみて、そして自分の目で確認してみないことには、その風景や付近の様子を実感することは出来ません。
 この時、私は改めてフィールドワークの大切さを強く感じました。


(幕末当時の金沢屋周辺見取り図)

(現在の金沢屋周辺見取り図)
(画像)金沢屋周辺見取り図<現在>


 金沢屋の裏から客自軒、そして浅草屋へと続く裏通り。
 ここが仙台藩士らが世良を引きずって客自軒まで運んだ道だと考えると、何とも言えない感慨が私の胸に迫りました。
 私が路上で物思いにふけっている間も、地元の子供達や買い物帰りの主婦、はたまた犬を連れて散歩する人など、様々な人々が金沢屋や客自軒のあった場所を通っていきましたが、この場所が世良が襲撃された場所であり、そして東北の戊辰戦争が起こる大きなきっかけとなった大事件が起こった場所であるということを、おそらく今では知る人は少ないでしょう。
 現在、金沢屋や客自軒の跡には往時を偲べるものは何も残されていませんが、東北の戊辰戦争に関心のある私にとっては、「ここに来て良かった」と感じさせる場所でありました。


(画像)客自軒跡    (画像)北町裏通り
現在の客自軒跡 世良修蔵が金沢屋から客自軒へと連行された裏通り


 金沢屋付近の散策を終えた私は、再び自転車に乗り込み、金沢屋・客自軒跡からさらに北西に位置する「福島稲荷神社」へと向かいました。この神社の境内の一角には、「世良修蔵霊神碑」というものが建てられています。
 つまり、「世良修蔵の墓」ということですが、実はこの墓の中には世良の遺骨等は何も入っておらず、現在空墓になっています。
 後に詳しく書きますが、現在の世良の墓は宮城県白石市の陣場山に建てられており、この福島に建てられている墓は、言わば慰霊碑的な性質のものであると言えましょう。

 福島稲荷神社へと向かう途中、私は浅草宇一郎が営んでいた旅籠「浅草屋」の跡である「明治病院」の付近を少しだけ散策してみました。
 浅草宇一郎の人となりについては、これまでも数多く触れてきたので、ここでは詳しく書きませんが、この浅草宇一郎が経営していた浅草屋には、明治9(1876)年6月に実施された明治天皇の東北巡幸の際、明治天皇に付き従って福島にやって来た明治政府の参議・木戸孝允が宿泊しています。
 世良と同じ長州藩出身の木戸が、世良を襲撃したことに加担した浅草宇一郎の営む宿に宿泊している事実を私が知るに至ったのは、私のWebサイトのゲストであるMさんの掲示板への書き込みに端を発しています。
 Mさんは、山口県の湯田温泉にある有名な旅館「松田屋ホテル」の明治維新史料室に、木戸孝允が浅草宇一郎に与えた「大きな書」があることを私のWebサイトの掲示板に書き込んでくれました。
 木戸自身が、世良を襲撃したことに加担した浅草宇一郎に書を与えていた事実は、私もその時初耳であったので、それ以来そのことが頭の片隅でずっと気になっていたのですが、今回世良修蔵暗殺事件のことを書くにあたり、木戸関係の史料を色々と調べてみて、ある事実が判明したのです。

 明治天皇の東北巡幸が正式に発表されたのは、明治9(1876)年4月24日のことです。
 当時、参議の職に就いていた木戸孝允は、同年6月2日に東京を出発し、6月19日に福島城下に入り、浅草宇一郎が営んでいた旅籠「浅草屋」に宿泊しました。
 『木戸孝允日記』には、その時の様子が次のように書かれています。


「十一字前福嶋に至り淺草屋卯一郎方宿す後楼樓二十畳あり北窓に信夫山を臨み風光甚妙西方に當り小森あり此處世良修蔵首級を埋め近頃白石へ改葬せり」
(日本史籍協会編『木戸孝允日記三』より抜粋)

(現代語訳 by tsubu)
「午前11時前に福島に到り、浅草宇一郎方へ投宿した。大きな建物で二十畳もある部屋の北窓からは信夫山が見え、まことに風光明媚なところである。また、西の方には小森があり、ここは世良修蔵の首級を埋めたところで、近頃白石に改葬されたという」



