(写真)山内容堂誕生地
山内容堂誕生地(高知県高知市)




(第1回「大名の終焉 −山内容堂の抵抗−」)
 山内容堂(やまのうちようどう)と言えば、「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と自らを称し、酒と詩をこよなく愛し、そして、歴史的な大偉業である大政奉還の建白を推進した人物として非常に有名です。
 ただ、山内容堂という人物が、元々は土佐藩主の座に就けるような出自の者でなかったということは、意外に知られていないのではないでしょうか。

 土佐藩第15代藩主・山内容堂は、土佐山内家の一門であった南屋敷山内家の当主・山内豊著(やまのうちとよあきら)とその妾であった平石氏との間に生まれた子供でした。
 隠居して後、容堂と名乗る前は、彼はその名を豊信(とよしげ)と名乗り、1500石取りの分家の出身だったのです。
 その分家出身である容堂が突然藩主候補に挙がったのは、第13代藩主・豊煕(とよてる)と第14代藩主・豊惇(とよあつ)が相次いで急死したことが原因です。

 嘉永元(1848)年7月10日(実際は6月16日)、豊煕は病気のために江戸で急死しました。土佐藩は急遽豊煕の子の豊惇を末期養子として幕府に届け出たのですが、その豊惇までもが、9月18日に突然急死してしまったのです。
 豊惇の土佐藩主就任が幕府に認められたのが9月6日のことでしたので、豊惇の藩主在任期間は、わずか12日という異例のものでありました。
 当然、将軍のお目見えも未だ済まさない内に、わずか12日で藩主が急死してしまった土佐藩は、「お家断絶・領地没収」という藩自体の存亡にも関わる危機に陥ったのです。
 次の藩主候補であった豊惇の実弟・豊範(とよのり。後の16代藩主)は、当時わずか三歳の幼児に過ぎなかったことから、土佐藩としては、急遽豊範に代わる藩主候補を探さなくてはならなくなりました。ここでクローズアップされたのが、一門である南屋敷山内家の山内豊信(容堂)であったのです。
 この時、豊信は22歳の若者でした。

 豊信の土佐藩主就任をバックアップしたのは、薩摩藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)や福岡藩主・黒田長溥(くろだながひろ)、宇和島藩主・伊達宗城(だてむねなり)といった大名達でした。
 島津斉彬に関して言えば、まだ当時世子の身分に過ぎませんでしたが、彼は土佐藩第13代藩主山内豊煕夫人の知鏡院の兄にあたるため、斉彬の大叔父であった黒田長溥と、そして、斉彬と交流の深かった伊達宗城と共に、幕府の老中首座・阿部正弘に積極的に働きかけ、豊信の土佐藩主襲封を実現するべく手助けしたのです。
 それを受けた阿部正弘を中心とした当時の幕閣は、最終的に豊惇の隠居(実際は死去していたが)と豊信の藩主就任を許可し、嘉永元(1848)年12月27日、豊信は晴れて土佐藩第15代藩主の座に就任しました。
 このように、非常に異例のことながらも、容堂が土佐藩主に就任出来たのは、山内家の縁戚であった島津斉彬らの強力な後押しと阿部正弘を中心とした幕府閣僚の大きな後ろ盾があったからだと言えましょう。
 後年、容堂は自らの突然の藩主就任について、次のように語っています。


「璋(しょう。容堂の字)もと布衣韋帯(ほいいたい)、性読書を好まず、山水に放浪し飲酒日に消す。豈はからんや、弱冠誤って王臣の員に備わり、以て南州太守に薦めらる。是より後政に関与し、物事に接し、事を議するに昧乎して遅疑し剖決する能わず。面熱し汗下り、頗る前非を悔い、是を以て始めて読書を知る」
(平尾道雄著『山内容堂』より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
「自分は元々たかだか六位の官職を持っていた者に過ぎず、性格は読書を好まず、毎日ぶらぶらと過ごしては、酒ばかり飲んでいる日々を過ごしていた人間である。それがどうしたことか、若年にもかかわらず、ひょんな事から王臣の身分に加わり、土佐藩主に就任することになった。これより藩政に関わるようになったのだが、あらゆる政治の問題に関して、事を議決し、決断するにあたって、色々迷いが生じて、決断が鈍くなり即決することが出来なかった。このことに関して、自分自身のいたらなさに顔は赤面し、汗が吹き出すほどであった。そのため、若い頃酒色に溺れた日々の過ちを悔い、この時から初めて読書するということの大事さを知ったのである。」


