「会津藩と薩摩藩の関係(前編)−「会津藩馬揃え」を中心に−」
-会津と薩摩はなぜ提携するに到ったか?-


(15)会津藩の「天覧の馬揃え」C
 一回目の会津藩の馬揃えが行なわれた翌日の8月1日、朝廷から容保に対して、次のような詔が与えられました。
 『京都守護職始末』には、分かりやすくそれを読み下したものが記載されていますので、それを抜粋してみます。


「馬揃え叡覧の儀、雨天に候わば日送りのはずに候ところ、俄かに御覧あそばさるべき旨仰せ出だされ、いささかの差支えもなく大軍火急にさし出し候段、かねて武備充実、行届き候段、深く叡感思し召され、じつに御頼母しく思し召し候」
(山川浩『京都守護職始末・旧会津藩老臣の手記1』より抜粋)



 まさに会津藩の馬揃えを絶賛している詔であると言って良いでしょう。
 また、孝明天皇の会津藩にかける期待が、文面からもにじみ出ているように感じます。
 特に、この詔の最初の部分に、

「馬揃え叡覧の儀、雨天に候わば日送りのはずに候ところ」

 と書かれていますが、この辺りに当時の孝明天皇の苦衷が読み取れるのではないでしょうか。
 つまり、孝明天皇としても、雨の中、会津藩に馬揃えを実施させるのは非常に気の毒だと思っていたのですが、尊皇攘夷派の息のかかった急進派公卿達の雨天決行の主張に対し、それに反対することが出来ず、結局は実施命令を出さざるを得なくなってしまった。そのため、会津藩に対し、「そのことは申し訳なかった」という気持ちを暗に示すために、「雨天に候わば日送りのはずに候ところ」という前文を敢えて入れたのではないかと思います。この当時の勅書には、こういう何気ない文面の中に、意外な考えや思いが込められている場合が多いので、注意を払いながら読むべきではないかと思います。

 さて、このようにして、7月30日に行なわれた最初の馬揃えは成功に終わったのですが、8月3日、朝廷から会津藩に対して、「次回の馬揃えは、8月5日に行なう。当日は午前8時に集合、10時に調練を開始するように」という沙汰が下ります。この沙汰を受けた松平容保は、ここから新たな行動を始めるのです。
 以前詳しく書きましたが、容保は次回の馬揃えの際に、鉄砲や大砲などの銃火器等の使用許可を求めるべく、8月4日に因州鳥取藩主・松平慶徳を黒谷の金戒光明寺に招き、その許可が下りるように朝廷への尽力を依頼しました。そして、松平慶徳はその容保の依頼を受けて、朝廷に対して運動を起こし、容保が希望した銃火器使用の許可を得ることに成功するのです。
 これまで何度も書いてきましたが、容保が銃火器を使用する大掛かりな馬揃えを希望した理由は、孝明天皇の期待に応えるべく、尊皇攘夷派に対する牽制を行なおうとしたのが一番の理由であったと思います。

 そして、迎えた文久3(1863)年8月5日。
 いよいよ会津藩の二回目の馬揃えが行なわれるのですが、その時の模様を会津藩側の史料からではなく、この後、会津藩と提携することになる薩摩藩側の史料から書いてみたいと思います。
 馬揃えを実施した当事者である会津藩側の史料には、良いことしか書かれていないのは当然ですから、ここは第三者の立場から見た馬揃えはどういうものであったのか? について書きたいと思います。特に、後に提携を結ぶことになる薩摩藩側が、この馬揃えをどのように見ていたのかを中心にして、今から書いていきたいと思います。
 以前から書いていますが、この会津藩の馬揃えは、後の会津藩と薩摩藩の提携に大きな影響を与えているものと私は考えています。薩摩藩がクーデターを起こすべく計画を練っていた時に、「どの藩をそのパートナーに選ぶか?」ということについて、会津藩が盛大な馬揃えを行なったことは、薩摩藩の選択に必ず大きな影響を与えたものであると考えているからです。
 以前に少し紹介しましたが、当時京都にいた薩摩藩の内田政風という人物は、文久3(1863)年8月5日付けで、鹿児島の大久保一蔵と中山中佐衛門の両名に宛てた書簡の中で、自藩の横田鹿一郎という人物が、会津藩の馬揃えを見物してきた時の様子を次のように書き送って報告しています。その部分を抜粋します。


