「会津藩と薩摩藩の関係(前編)−「会津藩馬揃え」を中心に−」
-会津と薩摩はなぜ提携するに到ったか?-


(14)会津藩の「天覧の馬揃え」B
 前回では、馬揃えを命じられた会津藩側の反応を中心に、そして会津藩主・松平容保の胸中に、馬揃えに対する認識の変化が生じてきたことを書きました。
 前述しましたが、松平容保は7月28日に行なわれる予定であった馬揃えの際に、銃火器の使用を朝廷に対して求めていたのですが、それは結局認められませんでした。
 前回、豊岡随資という尊皇攘夷派の息のかかった公卿の話を少し書きましたが、長州藩を中心とした尊皇攘夷派が思うがままに操れる公卿達を手先に使って、会津藩の馬揃え実施に関して、色々な横槍を入れていたことは間違いない事実だと思います。この尊皇攘夷派による横槍については、後にも出てきますので、それはその時になってから書きたいと思います。

 さて、会津藩が天覧の馬揃えを行なうように命じられたのが、文久3(1863)年7月24日のことですが、この日から馬揃えの実施までの間に様々な事件が起こっています。
 代表的なものを一つ挙げると、二日後の7月26日には、京都東山にある高台寺が何者かの手によって放火される事件が起こりました。この放火は尊皇攘夷派の手によるものだったのですが、なぜ高台寺が焼き討ちされたのかと言いますと、当時公武合体派の中心人物の一人であった前越前福井藩主・松平春嶽が兵を率いて京都に入り、武力をもって尊皇攘夷派を一掃するという風説が京都に流れたためです。
 実はこれはまったくのデマだったのですが、その春嶽の京都滞在の際の宿舎が高台寺に指定されていたことから、尊王攘夷派は高台寺を焼き討ちしようと考えたのです。
 8月5日、当時京都に滞在していた薩摩藩士・高崎左太郎(後の正風)は、国許鹿児島の大久保一蔵と中山中左衛門の両名に宛てた手紙の中で、高台寺の放火について、次のような張り紙があったことを報告しています。


七月廿六日高臺寺焼失、御旅町辺張紙有之
高臺寺奸僧共朝敵松平春嶽江寄宿差免候段、不届至極ニ付、以神火焼捨候畢、向後右様之者於有之は、可処同罪者也
(『鹿児島県史料・忠義公史料第三巻』より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
7月26日高台寺が焼失、京の御旅町辺りには、次のような張り紙があった。
「高台寺の奸僧共が、朝敵である松平春嶽を寄宿させることを許可したことは、不届き至極のことであるに付き、神火をもって高台寺を焼き捨てた次第である。今後、同じようなことをしようとする者が出てくれば、その者らも同罪にして処分するものである」



 春嶽を朝敵と名指ししたり、放火を「神火をもって焼き捨て」と言っているあたり、狂気じみた異常な連中の仕業であることがよく分かります。
 また、春嶽が高台寺を宿舎にしていたからと言って、それを放火すれば事が済むというように考えていたとは、何という浅はかな考え方でしょうか。これを見ても、当時の荒れた京都の様子が非常によく分かるのではないかと思います。
 このような状態下にあった京都の政情でしたから、松平容保がそれを憂い、また何とかその形勢を挽回したいと考えていたことは想像に難くありません。容保が殊更に銃火器などの武器を使っての大きな馬揃えを実施しようとしたのは、こういう連中を牽制、いやもっと大袈裟に書きますと、間接的に威嚇することも視野に入れていたと考えても良いのではないかと思います。

 さて、このようにしていよいよ馬揃え実施の28日当日を迎えることになるのですが、この日は朝から雨が降っていたため、馬揃えは中止・順延となり、晦日(30日)に実施と変更になりました。
 ただ、この30日も当日朝から雨であったので、会津藩側はこの日も順延になるであろうと思っていた矢先、そんな会津藩に対して、急遽、馬揃えを実施するようにとの命が下ります。
 『七年史』には、このあたりの事情を次のように書いています。


