「会津藩と薩摩藩の関係(前編)−「会津藩馬揃え」を中心に−」
-会津と薩摩はなぜ提携するに到ったか?-


(2)会津藩と薩摩藩の提携の契機について
 「会津藩と薩摩藩の提携」について触れる前に、前回の序章で紹介した会津と薩摩の提携を描く際には必ずと言って良いほどに登場してくる薩摩藩士・高崎左太郎のことについて、最初簡単に触れてみたいと思います。

 高崎佐太郎は、後に正風と名乗り、宮内庁の御歌所長などを務めた宮廷歌人として、明治後の歴史上にその名を残しています。
 幕末期、高崎は薩摩藩主の実父であり権力者でもあった島津久光の懐刀として、薩摩藩の公武合体運動を推進するべく活躍しました。
 少し話がそれますが、高崎佐太郎という人物は、幼少・青年期には非常に不遇な運命を歩んだ人です。彼の父である高崎五郎右衛門は、薩摩藩のお家騒動「お由羅騒動」に連座し、切腹させられています。「お由羅騒動」が別名「高崎崩れ」とも呼ばれているのは、処罰された斉彬派の中心人物に佐太郎の父である高崎五郎右衛門が居たためなのです。
 この「高崎崩れ」を極簡単に説明するならば、島津斉彬とその異母弟である島津久光との間に生じた家督争いに起因したお家騒動のことです。結果、斉彬派が大処罰を受け、その頭領格であった高崎五郎右衛門も切腹を命ぜられ、そしてその罪は子供である左太郎にも影響を与えました。当時、左太郎はまだ13歳の少年だったのですが、嘉永4(1851)年に15歳になるのを待って奄美大島に遠島されることになり、彼の遠島生活はその後三年にも及んだのです。
 このように高崎は若い時分から大変苦労をしている人物なのですが、彼が後に島津久光に重用されて、その後薩摩藩の公武合体運動に挺身することになります。高崎は父親の敵の片割れともいうべき久光に後年は仕えることになるのですから、この辺りにも歴史的な奇縁を感じてしまいます。

 久光の下で高崎が行なった運動の中でも、とりわけ最も功績が大きかったのが、文久3(1863)年8月に結ばれた「会津藩と薩摩藩の提携(同盟)」です。高崎は久光の意を含んで会津藩との提携を画策し、そして両藩の提携を成立させることに成功しました。この会津と薩摩の提携によって、「八月十八日の政変」という大きなクーデターが起こり、公卿の三条実美以下急進派と呼ばれていた公卿七名とそれを後押ししていた長州藩が京都から追い落とされることになるのです。(いわゆる「七卿落ち」と言われる事件です)
 この「八月十八日の政変」が起こるきっかけとなった会津と薩摩の提携については、幕末薩摩藩史の大家であられる芳即正氏が、その著書『島津久光と明治維新』の中で、藩主の実父であり、当時の薩摩藩内の権力者であった島津久光から、何らかの指示が出ていたことは間違いないとの見解を述べられておられます。
 少しその部分を抜粋してみます。


「それにしても久光はもちろん、家老の小松帯刀をはじめ大久保利通など実力者のいない京都藩邸が独自の判断で、これだけの大博打がうてたわけではなく、実は、その直前帰国した奈良原幸五郎に指示して実行させたもので、その首謀者は国元の久光であった」
(『島津久光と明治維新』(芳即正著)P124より抜粋)



 島津久光という人物は統制主義の申し子と言っても良いくらい、藩士達が自分の意志に反して勝手に行動を起こすことを忌み嫌い、藩内の統制に関しては非常に厳しい人物でした。
 例えば、文久2(1862)年4月23日、京都伏見の船宿「寺田屋」において、薩摩藩内で倒幕を目指す一派と久光から派遣された鎮撫士との間で、薩摩藩士の同士討ち事件(寺田屋事件)が起こったのは、この久光の厳格な統制主義に起因しているものです。
 ただ、薩摩藩がこの寺田屋事件を始めとする、あらゆる事件や困難が生じながらも、明治維新の最終段階まで挙藩一致で行動を起こすことが出来たのは、久光という統制主義者が厳しく藩内を束ねていたからであると言っても過言ではないでしょう。
 明治維新において、薩摩藩があれだけの活躍と存在感を示すことが出来たのは、久光の統制主義の元に、西郷や大久保といった有能なリーダー達がよく実務をこなしたからであると思います。久光の統制主義と西郷や大久保の突出したリーダーシップや政治力との間の歯車が上手く合わさった結果、薩摩藩が明治維新における大きな原動力を生み出したと私は考えています。