会藩、壱月晦日、馬揃且調練、
天覧日之御門前ニ而有之、同日ハ大雨ニ付半より取止罷成、今日また御座候、今日横田鹿一郎 陽明家江参殿候処、 御同所御門前行列通行ニ付見物仕候由、肥後守様ニも馬上ニて御出馬、士分以上ハ甲冑ニて銘々姓名実名迄相記候小旗を後ニさし、槍を自分ニ携え、其以下ハ歩足・具足、隊将ニても可有之哉、馬上も段々相見得居候、殊之外立派之行列ニて、壮観目ヲ驚したる咄ニ御座候」
(『鹿児島県史料・忠義公史料第三巻』より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
会津藩が7月30日に馬揃えの調練を行なった。
日之御門(建春門)の門前にて帝による天覧が行なわれたが、同日は大雨であったので、調練は途中で中止になり、今日8月5日にまた実施されることになった。今日、横田鹿一郎が近衛家に参殿したところ、その門前を会津藩の行列が通行したため、馬揃えを見物したそうである。松平容保公は馬上にて出馬され、以下続く士分以上の者は、甲冑を身にまとい、各々姓名が分かる小旗を後ろに差して、槍を携えいた。その他にも、歩兵や具足を付けている者、隊将のような者もいた。また、馬に乗っている人も見え、殊の外立派な行列であったので、壮観なその行列の姿に非常に驚いたという話であった」



 ある一人の薩摩藩士が見た会津藩の馬揃えの様子は、このように驚くべき立派な姿であったことが、この記述からもうかがい知れると思います。

「壮観目ヲ驚したる咄ニ御座候」

 という部分は、最大級の誉め言葉だと言っても過言ではないでしょう。
 高崎が国元への報告書にその話を書いているくらいですから、当然この会津藩の馬揃えの話は、当時京都にいた薩摩藩の首脳部にも聞こえたでしょうし、このことが薩摩藩が会津藩を提携相手に選ぶ大きな原因になったことは想像に難くないと思います。

 これまで何度も書いてきましたが、当時の薩摩藩の在京兵力は非常に少数であり、薩摩藩がこの形勢を挽回するためには、どうしても強力な兵力(武力)の背景が必要でした。
 薩摩藩が会津藩に近づいた大きな理由は、会津藩の兵力に目を付けたからであることは間違いないと思います。そして、そのきっかけを作ったのが、この会津藩の馬揃えであったと解釈するのは、自然な解釈であり、事実そうであったと私は考えているのです。

 さて、この二回目の馬揃えには、もう一つ重要な着目点があります。
 前述しましたが、この馬揃えでは容保が望んだ銃火器の使用が認められていたため、非常に大掛かりなものとなったことです。そのことについて、『贈従一位池田慶徳公御伝記』には、次のように書かれています。


「松平肥後守が操練、益盛んに、殊に是日は、空銃発射を差許されたれば、威容前回とは立ちまさりて見ゆ」
(鳥取県立図書館編『贈従一位池田慶徳公御伝記(二)』より抜粋)