「廿八日、雨ふりければ、晦日と定められしに、又も雨なりければ、會藩鈴木多門、御所に詣りて伝奏に謁し、更に操練施行の日を伺ひ参らせたるに、伝奏は本日叡覧の思召なりと申されければ、多門は元より雨天順延の御沙汰なれば、即時に整ひ難しと陳するも、伝奏は承諾の色なかりければ、急ぎ帰りて此由を報せしは、巳の刻なりけり」
(北原雅長『七年史』第一巻より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
「28日は雨が降ったので、馬揃えは30日にと決まったが、この30日もまた雨だったので、会津藩公用局の鈴木多門が御所に赴いて、飛鳥井伝奏に謁見し、「次の馬揃え施行の日はいつになりましょうか?」と尋ねると、飛鳥井伝奏は「本日は中止ではない。本日馬揃えを叡覧なされるということです」と言われたので、多門は「最初の沙汰によりますと、雨天は順延ということではありませんか。それを今から即時に実施せよとおっしゃられるのは、非常に難しいことでございます。」と陳述したが、伝奏はそれを承諾しようとしなかった。なので、多門は急ぎ帰って、その旨を容保公に報告した。時既に午前10時のことであった」



 少し簡単にまとめますと、馬揃えの予定日であった28日が雨で順延し、30日に変更になったのですが、30日当日も雨が降っていたため、会津藩側ではてっきりこの日も雨で順延だと思い、「変更日はいつになりましょうか?」と公用局の鈴木多門を御所に遣って尋ねさせると、伝奏の飛鳥井は「今日は中止ではない。本日実施である」と言ったということです。会津藩としては、最初の勅命に「雨天順延之旨」という言葉があったので、てっきり今日も中止であろうと考えていたので、その衝撃は非常に大きいものでした。
 7月30日当日が雨であったので、馬揃えが順延になるであろうと考えていたのは、何も会津藩一藩だけではありません。馬揃えの当日、御所を警備する命を受けていた因州鳥取藩もまた、そう考えていたことが『贈従一位池田慶徳公御伝記』の中に出てきます。


「二十八日行はせらるべかりし馬揃天覧は、同日雨天に付、御延引仰出され、更に明日は泥濘につき三十日と定まりたるに、是日亦雨天なれば、公、御順延と思はれ松平備前守に赴かれしに、俄かに行はれるべしとの達ありければ、御留守居安達清一郎を伝奏飛鳥井中納言に遣りて伺はれしに、四つ時過天覧あるべしとの事なれば、清一郎急ぎ帰り、用意の人数を促して一同と備前守に至る」
(鳥取県立図書館編『贈従一位池田慶徳公御伝記(二)』より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
「28日に行なわれる予定であった天覧の馬揃えは、同日が雨であったため、延引されることが朝廷から仰せ出され、さらに明日では雨の影響で足元が悪いので、30日に実施されることが決まった。しかし、30日当日もまた雨であったので、慶徳公は今日も順延であると思われて、備前岡山藩主・池田茂政公の所に赴かれたのであるが、「急遽、馬揃えは実施されることになった」との達しがあったことを聞き、慶徳公は留守居の安達清一郎を飛鳥井伝奏の元に遣わしてその事を尋ねさせると、「午前10時過ぎに天覧されることになった」との事であった。なので、安達清一郎は急ぎ帰って、警備の人数を整えて、備前岡山藩の宿舎へと向かった」



 池田慶徳が馬揃えの建議をした張本人であることは以前詳しく書きましたので、もうここでは触れませんが、慶徳は備前岡山藩主・池田茂政と共に、馬揃え当日の御所周辺の警備の任にあたっていました。
 しかし、順延された30日当日が雨であったので、慶徳もまたこの日も中止だと思っていたのですが、急遽馬揃えが実施されるということを聞いて、非常に慌ててその用意をさせていることが分かります。
 このように、会津藩でも因州鳥取藩でも、急遽出された馬揃え実施命令に驚きを隠し得なかったわけですが、30日当日が雨であったにも関わらず、馬揃えが中止にならず、急遽実施されることになったのは、実は裏で尊皇攘夷派の画策があったからなのです。
 『七年史』には、そのことについて、次のように書かれています。


「此日、大雨のみならで、時刻の移れるにも拘はらず、尚操練の厳命ありしは、激家の堂上等、轟武兵衛等と謀りて、其為し得べからざるを知りながら、強て施行を迫りしによれり」
(北原雅長『七年史』第一巻より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
「この日(30日)は、大雨のみならず、また開始時刻も遅れていたにも関わらず、それでもなお操練を実施するように厳命が下ったのは、激派の公卿達が肥後藩の轟武兵衛らと謀って、馬揃えがの用意がすぐに出来ないことを知りながら、強いて施行するように迫ったからである」