 少し話がそれましたが、このような久光の性格から考えると、会津藩と薩摩藩の提携に関して、当時久光の側近であった大久保一蔵(後の利通)など、藩内の重要人物が居ない京都の薩摩藩邸が、会津藩との提携を独自で進めるということは絶対にあり得ないと私も思います。
 少しだけ補足しますが、当時京都の薩摩藩邸に薩摩藩の重要人物が居なかった原因は、前年に起こった「生麦事件」に起因した薩摩藩とイギリスとの間の関係悪化によるものです。
 当時国元の薩摩藩では、「生麦事件」に対するイギリス側の報復行動に備えて、臨戦態勢を整える必要があったため、当時の京都方面は人物的にも兵力的にも手薄にならざるを得なかったのです。実際この年(文久3(1863)年)の7月には、生麦事件の報復のためと称して、イギリス艦隊が薩摩にやって来て「薩英戦争」が起こっているのを見ても、当時の薩摩藩内の緊張度の高さがうかがえると思います。
 このように、当時の薩摩藩はイギリス艦隊の来襲に備える必要があったため、京都に兵力を置き、重臣を長く滞在させることが出来なかったと言えましょう。

 話を進めますが、芳氏はその著書『島津久光と明治維新』の中で、「8月4日に京都に入京した奈良原幸五郎(後の繁)に、島津久光が「長州藩追い落としのクーデター計画」を指示していたのではないか?」と書かれているのですが、この記述を読んで私の長年の疑問も氷解しました。
 実は、私も以前から「久光は奈良原にクーデター計画を授けていたのではないか?」と漠然と考えていたからです。久光が計画の指示を出したとするならば、当時薩摩から上京してきた奈良原に策を授ける以外に方法が無いと考えていたからです。
 ただ、この一件を裏付ける久光の奈良原に対する指示書類等の史料は、現在まったく残っていません。おそらく事は秘密を要することであり、口頭での指示であったので、書類には残らなかったのだと考えられます。
 島津久光が、長州藩を京都から追い落とすための「クーデター計画策」を指示した奈良原幸五郎という人物も、高崎佐太郎と同様に久光の信任が厚かった腹心の一人です。
 あくまでも想像ですが、久光は奈良原に対して、「高崎と共同して事を謀れ」と命じていたのかもしれません。

 さて、そこで一つの疑問がわいてきますが、久光は実際に奈良原に対して、「会津藩と手を組め」と具体的な指示を出していたのかどうかが問題となってくると思います。
 前述したとおり、薩摩と会津の提携に関する久光の指示書なるものは、現在一つも残されていませんので、これについては推測するより他はないわけですが、芳氏は『島津久光と明治維新』の中で、「まず信頼できる協力藩を探すこと」という指示を出していたのではないかという見解を示されています。
 ここからは私の私論も挟みますが、やはりその協力藩としては、当然久光の口からは第一に「会津藩」の名が挙がっていたのではないでしょうか。
 当時の会津藩主・松平容保は京都守護職を務め、孝明天皇のおぼえも目出度く、京都では非常に大きな勢力を持っていましたから、まず「手を組むなら会津藩」という前提の元での指令であったろうことは十分に考えられることです。
 つまり、久光自身から「情勢を見届けた上で、会津藩と提携せよ」という具体的な指示が出ていたのではないかと私は推察しています。