 現代語訳するまでもないと思いますが、この日の会津藩の馬揃えは銃火器を使用したため、非常に大々的であり、そして前回よりもさらに立派に見えたことが、この記述から分かると思います。
 少しここで話をまとめますが、池田慶徳が馬揃えを建議した理由を以前二つ挙げました。その中に、荒々しい軍事調練を公卿達に見せることによって、彼らに戦争の怖さを教え、攘夷親征の儀を取り止めさせるように仕向けようと考えていたのではないか、と私は推測しました。
 この二回目の馬揃えでは、会津藩が銃火器を使用出来たため、そのことについて非常に効果が出ていたことが、8月8日、当時京都に滞在していた薩摩藩士・高崎左太郎(正風)が、鹿児島の大久保一蔵と中山中左衛門の両名に宛てた手紙の中に出てきます。長いですが、その部分を少し抜粋してみます。


去ル六日、會藩・因州・備前・上杉・阿波五藩調練於日之御門前、
叡覧巳之半刻より始、初夜過相済候、此節は発砲いたし候処、堂上公卿殊之外御恐怖、或は未前ニ御暇も有、或央ニて御退出も有之、或は始より発砲ノ事を聞て不参等、三條卿御引入中押て御参内之処、別て御恐怖始終コハイコハイと被仰候由、前殿下御話ニて御座候
(『鹿児島県史料・忠義公史料第三巻』より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
去る六日(これは五日の間違い)、会津藩・因州鳥取藩・備前岡山藩・米沢藩・阿波徳島藩の五藩が、日之御門(建春門)の門前にて馬揃えの調練を行なった。
天覧は、午前11時頃から始まり、午後8時過ぎに終わった。今回の馬揃えでは、鉄砲や大砲の発砲があったので、公卿達は殊の外それを恐怖し、調練が始まる前に欠席を申し出る者、また調練の途中で退出する者、あるいは今回は発砲があることを聞いて、最初から参内しなかった者などがいた。特に、三条実美卿は、この当時病気で自分の邸宅内に引き篭もっておられたのだが、それを押して参内したところ、調練の間中恐怖を感じ、「コワイ、コワイ」とずっと仰っていたそうで、これは近衛前関白殿下のお話であります。



 銃火器の発砲を伴った二回目の会津藩の馬揃えが、いかに公卿達を恐怖させたかが、この高崎の書簡からよく分かります。この公卿達の恐怖感情を考えると、池田慶徳や松平容保といった攘夷親征反対派の思惑は、非常に的を得たものになり、そして功を奏したとも言えるでしょう。
 特に、高崎の手紙の中に、当時尊皇攘夷派の旗頭ともなっていた三条実美が、調練の間中、非常に脅えていた話が出てきます。「コワイ、コワイ」と始終言っていたというくらいですからね。
 当時の三条実美という人物は、長州藩を中心とした尊皇攘夷派に持てはやされ、いいように担がれて有頂天になっていたということは以前書きました。三条らは、口では非常に荒々しいことを発言して朝議を混乱させていたのですが、元来三条も典型的な公卿ですから、実際に軍事調練の様子を見て、恐ろしくてたまらなかったのでしょう。三条のこの態度は、当時の公家一般の感情を表しているのではないかと思います。

 ただ、この頃の三条には、大きな心の変化が表れていたことをうかがわせる史料が残っています。同じく薩摩藩士・高崎左太郎が、8月5日付けで大久保一蔵と中山中左衛門の両名に宛てた手紙の中に、当時の三条の様子を書いた記述が出てきます。


「三條卿脚気症ニて、先日より引入候段承居候処、昨日は、土藩人参、此頃ニ至、余程悔心相生候由ニ候共、何分今迄暴行も相累候事故、今更改候ては浪士輩ニも被棄、正論家も不容、何処ニも相離孤立之勢可相成、苦心之余過日は、追々は入道遁世いたし度との内話迄有之位之事故、病気ハ聊ニて候得共、引入候由咄申候」
(『鹿児島県史料・忠義公史料第三巻』より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
「三条実美卿は脚気症にて、先日から邸宅に引き込んでいるという話を聞いていたところ、昨日は土佐藩の人々(中山源太兵衛、福富健次、下許武兵衛の三人)が我らのところにやって来て次のような話をした。「三条卿はこの頃になって非常に後悔の念が強く生じているらしいのだが、何分今まで天誅などの暴力行為が続いているので、今更改心したと言ってしまっては、尊皇攘夷を唱える浪士達にも見捨てられ、また、今まで正論を唱えていた人々達にも受け入れられない。なので、このままではいずれにも付くことが出来ず、孤立してしまう状態になってしまう。三条卿はその事に苦心して、悩んでいる日々を過ごされており、追々は出家して隠遁したいということを話されているそうである。」三条卿は少しは病気であるらしいが、こういう理由で邸宅に引き篭もっているという話である」