 『七年史』にはこのように簡単に書かれていますが、『贈従一位池田慶徳公御伝記』では、その事情がもう少し分かりやすく、そして具体的に書かれています。


「当初御延引の御沙汰なりしに、肥後の士轟武兵衛、会津藩油断せるならんと思ひて急に天覧あらんことを激派諸卿に説き、其不整頓なるべきを理由に守護職を交迭せんとの策略に出でたり」
(鳥取県立図書館編『贈従一位池田慶徳公御伝記(二)』より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
「当初は雨であれば順延との御沙汰であったので、肥後藩の轟武兵衛は、会津藩がそのことに油断していると思い、急遽天覧の馬揃えが実施されるように、尊皇攘夷派の公卿達に説いてそれを実施させ、会津藩が馬揃えを上手く執り行なうことが出来なければ、それを理由に守護職を更迭させようとの策略に出たのである」



 このように、当初馬揃えは雨天順延の予定だったはずが、急遽中止ではなくなり、会津藩に馬揃えを行なうように命令が下された理由は、尊皇攘夷派が会津藩の馬揃えを失敗に終わらせようとする謀略があったからなのです。
 また、これらの記述から考えると、尊皇攘夷派は会津藩の馬揃えに関して、非常に神経を尖らせていたことがうかがわれます。以前にも書きましたが、この馬揃え実施が「大和行幸・攘夷親征」に与える影響を、尊皇攘夷派の面々が危惧していたからに他ならないでしょう。会津藩の馬揃えを何とか失敗に終わらせて、それにより会津藩を失脚させ、そして大目的である「大和行幸・攘夷親征」を実現させたいという考えが、彼らにはあったと思われます。

 さて、このような形で急遽馬揃えの実施命令を受けた会津藩ですが、藩内でもその命令を受けるか否かで、相当もめたことが公用局の一員であった広沢富次郎の記した『鞅掌録』という日誌の中に出てきます。
 しかし、最終的には、藩主容保を先頭に用意を整え、立派に馬揃えを実施することになります。
 『京都守護職始末』には、その時の馬揃えの様子が次のように書かれています。


「隊伍粛々として、御所の西北をめぐって連兵場に出た。その場所は建春門の北数十歩の所で、高いところに天覧所を設け、聖上の御席とし、公卿、諸侯が左右に居流れて陪覧することになっていた。各官位の品等に従って席順がきまる。わが君臣は、雨をいとわず、泥濘を踏んで、馳駈、進止の操練を一周すませると、すでに暮方となった」
(山川浩『京都守護職始末・旧会津藩老臣の手記1』より抜粋)



 また、『贈従一位池田慶徳公御伝記』には、次のように書かれています。

「松平肥後守手兵を指揮して、操練を行ふ。号令よく行はれ、些の遣算なし。夜に入り篝火を点ぜられしも、暗黒にして分明ならざれば、戌の刻に及びて、今日は是限りにて御用捨、又追てと仰出さる」
(鳥取県立図書館編『贈従一位池田慶徳公御伝記(二)』より抜粋)



 比較的平易な文章なので現代語訳にしませんでしたが、急遽の実施命令ではありながらも、会津藩の馬揃えの出来が非常に素晴らしかったことが、これら二つの記述からも分かるかと思います。
 『七年史』によると、「操練に従事したるは、申の下刻なりけり」と書かれていますので、会津藩の馬揃えは、午後五時過ぎ頃から始まったことになります。
 また、『贈従一位池田慶徳公御伝記』に書かれてあるように、夜に入ってからも篝火を焚いて操練が続いたのですが、暗くて見づらくなったので、午後八時頃になって、「今日はこれまでにして、後日また行なう」ということになりました。
 会津藩の馬揃えが、7月30日、8月5日の計二回に渡って行なわれることになったのは、こういう理由からであったのです。
 そして、一回目の馬揃えに成功した会津藩は、次回の馬揃えをもっと大々的に行うことを目論むのです。


(15)に続く




次へ
(15)会津藩の「天覧の馬揃え」C



戻る
(13)会津藩の「天覧の馬揃え」A



「テーマ」随筆トップへ戻る