坂本龍馬誕生地(高知県高知市)




(第16回「坂本龍馬暗殺事件について@ −続・薩摩藩黒幕説への疑問−」)
 幕末史上最大のミステリーと言われる「坂本龍馬暗殺事件」に関しては、坂本龍馬を好きな人のみならず、幕末の歴史が好きな人であれば、一度はその暗殺の黒幕について考えたことがあるのではないでしょうか。
 龍馬暗殺の黒幕については諸説色々とあり、通説の見廻組・幕府説に始まり、新選組説、長州藩説、薩摩藩説、土佐藩説、その中には坂本龍馬の妻であるお龍さんの黒幕説まであるようで(笑)、いつも歴史関係の書籍を賑わす話題となっています。

 実は私も十代の頃には、龍馬暗殺事件に関して非常に興味を持っていたことがあり、龍馬暗殺の関連書籍を読み漁ったことがあります。その時はまだ幕末史全体の流れを簡単に知っている程度に過ぎなかったため、龍馬暗殺事件の研究家としても名高い、残念ながらお亡くなりになられましたが、西尾秋風先生の文章などを読んでは、「なるほど、薩摩藩は非常に怪しいなあ……」なんて思っていた時期も正直ありました。
 しかしながら、薩摩藩の幕末史に少し詳しく触れるようになってからは、当時の薩摩藩が置かれていた状況を考えると、薩摩藩黒幕説は非常に無理のある説だと考えるようになったのです。

 以前、私は薩摩藩黒幕説が余りにもテレビや雑誌で取り上げられることに反発し(特に西郷隆盛や大久保利通を黒幕としたもの)、「龍馬暗殺の黒幕・薩摩藩説への疑問」という「テーマ随筆」を書いたことがあります。
 ただ、最近どうも薩摩藩黒幕説を支持される方々がたくさんおられるようでして、以前に放映されたNHKの歴史番組「その時歴史が動いた」においても、さも西郷が黒幕であるかのように匂わせる部分がありました。
 まず、私は感情論から言っても、「西郷に限って、龍馬を暗殺するという姑息な手段を使うはずがない」と考えていますが、以前に書いた「テーマ随筆」では、その感情論を抜きにして、当時の西郷・大久保ら薩摩藩倒幕派首脳部が龍馬暗殺に関与する余裕のない、非常に切迫した状況に置かれていたことを中心に、冷静に薩摩藩黒幕説への反論を書いたつもりです。
 「テーマ随筆」本文を読んで頂ければ少しは分かって頂けると思いますが、当時の薩摩藩は、龍馬の暗殺に関わっているどころの状況にはなかったと言えましょう。当時、倒幕を目指していた西郷と大久保の苦労が並々ならぬものであったことを、是非、私の「テーマ随筆」と本稿を併せ読んで知って頂ければと思っています。

 さて、私が「龍馬暗殺の黒幕が薩摩藩ではない」と考える一番の大きな理由は、当時、倒幕を目指していた西郷や大久保ら薩摩藩首脳部は、「藩主の島津忠義の上京」と「薩摩藩兵の京都出兵」という重要な二つの問題(課題)を抱えており、その状況は極めて切迫していたため、龍馬の暗殺などという諸事に関わるほどの余裕は持ってはいなかったという点からです。
 「テーマ随筆」にも書いていますが、龍馬暗殺約一ヶ月前の慶応3(1867)年10月17日、西郷と大久保が共に鹿児島に向けて帰国したのは、龍馬暗殺の命令を下したために雲隠れしたわけではなく、国許つまり薩摩藩から兵隊が出兵されてこないことに焦りを感じていたためです。
 当時の西郷と大久保は、藩主不在の京都における現状の兵力では、倒幕に持っていくことが出来ないという認識と大きな危機感を持っており、何としてでも薩摩藩の藩論を倒幕に向けて一本化し、「藩主の島津忠義の上京」と「薩摩藩兵の京都出兵」という二つの重要課題を実現させるために、薩摩に向けて帰国したのです。
 つまり、西郷と大久保の帰国は、藩論統一のためであったのです。