 高崎は書いたこの文面からは色々なことが分かります。
 一つは、三条が当時邸宅内に引き込んでいた理由、そしてもう一つは、過激な論を吐いていた三条自身が、当時はそのことを非常に後悔していたことです。
 高崎はこの記述の後、「この三条についての話が事実であるかどうか確かめるために、色々と探索したところ、三条家と土佐藩山内家は親類関係にあるので、三条家に親しく出入りしている土佐藩関係者に対し、三条はそのことを話したのであろう。これは事実に相違ないと思われる」と書いています。
 高崎ら薩摩藩関係者が調べ上げた通り、私もこの三条の話は事実であろうと思います。
 以前にも書きましたが、公卿という人々は、権威などの体面ばかりを気にし、そして基本的に非常に臆病な性格の種類の人種です。三条実美は、尊皇攘夷派から持てはやされ、そしていい気におだてられて、過激な論を吐き、そして色々と強引なことを今まで進めてきました。
 しかし、大和行幸や攘夷親征など、事態が自分の考えにも及ばないような、非常に大きくなっていることについて、おそらくこの頃の三条は、自分が今までしてきたことに不安や恐ろしさを感じていたのではないでしょうか。当時の三条の心境は「後悔先に立たず」という感じで自分の行動を悔いていたように思います。
 この三条は、結局「八月十八日の政変」により、都を追われて長州に落ち延びることになり、その後苦難の日々を過ごすことになります。
 しかしながら、最終的にはその経験がモノを言って、明治以後は太政大臣にまで出世することになるのですから、良い悪いは別にして、長期的に見れば、彼は幸運な人物であったと言えるかもしれません。三条の生涯一つを見ても、歴史とはどこでどう転ぶか分からない、ほんとうに生き物であるような気がします。

 これまで書いてきましたとおり、池田慶徳の建議によって実施されることになった天展覧の馬揃えは、会津藩の優秀な軍事力を世に示すこととなり、それを薩摩藩が注目したことにより、両藩の提携が急速に加速することに繋がります。
 会津藩が大々的に馬揃えを行なおうとしたのは、これまで色々と検証してきたとおり、そこに秘められた孝明天皇の真意を読み取った末での尊皇攘夷派に対する一種の示威行動でした。
 しかしながら、そのことが薩摩藩との提携の大きな契機となったのは、「瓢箪から駒」ではありませんが、当初池田慶徳や松平容保が考えた馬揃えを実施した際の効果、影響力とは違った結果を生み出すことになったのです。
 この辺りのことを考えると、非常に歴史は面白いと思いませんか?
 様々な複合的な事象が積み重なり、化学変化のように違った効果、影響が出るというのは、やはり歴史ならではのことだと思います。

 これまで15回にわたって会津藩と薩摩藩が提携に向かう歴史的背景とその契機となったであろう会津藩の「天覧の馬揃え」について書いてきました。
 前編はここで筆を置きますが、後編はいよいよ馬揃えを見て会津藩に近づくことを決心した薩摩藩の動きと会津藩と薩摩藩の提携に向かう過程と経緯、そして「八月十八日の政変」という一大クーデターのことについて書いていきたいと思います。
 後編も長くなるとは思いますが、どうぞご期待下さい。


後編に続く




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