 木戸の日記の記述によると、木戸は午前11時前に福島城下に入り、浅草屋に入ったことが分かります。
 また、部屋の北窓から見えた信夫山の景色は、非常に素晴らしいものであったことが書かれています。
 木戸が詠んだ和歌の中に、

「みちのくの しのふの里の信夫山 しのふにこえぬ君のまこころ」

 というものがありますが、この歌はおそらく浅草屋から見た景色を詠じたものではないかと思われます。
 また、「君のまこころ」の「君」とは、もしかすると世良のことを詠んでいるのかもしれません。
 前述したとおり、木戸の日記には「西方に當り小森あり此處世良修蔵首級を埋め近頃白石へ改葬せり」と世良自身のことが書かれていますから、十分にあり得ることだと思います。

 木戸は、この19日から21日までの間、浅草屋に逗留しているのですが、想像を膨らませるならば、この間に浅草宇一郎の案内で、すぐ近くにある金沢屋を訪れたことがあったかもしれません。
 前述したとおり、浅草宇一郎は世良襲撃に加担したことを後年悔いていたと思われますから、木戸に当時の模様を詳しく話したのではないでしょうか。
 また、後に書くことになりますが、木戸は白石にある世良の墓所に、和歌一首と一基の石灯籠を献じています。
 これらのことから考えると、木戸は浅草宇一郎と世良暗殺当時の話をしたことは、十分に考えられると思います。
 ちなみに、山口県の湯田温泉にある「松田屋ホテル」の明治維新史料室に展示されている、木戸孝允が浅草宇一郎に与えた書は、福島逗留最後の夜となった21日に、木戸が揮毫したものであることが、次の木戸の日記の内容からうかがい知ることが出来ます。


「一昨日来請書もの数十家無據終に五六十箋揮毫学校額面三枚あり」
(日本史籍協会編『木戸孝允日記三』より抜粋)



 現代語訳するまでもありませんが、

「一昨日から請け負っていた書が数十個あったが、よんどころ無く、ついに五、六十枚も書いた。その中に学校の額面が三枚あった」

 と、木戸は21日の日記に書き記しています。
 松田屋ホテルに展示されている木戸の書は、おそらく福島滞在中に世話になった浅草宇一郎に対し、そのお礼として書かれたものではないでしょうか。

 さて、浅草屋跡を見終えた私は、次に福島最後の目的地である「世良修蔵霊神碑」が建立されている「福島稲荷神社」へと向かいました。
 現在、世良修蔵霊神碑は福島稲荷神社の北東角に建てられていますが、元々は稲荷神社の境内北側に建てられていたそうです。木戸が日記に書いた「西方に當り小森あり此處世良修蔵首級を埋め」の小森とは、この稲荷神社の北側を指したものと思われます。

 金沢屋、客自軒、浅草屋跡から自転車で約5分、私は目的地の「福島稲荷神社」に到着しました。
 私が霊神碑を訪れた時には、そこにはいくつかの花が供えられており、地元の方が供養を行なっていることがうかがい知れましたが、やはり普段は余り訪れる人はいないのでしょうか、霊神碑の周囲にはクモの巣が張っていました。
 私が手帳を取りだし、霊神碑に刻まれた文字を読んでみると、霊神碑の前面には「長藩世良修蔵霊神」と刻まれ、側面には世良と共に斬られた勝見善太郎や後に斬られた松野儀助、従者繁蔵の名が刻まれ、裏面には「慶応戊辰閏四月二十日」と刻み込まれていました。
 実はこの霊神碑、後年に建替えられたもので、現在はその土台のみが明治に作られたものになっています。
 つまり、土台から上の文字が刻まれている部分は後年に付け替えられたものなのです。

