「会津藩と薩摩藩の関係(前編)−「会津藩馬揃え」を中心に−」
-会津と薩摩はなぜ提携するに到ったか?-

(画像)鶴ヶ城
鶴ヶ城(福島県会津若松市)



(1)序章 −会津藩のターニングポイント−
 私は以前から会津藩の歴史に非常に興味を持っています。
 『敬天愛人』という薩摩藩の西郷隆盛のテーマを中心に扱うサイトを管理している私が、会津藩に興味を持っていること自体を不思議がる方もおられるかもしれませんが、私は幕末史における会津藩の動きというものは、非常に重要であると考えています。

 一般的に知られている通り、幕末期の会津藩は、藩主・松平容保(まつだいらかたもり)が京都守護職を務め、当時の天皇であった孝明天皇の信任が非常に厚く、幕末の京都の政局を薩摩藩と共に一時リードした藩です。
 しかしながら、最終的にその会津藩は「朝敵」の汚名を受けることになり、戊辰戦争では約一ヶ月間にも及ぶ篭城戦を繰り広げ、一藩玉砕の歴史を辿ることになりました。
 そのため、よく会津藩の歴史を「悲劇の歴史」と呼ぶことが多いのですが、私は会津藩の歴史を「悲劇」という二文字だけで片付けたくはありません。
 会津藩が一時期幕末の政局のリーダーシップを握りながらも、最終的に戊辰戦争に突入せざるを得なくなったのには、「悲劇」という二文字だけでは片付けられない、必ずやその理由や藩の命運を左右した分岐点、すなわち歴史上のターニングポイントがあったはずなのです。

 戦争というものは「勝てば官軍、負ければ賊軍」や「勝敗は兵家の常」という言葉に表されるように、勝敗は時の運によっても決まり、また、非情なことながらも必ず勝者と敗者という二つの立場を作り分けるものです。
 薩摩藩や長州藩は「鳥羽・伏見の戦い」で勝利し、最終的には歴史の勝者側となったものの、先程述べた歴史上のターニングポイントにおいて、一歩でもその判断や選択を間違っていたとすれば、もしかすると会津藩と立場が逆になっていたかもしれません。
 それほど幕末の政局は、常に変動的であり不安定で、いつどこでどう転ぶか分からないものであったのです。

 私は「会津藩がなぜあのような運命を辿ってしまったのか?」という理由や原因と「会津藩の歴史上のターニングポイントがどこにあるのか?」という点に非常に興味を持っています。この会津藩のターニングポイントを考えることは、「幕末史」という大きな歴史の中の一つのターニングポイントを探ることにも繋がり、幕末史全体の流れを理解することにもなると私は考えています。
 つまり、会津藩のターニングポイントを知ることは、幕末史のターニングポイントを知ることにも繋がってくると考えているのです。

 文久3(1863)年8月18日に起こった「八月十八日の政変」は、会津藩にとっても、そして幕末史にとっても、一つの大きな歴史上のターニングポイントとなりました。
 当時、尊皇攘夷派の急先鋒であり、朝廷を陰から操ることによって政局をリードしていた長州藩は、この「八月十八日の政変」により、一気に朝廷内での勢力や実権を失い、京の都を追われることになります。
 この「八月十八日の政変」という大きなクーデターで、当時隆盛を極めていた長州藩が京都から追い落とされることになったのは、当時京都守護職を務めていた会津藩と薩摩藩という二大雄藩が提携(同盟)したことが大きな原因となっています。会津と薩摩、この両藩が提携しなければ、「八月十八日の政変」という一大クーデターは成功しなかったどころか、発生することも無かったであろうと考えられます。

 会津藩と薩摩藩の提携については、従来幕末を扱った小説・ドラマなどで必ずと言っても良いくらいに取り上げられていますが、実際どのような経緯を経て、両藩の提携が成り立ったのかについては、ほとんど詳細に取り上げられることがありません。
 いつもよく描かれるのは、薩摩藩士の高崎佐太郎(たかさきさたろう)という人物が、急にどこからともなく登場して、会津藩側に接触を求め、会津と薩摩の提携を提案し、それに会津藩側が同意し、簡単に両藩の提携が成ったかのような形です。
 しかしながら、実際のところはこの両藩の提携が成る過程については、非常に複雑な歴史的背景や経緯が存在し、また、当時の両藩の思惑や考え方なども随分違っているため、両藩の提携は突発的に、そして簡単に結ばれたものではなかったのです。

 今回の「テーマ随筆」では、会津藩の歴史上のターニングポイントの一つともなったと考えられる「薩摩藩との提携(同盟)」、そして「八月十八日の政変」、この二つの事件を中心にして、会津藩側から見た幕末史、薩摩藩との関係、そして両藩の間で結ばれた同盟の性格などをより深く、そして詳細に検証していきたいと考えています。
 今回の前編では、「会津と薩摩がなぜ提携するに至ったのか?」と「その契機となったものは何だったのか?」を中心にして構成していきたいと考えています。それも薩摩藩側からではなく、会津藩側から見た視点を中心に書いていくつもりです。


(2)に続く




次へ
(2)会津藩と薩摩藩の提携の契機について


「テーマ」随筆トップへ戻る