 薩摩藩と長州藩の間では、慶応3(1867)年9月19日に倒幕のための出兵に関する協定(約定)が結ばれていました。これは大久保自身がわざわざ長州にまで出向き、長州藩関係者との間で相談し取り決めたものです。
 この出兵協定によると、国許から出兵した薩摩藩兵はまず長州領内の三田尻(現山口県防府市)に集結し、そこで長州藩兵と合流して、共に上京するというものであったのですが、大久保が出兵を約束したはずの薩摩藩兵が、待てど暮らせど長州に到着しなかったのです。薩摩藩兵の早期出兵が実現しなかったのは、当時の薩摩藩内が出兵推進派と出兵自重派に分かれて藩論が二分し、対立していたためです。
 非常に誤解されるポイントですが、慶応3(1867)年10月当時の薩摩藩内は、倒幕に向けて藩論は一本化されていませんでした。
 よく薩摩藩と言うと、藩論がいつも統一され、倒幕に向けて一致団結して動いたかのようなイメージを持たれますが、実際の藩内は分裂状態にあり、しかも西郷や大久保らの倒幕派の方がややもすれば少数派であったという事実を正確に理解する必要があると思います。また、実際に出兵の判断を下す島津久光自身もまた、この段階では未だ倒幕のための出兵に関しては懐疑的な考えを持っていたと思われます。
 このような理由から、大久保が想定していた薩摩藩兵の出兵はすぐには実現しなかったため、薩長両藩が取り結んだ薩長両藩兵上京計画は、慶応3(1867)年10月に入って一旦延期せざるを得なくなったのです。

 西郷や大久保が、幕府つまり将軍である徳川慶喜を政治的にいくら追い詰めたとしても、当時の慶喜は依然として多数の兵力を保有していたため、その兵力が無言の圧力となり、物を言うことになりかねません。そのためにも、西郷や大久保としては、一刻も早く薩長両藩兵の上京を実現させると共に、藩主・忠義も上京させたいと考えていました。
 慶応3(1867)年10月14日に「討幕の密勅」を得ながらも、依然として国許薩摩の藩論が倒幕に一本化出来ていない現状に、当時の西郷や大久保の焦りはピークに達していたと言えましょう。
 特に、この当時大久保が発信した書簡には、薩摩藩兵出兵が実現しないことへの焦りがあらわれたものがいくつか残っています。それは当然のことでしょう。大久保自ら長州にまで出向き、出兵を約束したわけですから、それを破ると言うことは、自らの信用問題どころか、薩摩藩自体の信用問題にも繋がると考えられたからです。
 薩摩藩と長州藩は色々な事件の積み重なりから、お互いが犬猿の仲と言われるまでその関係が悪化した経緯がありますから、薩摩藩が出兵の約束を反故にすることは、慶応2(1866)年に結ばれた薩長同盟以来、ようやく良好になりつつあった両藩の関係に大きな支障をきたすとも考えられました。
 少しさかのぼりますが、大久保が長州藩との間で出兵協定を結ぶ三日前の慶応3(1867)年9月16日、当時鹿児島に居て久光の側役を務めていた田尻務(たじりつとむ)、蓑田伝兵衛(みのだでんべえ)の両名に対し、長州藩との協定内容についての報告を行なう書簡を出しています。
 その書簡の中で大久保は、次のように書き記しています。


「太守公断然御出馬御決定、下々一同奉畏伏候様、御確定之処肝要之事ニ而、御内評有之通之事ニ御座候間、尚御差含御尽力奉祈上候」
(『鹿児島県史料・玉里島津家史料五』より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
「太守公(藩主忠義のこと)が断然ご出馬を決定され、下々一同の者共がその決定を畏れ伏して受け入れるように決められることが肝要でございますので、長州藩との取り決めはこの書簡に記した通りですから、その意を含んで尽力して頂きますようお願いいたします」



 大久保が田尻と蓑田に対して、藩主・忠義の上京と薩摩藩兵の京都出兵を実現させるためへの尽力を頼んだのは、ひとえに彼らが久光の側役を務める重臣であったためです。
 つまり、薩摩藩兵の出兵に関しては、久光の考えや意向が非常に重要なポイントであったため、大久保は二人を説得することにより、久光の出兵への承諾を得ようと考えたのです。
 また、大久保はこの書簡を西郷や大久保の後援者であった家老の桂久武にも見せ、薩摩藩の出兵決定に尽力してくれるように伝えて欲しいと書いています。また、この書簡の他にも、当時の西郷や大久保の書簡には、いち早い藩主の上京と京都出兵を促す内容が記されたものが存在しており、これらから考え合わせると、当時の二人の焦燥感が分かるのではないでしょうか。

 これまで述べてきたように、当時倒幕を目指していた西郷や大久保の一番の大きな悩みの種は、薩摩藩内の「藩論の問題」であって、龍馬の存在では決してありませんでした。

「倒幕に際しては龍馬の存在が邪魔になる」
「龍馬を暗殺すれば倒幕がスムーズにいく」


 などという、安易な考えなど毛頭持ち合わせてはいなかったでしょうし、それどころかそんな悠長なことを考える余裕も無い、極めて切迫した状況にあったと言えましょう。
 西郷と大久保という薩摩藩倒幕派の首領である二人が、同じく家老の要職についていた小松帯刀と共に、政治的に重要な拠点であった京都を留守にしてまでも帰国したこの異常な事態を考えれば、二人の危機感や切迫感がより一層理解出来るのではないかと思います。