 この霊神碑を四方から囲むようにして、四基の石灯篭が建てられています。
 まず、碑の前方に建てられた二つの石灯籠は、向かって右側は薩摩藩士・黒田了介(後の清隆)が明治18年12月に、左側は長州藩士・品川弥二郎が明治21年10月に、それぞれ寄進・建立したものです。
 一番最初の稿にも書きましたが、元々奥羽鎮撫総督府の参謀には、黒田と品川が就任したのですが、彼らはその後その任を辞退し、代わって世良が参謀として東北に赴任することになりました。
 黒田と品川の両名と世良との間にはこういった一つの因縁があり、二人は世良が殺害されたことを知り、やはり一種の良心の呵責にさいなまれたのではないでしょうか。
 今となってはその理由は定かではありませんが、二人は自分らの身代わりのように死んでいった世良の菩提を少しでも弔おうと考え、福島の世良の霊神碑に石灯籠を寄進したものと思われます。世良の暗殺については、黒田と品川は彼らなりの責任を感じていたのかもしれません。
 私がその二つの石灯籠を調べてみると、左側の灯篭の「品川」の文字は今でもはっきりと刻み込まれており確認することが出来ますが、右側の黒田の灯篭の文字については、長年の風化によって現在ではまったく判別することが出来なくなっています。

 次に、後方に建てられた二つの石灯籠ですが、右が橘正風、左が橘正郎という人物が建立したものと言われています。(二つとも橘正風が建てたという説もあります)
 この橘正風と橘正郎は、世良が殺害された後、同じく仙台藩士によって斬られた長州藩士・野村十郎の兄弟で、橘正風は、野村十郎の兄にあたる野村三千三(のむらみちぞう)という人物のことです。
 野村三千三、どこかで聞き覚えのある名前と感じられる方も多いのではないでしょうか。
 そう、野村三千三とは、後の陸軍の御用商人となった「山城屋和助」のことです。当時、陸軍大輔を務めていた山縣有朋と癒着し、陸軍の公金を横領した「山城屋和助事件」は、明治史においても非常に有名な横領事件として後世に伝わっています。
 この野村三千三こと山城屋和助の寄進した石灯篭が、世良の霊神碑の側に建てられているのにはある理由があります。

 実は当初建てられていた「世良修蔵霊神碑」には、山城屋和助の弟である野村十郎の名が刻まれていたため、山城屋はその弟の菩提を弔うべく、その碑の近くに石灯籠を寄進しました。
 しかし、後に野村の墓と碑が別の場所に移転して作られることになったため、大正5年に霊神碑が建替えられることになり、その際に碑から野村十郎の名が除かれることになったのですが、なぜか山城屋が寄進した石灯籠だけは、そのまま世良の霊神碑の側に残される形になったのです。
 以上のような理由から、現在世良の霊神碑の側に山城屋の石灯籠が建てられているというわけです。
 ただ、山城屋和助自身も世良と同じく長州奇兵隊の出身ですから、関係者も山城屋の石灯籠をわざわざ移転しようとはせず、そのままにしておいたのかもしれません。
 また、この霊神碑の裏側に一つの和歌が刻まれた歌碑が建っていますが、これも山城屋和助が建立したものと伝えられています。

「しのぶれば その五月雨の夕まぐれ なみだの川のなみならぬかな」

 弟を亡くした兄の気持ちを表したものなのでしょう。


(画像)浅草屋跡    (画像)世良霊神碑
木戸孝允が宿泊した浅草屋跡 世良修蔵霊神碑


 世良修蔵霊神碑を見終えた私は、福島の旅の最後を締めくくるべく、世良が処刑された阿武隈川の川辺を見に行きました。
 私自身の個人的な感想としては、現在に残されている史料等を総合的に判断しても、世良修蔵という人物が、東北の地において、奥羽諸藩のために良いことをしたとは思えない部分が多いです。
 世良のことを悪く書く史料や書籍が多いのも、ある程度納得せざるを得ない部分も多いかと思っています。

 ただ、歴史とは、「悪」と「善」という単純な二つの要素に分けられやすいものですが、事実はそんなに簡単に割り切れるものではないとも思うのです。
 世良暗殺事件に関しても、討たれた世良も、そして彼を討った仙台藩士らも、それぞれ自らの正義を信じながら行動していたことに変わりはないと思います。
 そして、そこに「悪」や「善」の区別など単純に付けようがないというのが、私の持論でもあり、そして善悪の区別を付けることが出来ないのが、「歴史」そのものだとも思っています。


(15)に続く




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