 後年は「賢侯」と呼ばれ、詩才豊かな知識人であった山内容堂も、自分自身が藩主に就けるような身分ではないと考えていたので、若い頃は読書を好まず、毎日酒を飲んでは日々を過ごしていたこと。そして、突然藩主に就任しなければならない事態になり、青年期の怠惰な生活を自らを恥じて、悔い改め心を入れ直したこと。このような容堂の心境が、この後年の回顧録から伝わってくるのではないかと思います。
 このように、思いもかけなかった藩主への就任が、容堂自らの人生のターニングポイントとなり、その人生を大きく変えることとなったと言えましょう。

 慶応3(1867)年12月9日、京都御所内の小御所で行なわれた会議、いわゆる「小御所会議(こごしょかいぎ)」の席上で、当時倒幕を目指していた薩摩藩や長州藩、そして両藩に後押しされた公卿達に対して、山内容堂は最後の最後まで、幕府を擁護する言動や行動を取りました。
 また、小御所会議後に勃発した薩長連合軍と幕府軍との戦い、「鳥羽・伏見の戦い」においても、容堂は自ら率いる土佐藩兵に対して、戦に参戦することを堅く禁じる命令を出したのです。
 このように、容堂が最後まで幕府を擁護し続けたのは、山内家自体が土佐に加増・移封した際、徳川家に多大な恩を蒙っていた経緯があることもさることながら、容堂自らの藩主就任問題に際して、幕府によって温情策が取られたことが、大きな原因の一つであったと思われます。
 また、容堂は元々妾から生まれた分家の血筋である自分自身が、このように藩主に就任出来たのも、全て幕府のお陰であると感じていたからではないでしょうか。

 そしてもう一つ。小御所会議において、容堂自身が強烈なまでに幕府擁護論を展開したのには、もう一つの大きな理由があったからではないでしょうか。
 容堂は、薩摩藩や長州藩が推進する倒幕運動は、容堂ら大名階級をも顧みない下級藩士層の突き上げ運動、つまり一種の階級闘争だという見方をしており、

「ここで幕府を崩壊させてしまっては、もう我々の出番は永久に無くなってしまう……」

 と感じたからではないでしょうか。
 あくまでも推測の域を脱しえませんが、非常に聡明な容堂なら、そこまで考えていたような気が私にはします。また、容堂自身が武市半平太を中心とした土佐勤皇党に対して行なった、非常に厳しい処分を鑑みても、私にはそう感じられるのです。

 結果、最終的に幕府は倒れ、新しい政体である明治維新政府がスタートしましたが、容堂ら大名階級の人々は、閑職や名誉職に就任させられる状況へと追い込まれ、実質上、全ての政治的な実権は、倒幕運動を推進した一部の人々に独占されるような形となってしまいました。
 また、明治4(1871)年7月14日、古今未曾有の改革と言われた「廃藩置県」が断行され、大名という階級ばかりか、最終的には藩の存在までもが消滅してしまうことになってしまうのです。

 幕府の崩壊は、大名の時代の終焉に繋がるということを、賢明な容堂であれば、小御所会議の段階で既に予測していたのではないでしょうか。
 幕府の否定は、自らの大名階級の否定にも繋がると容堂自身は考えており、彼が最後まで幕府を擁護し続けたのには、こういう要素も大きく影響を与えたものと私は感じてならないのです。
 明治後の容堂が、官職には就きながらも、ほとんど政治に積極的に参画することもなく、周囲の諫止をも聞かず、放蕩三昧の日々を過ごしたのは、彼なりの時代へのささやかな抵抗であったのかもしれません。




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