 巷では薩摩藩が、

「倒幕に向けての運動に龍馬の存在が邪魔になった」
「大政奉還を成し遂げた龍馬の存在を疎ましく思っていた」


 とよく言われますが、薩摩藩にとっては、龍馬の存在自体が倒幕に向けての大きな障害(支障)になっていることは無かったと思います。(そのようなこと示す薩摩藩関係者の書簡も目にしたことがありません)
 確かに、武力倒幕を推進する薩摩藩や長州藩にとっては、大政奉還運動を推進した龍馬が武力倒幕を回避させるかのように、ちょこまかと動くことは迷惑であったかもしれませんが、それら龍馬の動きに藩の方針自体が影響を受けるほど、当時の薩摩藩という藩の存在は小さくもなかったと言えましょう。
 つまり、龍馬一人がどう動こうとも、西郷や大久保の胸に秘めた倒幕への並々ならぬ決意は不動のものであったと思います。
 それに加えて、龍馬一人を暗殺したからと言って、「武力倒幕が成りやすくなる」などという、非常に安易な子供じみた考え方を当時の西郷や大久保が持っていたとは、彼らの性格を考慮しても到底考えられません。
 また、その龍馬自身も大政奉還が上手くいかなかった場合には、「武力倒幕も已む無し」という考えの持ち主であり、龍馬自身が何が何でも戦争を回避するという考え方ではなかった、つまり場合によっては「武力倒幕もありき」の考え方であったと、当時の龍馬の書簡などを読んでいるとそう感じられてなりません。

 以上のようなことから考えると、龍馬の動きは薩摩藩にとっては迷惑だったかもしれませんが、薩摩藩の動きを停滞させるほどの悪影響を与えていたわけもなく、暗殺するほどの悪印象も持っていなかったと考えた方が適切ではないかと思います。
 もし龍馬が推進した大政奉還運動そのものが、薩摩藩の恨みを買っていたと仮定したとしても、それならば龍馬よりも、その運動の中心にいた土佐藩の後藤象二郎を暗殺すれば話はより容易に解決がつき、効果もあったのではないでしょうか。薩摩藩にとっては、龍馬よりも後藤こそが目の上の大きなたんこぶであったからです。
 詳しくはここでは書きませんが、武力倒幕を進めていた大久保、そして家老の小松までも、後藤に説き伏せられ、大政奉還案を推進することを承諾させられています。この当時の後藤の知略や行動力というものは、ほんとうに感嘆に値すると思います。

 このように、薩摩藩にとっては後藤は迷惑至極な者であったにもかかわらず、そんな後藤に刺客を差し向けることなく、わざわざその脇にいた龍馬を暗殺するメリットは、薩摩藩にはほとんど無いに等しいと言えましょうし、逆に正式な土佐藩士であった龍馬を暗殺することへのデメリットの方が大きかったとさえ思います。
 そしてもう一つ、龍馬が暗殺された慶応3(1867)年11月中旬には、土佐藩が推進した大政奉還運動は既に形骸化していたということも重要なファクターであると私は考えています。
 幕府が大政奉還により、既に朝廷に対して政権を返上していたにもかかわらず、依然として薩長両藩は政治的に幕府を追い詰め、武力での倒幕を主眼として準備を着々と進めていました。つまり、薩長は(正確に言えば、当時京都に居た西郷や大久保、そして長州藩関係者)、大政奉還後もなお武力倒幕への路線を諦めてはいなかったのです。
 薩長両藩首脳部が大政奉還後も武力倒幕の路線変更を行なわなかったのは、簡単に表現すると「大政奉還では真の改革(革命)は成就しない」という考え方を彼らが持っていたからだと思います。将軍が政権を返上したとは言え、幕府は依然として広大な領土と莫大な兵力を引き続き持ち続ける以上、朝廷を中心とした新たな政治体制の構築は難しい、つまり最終的な革命は成就し難いと彼らが考えていたからだと思います。
 大政奉還後、幕府からの政権返上を持て余した朝廷内に、再び幕府に政権を委任しても良いのではないかとの意見がちらほらと起こり始め(慶喜はこの効果を狙って大政奉還に踏み切った可能性も高いと思われます)、このままではまた幕府が政権を再び掌握し、結局この革命自体が形骸化してしまうことを、西郷や大久保ら薩長両藩の首脳部は恐れていたからだと考えられます。
 以上のような状況を考えると、薩摩藩が大政奉還を成し遂げた龍馬の存在自体が邪魔になる理由はなく、龍馬が居ようが土佐藩がどんな運動を起こそうが、薩長両藩としては、何としてでも武力倒幕を成し遂げる強い決意を固めていたのです。
 つまり、この点から言えば、龍馬を暗殺する動機自体が薩摩藩には非常に小さいものと私は考えるのです。


Aに続く




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