 推測を挟んで書きましたが、奈良原はこのような久光の命令を受けて上京してくるわけですが、その後、奈良原や高崎が提携する藩を会津一藩に絞ったのは、次に書く一つの事件が大きな影響を与えたのではないかと私は考えています。
 少し整理して書きますが、奈良原が久光の命を受けて京都に入ったのが、「八月十八日の政変」が起こるちょうど二週間前の文久3(1863)年8月4日のことです。そしてその翌日の8月5日に、会津藩を含めた五藩(会津・阿波・因州・備前・米沢藩)による「天覧の馬揃え(てんらんのうまそろえ)」が京都の御所の前において催されました。
 「天覧の馬揃え」とは、天皇が諸藩の兵隊の調練の様子を閲覧する、いわゆる観兵式のことです。
 会津藩の馬揃えに関して言えば、その前月の7月30日にも行われており、非常にその評判が良かったことが当時の薩摩藩関係者の書簡の中に出てきます。
 薩摩藩に内田政風という人物がいますが、この内田が文久3(1863)年8月5日付けで、当時薩摩に居た久光の重臣である大久保一蔵と中山中佐衛門の両名に宛てた書簡の中で、自藩の者が会津藩の馬揃えを見物してきた時の様子を次のように書き送っています。


「肥後守様ニも馬上ニて御出馬、士分以上ハ甲冑ニて銘々姓名実名迄相記候小旗を後ニさし、槍を自分ニ携え、其以下ハ歩足・具足・隊将ニても可有之哉、馬上も段々相見得居候、殊之外立派之行列ニて、壮観目ヲ驚したる咄ニ御座候」
(『鹿児島県史料・忠義公史料第三巻』より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
「会津公・松平肥後守容保様も馬上にて出馬され、士分以上の者は甲冑を着込み、各々姓名が分かる小旗を後ろに刺し、槍を携えており、それ以下の者には歩兵や甲冑を着ている者、隊将などでしょうか。馬上の者もたくさん見られ、殊のほか立派な行列で、人々の目を驚かせるような立派なものであったという話でした」



 この内田の書簡の記述によると、会津藩の馬揃えの兵隊行列は、非常に立派な装いであり、衆目を驚かすほど立派なものであったのです。
 特に、

「壮観目ヲ驚したる咄ニ御座候」

 と書かれてある部分は、大変な誉め言葉ではないでしょうか。
 また、会津藩の馬揃えについては、その他、高崎佐太郎が国元の大久保達に宛てた書簡の中にも出てきます。
 私は、会津藩が立派な「天覧の馬揃え」を二回に渡って実施したことが、会津と薩摩を提携させる一つの大きな契機になったのではないかと考えています。
 つまり、「情勢を見極めた上で会津藩と手を組め」というような久光の意向(指示)を受けて上京してきた奈良原が、その翌日に実に立派な「馬揃え」を行なう会津藩の様子を見て、「これはやはり会津と組むのが一番良い」と確信を深めたのではないでしょうか。奈良原が上京し、その後急速に薩摩藩が会津藩に接近を試みることになったことを考えると、この会津藩の天覧の馬揃えが、会津と薩摩の両藩を結びつける大きな契機となったと考える方がスムーズに理解出来るのではないかと思います。

 当時、大きな勢力を誇っていた長州藩を京都から追い落とすクーデターを起こすとなると、薩摩藩としては、やはり兵力をどれだけ保有しているかという点とその兵隊達の軍事能力、つまり軍事的な優秀さが、提携に向けての条件の大きな判断基準の一つになっていたのではないかと思います。
 前述しましたが、薩摩藩は生麦事件が原因によるイギリスとの関係悪化のため、当時は国元の薩摩に兵力を温存しておかなければならなかったため、多数の兵力を京都に駐在させることが出来ませんでした。そのため、奈良原や高崎が提携の相手として、多数の兵力を持ち、なおかつ軍事的にも優秀で立派な馬揃えを行なった会津藩を選び、そして接近しようと試みたのは、非常に無理のないことであったと考えられると思います。


(3)に続く




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(3)「会津藩の天覧の馬揃え」と
「真木和泉の大和行幸計画」について



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